職務放棄






 天国の父さん、母さん。
 俺はこのままそっちに行けるかもしれません。

「きたきたきたきたあ…!」

 隣に座った秋音ちゃんが、それはそれは楽しそうに声を上擦らせている。
 目の前には、空。雲ひとつない快晴だ。俺たちはゆっくりとその空に向かって昇っている。

「いやあ、いい天気だねえ」

 逆隣に座る詩人はいつも通り子供の落書きのような顔でのほほんとのたまっている。お茶でも飲んでいそうな雰囲気ではあるが生憎状況はそんな穏やかなものではない。

「どうした夕士、顔がひきつってんぜ」

 秋音ちゃんの更に向こう側に座る画家がにやにやと笑うが、それに反発するだけの余裕が今の俺には皆無だ。
 座席はゆるゆると頂点を目指す。やがて視界を遮るものが何一つなくなり、束の間、不自然な沈黙があった。
 そして。

「きゃああああああああああ!!!」



 いっそ、俺も悲鳴を上げられたら、いくらか楽だっただろうか。








 遊園地に行こう、と言い出したのは以外にも詩人だった。
 いや、元をたどれば、もうすぐ訪れる彼の誕生日に、まだ学生である俺と秋音ちゃんが共同で何かを贈ろうと話していたのが発端だ。しかし相手は「あの」一色黎明。何を贈れば喜んで貰えるのか皆目見当が付かなかった。そも彼に物欲というものがあるのかさえ謎だ。下手なものを贈るより酒のひとつでもあればいいのではないだろうか。そう思ったのだがそれは秋音ちゃんに却下された。

「そういうのは、私たちが大人になって、一緒にお酒を楽しめるようになってからの方がいいと思うのよ」

 至極もっともだったので俺も納得したが、ではどうするか。話が振り出しに戻ったその時、丁度何処かからか帰ってきた画家が話に混ざり、いっそ本人に聞いてみたらどうかと言ったのだ。
 サプライズよりも確実に喜んで貰える事を優先し、俺たちはその案に乗った。
 そして前述の結果である。

「ほら、よく言うでしょ?物より思い出」

 何が欲しいか聞かれた詩人は最初こそ驚いた顔をしたものの、いつも通りへらりと笑って言った。

「アタシと、秋音ちゃんと、夕士君と、ついでに深瀬で」
「俺もかよ」
「ああいう場所は偶数の方がいいでしょ。ああ、あと財布代わりに」
「そっちがメインだろ!」
「だってアタシの誕生祝いでしょ?子供たちに出させるには大きい出費だし、いいじゃない」
「ったく…しょうがねえな」
「あたし、自分の分は自分で払うよ?」
「俺も」
「馬鹿。ガキが変な遠慮してんじゃねえ。いいぜ、ついでに車も借りてきてやる。財布でもアッシーでも何でもきやがれ」

 かくして俺たちは、深瀬画家の運転する車で最寄りのテーマパークを訪れたのだった。








「天国が見えた気がする…」
「うわあ夕士君大丈夫?」
「なっさけねえなあ」
「あははは、見事にかたまってたもんねえ」

 俺自身、得意ではないだろうとは思っていたがここまでとは。詩人のように超高速で振り回されながら「いやあ絶景絶景」と言うまではいかなくても、画家のように腕組んで踏ん反り返るまではいかなくても、秋音ちゃんのせめて半分くらいは楽しめるんじゃないかと思っていたが甘かった。
 人生初のジェットコースター体験は、一瞬の臨死体験となった。

「しょうがねえな、何か飲み物買って来てやるよ。何がいい」
「え、と…レモネード」
「アタシ、冷たい紅茶」
「えっとあたしはー」
「秋音はつき合え」
「ええ、何で!?」
「どうせ連れ歩くなら女の方がいい」
「なるほど。了解」

 実に単純で明快な人たちである。ベンチにへたり込みながらも思わず笑ってしまった。

「そんなに苦手なら言ってくれればよかったのに」
「いえ、言ったとしても明さんがいますからね、結局乗る事になってたと思いますよ。それに、俺自身こんなに苦手だって知らなかったんす」
「ああ、初めてだったのネ」

 どうせだからと楽しそうに画家の腕を取った秋音ちゃんたちを見送って、俺は特大の溜息を吐き出した。そんな俺を、詩人がおかしそうに笑っている。
 俺はふと、ずっと気になっていた事を口にした。

「一色さん、何で遊園地だったのか聞いてもいいっすか」

 詩人はことりと小首を傾げる。いい歳したおっさんの筈なのにそんな仕草がやけに似合うのが不思議だった。

「思いつき?」
「は?本当に?大した理由もなく?」
「…アタシ、どうも昔から物欲ってものがなくてねえ」

 あの日、俺たちに欲しいものを聞かれて困ってしまったのだと詩人は頭を掻いた。
 今日の詩人はいつもの甚平姿ではなくカーゴパンツにTシャツ、その上にベストという―――少々若造りだろうが実年齢を知らなければ―――至ってありふれた出で立ちだった。詩人がこういう服を持っていた事にも驚くが、こうしてみると詩人は至極普通の青年に見える事が俺には新鮮だった。
 その詩人は困ったと言う割に機嫌よく笑っている。

「でもそれ以上に嬉しくてね、あーもうこの子たち纏めて袋に詰め込んで部屋に置いときたいわーと」
「いや、こえーっす」
「冗談ヨー」

 本当だろうか。

「でね、考えてみたらアタシらって一緒に外に出る事ってあんまりないじゃない。アタシも深瀬も、君たちも含めてあのアパートの住人は家族みたいなもんだけど、だから一緒にいなきゃ、みたいな馴れ合いとか依存とか、そういったものには無縁だからねえ」
「言われてみれば、一匹狼の群みたいっすよね」
「そうそう、みんな独自の世界で好き勝手にやってるからね。それが交わらないのがアタシらのいい所なんだと思うけど、でもたまにならいいかなーって思ったのヨ」

 詩人は俺の隣に腰を下ろす。

「たまには、うちの子らを全力で可愛がってもいいんじゃないのって」

 俺より低い位置から見上げてくるその視線は、どこかくすぐったくなるような暖かさがあった。

「特別なものなんていらないわ。いつも通り笑ってる君たちがいればいいのヨ」

 からからと笑いながら、詩人は優しい言葉を吐く。
 落書きのような顔は年齢を感じさせないがこの人はやはり大人の男なのだ。こんな場所だからだろうか、父親という存在をいやに思い出す。似ても似付かない外見の筈なのに、記憶の中にあるその面影が重なって見えて俺は狼狽えた。
 そんな俺に何を思ったのか詩人が俺の頭をわしわしと掻き回す。

「夕士君」
「…何っすか」
「楽しい?」
「…っす」
「ならよかった」

 その手はとても優しかった。











「ただいまー、ってアレ、夕士君は?」
「おかえり、夕士君ならホラあそこ」
「ああ?何やってんだ、あいつ。どこのガキ担いでんだ?」
「迷子だよ。声かけたら張り付かれちゃったみたいで、今保護者の方を捜索中」
「係員に預けりゃいいのに」
「そこが夕士君のいいとこじゃないの。あたし手伝ってくるね!」
「おー行ってこい行ってこい」
「ははは、若いっていいねー」
「まったくだ」
「本当に、困っちゃうねえ」
「あん?」
「うちの子たち、何であんなにいい子なのかなあ」
「……親馬鹿」
「深瀬」
「んだよ」
「顔緩いよ」
「………」














(このいとおしさを余すことなく伝える為の言葉などきっとない)