授業の後、千晶の仕事が終わるのを待ってふたりで寿荘に帰る事になった。
 朝に龍さんが、同調の具合を見せに来て欲しいと言った為だ。
 俺たちを前にして、龍さんは難しい顔で黙り込んでしまった。俺たちの胸の前に手のひらを翳して何事かを唱えるがやがて困ったように後ろ頭を掻く。
 どうやら俺たちの同調は丸一日以上経った今でも切れずにいるらしい。

「参ったなあ…実は日常に支障をきたすと思ってシンクロを解除しようとしてみたんだけど…」
「出来なかったんすか?」
「ごめん、ここまでがっちり絡まってしまっていると、無理矢理解除するのはかえって危険なんだ。精神を傷つけかねない」
「え、そんなにがっちり絡まってんだ…」

 何やら微妙に照れ臭い。だがきっとそのお陰であの騒動を乗り切れたのだろう。千晶には巻き添えを食らわせてしまったが、皆が無事に済んだのだ。今は千晶の調子も良さそうだし、大目に見て貰おう。
 しかし気になる事があった。

「あの龍さん、シンクロによる日常の支障って例えばどんな?」
「一番は相手の体調に引っ張られるって事かな。今は夕士君の精神が強く作用して、先生も調子がいいようだけど、勿論逆もあり得る」

 その言葉に敏感に反応したのは千晶だった。

「それは…困るな。自分の事だけならともかく…」
「ともかくじゃない。普段から体調管理に気を使えよ虚弱体質」
「…なにげに酷いな」
「後は、シンクロ状態に慣れてしまうと、互いの心の声が聞こえたり」
「げ」

 今度はふたりの声が揃った。
 それは確かに勘弁願いたい。心の声なんて聞きたくも聞かせたくもないものだ。俺は自分で言うのも何だがいわゆる「お年頃」と言う奴だし、千晶だっていい大人だ。俺みたいな子供に聞かせられない事だって色々あるだろう。
 揃って苦い顔をしていると、龍さんは更なる追い打ちをかけてきた。


「恋に落ちてしまったり」


 俺は目を剥き、千晶は盛大に噎せた。あまりに噎せ過ぎて最終的にはテーブルに突っ伏してしまう。
 俺はと言うと隣に座っている千晶の反応が過剰で、逆に冷静になれた。

「えーっと、相手おっさんでも?」

 勿論男の俺から見ても千晶はいい男だ。だがそれはあくまで憧れや羨望のようなもので恋愛に繋がる感情ではない。と、思いたい。
 千晶からすれば俺なんて本当にただの子供にしか見えないだろう。生徒でもあるし、庇護の対象でしかないものに果たしてそんな感情を覚えるだろうか。
 千晶の背をさすりながら訊ねると、俺の逃げ道を塞ぐように龍さんは呆気なく頷く。

「この場合性別や年齢は関係ないよ。心と心が直接触れ合っているわけだから、お互いの距離は自然と狭まる。そうなると錯覚にしろ本心にしろそういう感情も芽生えやすい」
「なるほど」
「いや、なるほどじゃねえだろ!」

 涙目である。
 確かに予想外だし、逃げ道も塞がれてしまったがそんなに心配しなくても、例えそういう気持ちになった所でそれは錯覚だと分かっていればどうにでもなるのではないか。
 この場合一番注視すべき点はやはり互いの心の声が聞こえる云々だと思うわけで。

「シンクロを切る方法って、何かないんですか?」
「うーん…さっきも言った通り、強制的に解除する事は出来るよ。でもそれは君たちの場合危険だから却下。そうするともう自然に切れるのを待つしか…」
「自然にか…」

 話を聞く所によると、一日で切れる事もあれば一週間かかる事もあり、また一年経っても切れない事もあるそうだ。
 何とも不確かで厄介な話である。
 三者三様唸っていると、ふいに龍さんがあ、と声を上げた。

「そうだ」
「何です?」
「シンクロって、一般人でもする瞬間があるんだ。そしてそれはほんの一瞬ですぐに切れる。ジェットコースターみたいな感じかな。同時に上り詰めて一気に散らす。それに合わせたら一緒に切れるかも」

 龍さんの解説に嫌な予感しかしないのは何故だろう。
 俺は恐る恐る伺った。

「…あの、それって…」
「セッ」
「却下あああああああああ!!」

 見ろ。
 千晶が灰になっている。




 結局、放置しておくのが一番という結論に至った。
 強制的に切る事が出来ない以上、それしか方法はないのだから―――龍さんの言うアレは問題外だ―――仕方がない。
 後は心の声が漏れてしまわないように、普段の生活で出来る限りの平常心を保つ事を心掛ければいいようだ。感情の振れ幅が大きいとその分心は外へ向き、リンクしてしまい易くなるらしい。

「何か、とんだ事になっちまったなあ」

 るり子さんの夕食を、千晶を交えて皆で食べた後その千晶を見送りに出る。
 あの話を聞いた直後こそぐったりとしていたものの、途中から腹を括ったのか開き直ったのかヤケクソになったのか、すっかりいつもの調子を取り戻していた。アパートの住人たちと意気投合して笑う千晶はとても楽しそうだった。
 クリは最初千晶を警戒していたようだがすぐに馴れた。そして馴れてしまえばうちの子はそりゃあもう可愛いので、千晶などかなう筈もなく見事に籠絡。クリと一緒に抱き締められた時はどうしてくれようと思った。

「まあ、シンクロ云々の話はなるようにしかならないみたいだし、悲観してたってしょうがないだろ」

 車に乗り込みながら千晶は苦く笑う。俺に付いてきたクリは車が珍しいのか、そのドアを興味深げにぺたぺたと触った。

「こらクリ、悪戯しちゃ駄目だぞ」
「構わねえよ」

 クリを抱きかかえる俺を千晶は喉の奥で笑っている。その笑い方がいやに穏やかで、瞬間落ち着かない気分にさせられた。
 運転席から腕を伸ばした千晶はクリの頭をくしゃりと撫でる。

「ここに来る事が出来てよかった」
「え」
「いいアパートだ、ここは」

 嬉しい、と思った。
 自分の事を褒められたように嬉しい。この普通とは少し違うアパートとその住人たちが俺は大好きで、その大好きなものを褒められると言うのはこんなにも嬉しい。
 ふと思い出すものがあった。そうだ、長谷を初めてここに招いた時も、確かあいつはこんな穏やかな顔をしていた。
 まるで、愛しいものを見るような――――。


「お前が、自然に人に優しく出来る理由がわかった気がするよ」


 あれ、何か、違う。

 クリに向けられていた目がそのまま、俺を見た。
 クリを撫でていた手がそのまま、俺を撫でる。


 何か、ヤバイ気がする。


「変わらないでいてくれよ」


 千晶は笑う。
 まずくないか、これ。いや、多分、まずい。
 いとしい、と言う感情が、流れ込んでくる。これは千晶の感情なのか、それとも流れ込んでくるというのが錯覚で、俺から生まれているものなのか。
 千晶から、目が逸らせない。
 頭を撫でていた手が、するりと頬に落ちてくる。感触を確かめるように、手のひらは何度も、頬の上を滑った。



「お前の優しさが、俺には愛しい」



 そういう千晶の声こそ、優しさに満ち溢れている事を、この男は自覚しているのでしょうか。

 じゃあな、おやすみ、と言う低い声とエンジン音を残して、千晶は帰っていった。俺はクリを抱えたままその場にしゃがみ込む。


 いやいや。

 いやいやいやいや。

 ないないないないないない。


 落ち着け俺。黙れ心臓。いや、黙ったらまずいな。とにかく冷静になれ。平常心だ。対応策はそれしかない、と龍さんも言っていたじゃないか。これは同調の所為だ。同調から生まれた錯覚だ。千晶に対する感情は憧れや羨望のようなもので、恋愛に繋がるものじゃない。大丈夫だ、それだけわかっていれば流される事はない。
 と、信じたい。心の底から。

「頼むから…」

 幕は閉じたと思っていたあの神々の騒動。しかしどうやら彼らはとんでもない置き土産をしていってくれたようだ。
 彼らにしてみれば濡れ衣もいい所かもしれないが、これくらいの八つ当たりはどうか許して欲しい。



「早く切れてくれ…ッ!!」



 切実に切迫した俺の独白。
 抱き込んだクリが不思議そうな顔をして俺の頭や頬を撫でる。千晶の真似をしているのかもしれない、と思ったら余計に居たたまれなくなった。






 まったくもって、笑えないカーテンコールである。