目を覚ますと至近距離に千晶の顔があった。 危うくあげそうになった悲鳴を辛うじて飲み込んだ俺は全速力の鼓動を落ち着かせる為に起きたばかりの頭をフル回転させる。 俺の部屋。 俺の布団。 で、熟睡している担任教師。 しかも腕には、俺、in。 意味が分からない。 鼓動は収まってきたが、状況の不可解さは変わらなかった。 時計を見れば朝行の時間だ。とりあえず日頃の習慣をこなそう、と俺は千晶の腕から抜け出して風呂場に向かった。 「おや、今日もやるのかい、感心だね」 桔梗さんの付き添いの元、滝行を済ませた頃には思考がクリアになっていた。 徐々に昨日の事を思いだす。 終わったんだな、と思って俺は空を見上げていた。 月と、星と、街頭の明かり。いつもの空だ。 その俺に、「お疲れさま」と声をかける人がいた。藤之医師だった。 「…え、何で…」 「龍さんから連絡を貰ってね」 「龍さん、が…」 「君の力になってやってくれって事だったんだけど、遅かったみたいだ。すまなかったね」 とんでもない、と強く首を振る。俺は一体どれだけの人の優しさに支えられているのだろうと思ったら涙が出そうだった。 俯いた頭を撫でられて、俺はそれを噛み締める。 「稲葉、田代」 「千晶」 「ああ、彼が噂の先生か」 講堂から出て来た千晶は藤之医師を見て少し不審そうな顔をし、俺の膝に崩れ落ちている田代に顔色を変えた。 「田代!?」 「大丈夫、疲れて寝てるだけだ、多分」 俺の言葉に千晶はほっと息を吐く。そうして改めて藤之医師を見た。彼は千晶と目が合うと軽く会釈をする。 「月野木病院で医者をしてます、藤之と申します」 「当校教師の千晶です。…しかし、お医者の先生が、どうしてまた…」 「夕士君のアパートとは懇意にしてましてね、彼の力になりに来たのですが一歩及ばなかったようで。いや、男子三日会わずばと申しますがその通りですね」 朗らかに笑う藤之医師と、状況を理解出来ていない千晶の対比が面白かった。声を上げて笑うだけの気力がないのが残念だ。 「千晶、藤之先生は全部知ってる…ていうか霊能師なんだ」 「…医者じゃなくて?」 「医者で、霊能師」 「病院では幽霊や妖怪も診てますよ」 千晶は頭を抱えてしまった。信じていないわけではなくやはり理解が追い付いていないのだろう。藤之医師は変わらず朗らかに笑っている。しかしふいに表情を引き締めると真っ直ぐに俺を見た。 「出来るなら君には入院を勧めたいんだけど」 「え?」 「無茶をし過ぎたね。霊力が底をついてる。今意識があって普通に話せているのが不思議なくらいだよ。立ち上がる事はおろか、指先すら動かせないんじゃないかい?」 「………」 図星を指されて俺は押し黙った。千晶が弾かれたように俺を見る。 「霊力が尽きると陰陽が崩れる。陰陽が崩れると生命は成り立たない。よくて昏睡、悪くて絶命だ。その君が何故こうして自我を保っているのか不思議だけど、即刻入院治療が必要である事には代わりはない」 「でも、あの…」 「うん、君受験生だもんねえ」 藤之医師は腕を組んでむうと唸った。せめて俺が何故意識を保っていられるのかわかればそこに解決の糸口があるかもしれない。そう思って考えてくれている。命に関わる事だからと強引に話を進めない柔軟さが、俺にはありがたかった。 千晶が心配そうに俺を見ている。大丈夫と言うように少し笑って見せると壊れものに触れるようなぎこちなさで俺の肩を抱いた。 「え!?」 藤之医師が素っ頓狂な声を上げる。俺たちは揃って体を強ばらせた。何事かと思って医師を見やれば彼は何やら酷く驚いたような顔をして俺と千晶を交互に見ている。そして納得顔で何度も頷いて見せた。 「そうか、わかったわかった」 「え、何が…」 こっちはさっぱりわからない。 「夕士君、今君、千晶先生の霊力で動いてるんだ」 「……………は?」 ふたりの声が重なった。 人をそんな、車とガソリンみたいに言わないで欲しい。 「君たちどうやら、完全にシンクロしちゃってるみたい」 俺は風呂の中で途方に暮れた。 そうだ、そうだった、そんな話をしていた。あの時はもう本当に倒れる寸前だったから話が馬耳東風気味だったが、考えてみれば結構凄い事を言われていた気がする。 どうも俺と千晶はあの騒動の中で、霊力の蓋となる部分がぶっ飛んでいたらしい。俺は多分、霊力の使い過ぎで。千晶は予想するに龍さんのお守りが壊れた拍子に、だ。元々体―――というか俺としては霊力だと声を大にして言いたい―――の相性がいい上に、互いに回線が開きっぱなしの状態で傍にいた為、同調、というより融合してしまったのだと。 なるほど、俺がどれだけ消耗しても潜在的に高い霊力を持っている千晶が傍にいるだけで霊力が安定したのはその所為か。 そして、フラウロスを使役しても正体を失わなかったのも。 俺は火傷の後の残る手のひらをじっと見つめた。 「俺は本当に、ひとりでは何にも出来ないんだなあ」 「それでいいんだ。言ったろう?人ひとりに出来る事はほんの僅かなんだって」 「龍さん!」 声に驚いて顔を上げると丁度湯船に浸かろうとしている龍さんと目が合った。いつの間に入って来たのか。 「おはよう、もう霊力も大分戻ってるようだね。流石、若いっていいなあ」 「お、おはようございます…」 後で聞いた事だが、龍さんと画家は日付が変わる頃に鷹の台に到着したらしい。到着は夜明けと言っていた事を考えると画家は随分な無茶をしたようだ。死ぬかと思ったと語った龍さんの顔が忘れられない。 言いたい事が沢山ありすぎて、何から話せばいいのかわからず結局口を噤むしか出来なかった俺に、龍さんは優しく笑いかける。 「まあ今回は、千晶先生のお陰かな。一晩抱かれてすっきりしたでしょう」 「…………その言い方止めて下さい…」 「からかうくらい許してくれよ。君に送った式神の片割れが燃え尽きた時の私の気持ちに免じて」 「…心配かけてすんませんでした…」 ずるずると湯船に沈み込む。龍さんはからからと笑った。 要するに、俺が千晶に抱かれて眠っていたのはそういう事、らしい。同調が切れずに回線が開きっぱなしになっている為、近くにいると互いの霊力が勝手に行き来すると言うのだ。その課程で磨かれ高められた霊力が心体ともに回復を早めるのだと。 藤之先生の「だから今日はお互いの為に一緒に休みなさい」と言った笑顔には有無を言わせないものがあった。 結果、今朝の寝起きどっきりである。 ちなみに場所が千晶の家ではなく寿荘なのは、こちらの方が霊場として安定している為だそうだ。 しかし確かに指先も動かせなかった昨日に比べれば驚く程回復している。嘘のように体が軽かった。 「君たちの場合、互いにヒーリングをしているみたいな効果が出たんだろうね。やっぱり相性いいんだ」 「…じゃあ、今はもう千晶に無理をさせてるわけでもないんですね」 千晶の霊力のお陰で助かった、と知った時、真っ先に千晶の体調を思い血の気が引いた。ただでさえ貧血で年中ふらふらしているような奴なのに、俺が無茶した分の負担を千晶が負うなんて冗談じゃないと思った。それを言うと軽い拳骨―――動けない俺を慮っての手加減で、恐らく俺が普段通りだったら結構容赦なくどつかれていたのではないかと思う―――が降ってきたが、俺は今でもそう思っている。 「後で確かめてみるといいよ。君の体調がいいなら、彼の体調もいい筈だ」 俺は改めてお礼を言ってから先に風呂を出た。 千晶は朝に弱いからきっとまだ寝ているだろう。そう思いながらのんびりと自室に向かう。そこで俺は自分の考えの浅さを知った。 俺の部屋の前に、台帳を持った大家がいる。 そして俺の部屋のドアを開けた形で固まっている千晶もいる。 ああ、しまった。 今日は家賃の支払日だった。 その場は異様な緊張感が満ちていた。マンガで言うなら、あれだ。ふたりの背後にベタフラッシュと言う奴が見える。 俺は意を決して声を上げた。 「大家さん、すみません。今日学校の帰りにお金下ろして来るんで、それまで待って貰えます?」 大家は俺の方に目をやるとひとつ頷き、次いで千晶に頭を下げるとのしのしと歩き去っていった。 残された俺たちの間に微妙な沈黙が落ちる。 「あー…、おはよう、千晶」 「…………あぁ、おはよう」 「体調はどうだ?」 「今の衝撃で、よくわからん」 ですよね。 千晶の体調は悪くなかった。と、言うより普段よりかなりいいようだった。 普段は朝食などろくに食べないと言っていたが、るり子さんの出してくれた食事を残さず平らげたし、朝学校で見かけるよりずっとすっきりした顔をしている。 「やっぱり一晩中夕士君を抱いてたから」 と言った詩人の言葉に噎せたのは仕方のない事だろう。ちなみに俺は風呂場で一度龍さんにやられている。免疫と言うのは存外侮れない。素知らぬ顔で味噌汁を啜る俺を恨めしげに見る千晶は正直ちょっと面白かった。 一度自宅へ戻ると言う千晶を見送って、俺も学校へ行く準備をする。 学校では、大した騒ぎにはなっていない筈だ。 昨日あの場に居合わせた教師と生徒には、藤之先生が催眠暗示をかけた。暗示と言っても強いものではなく、本人が忘れたいと思っていれば忘れる、と言うくらいの微力なものらしい。 だがあんな恐怖体験を進んで覚えていたい奴もいないだろう。結果として昨日の出来事は俺と、千晶の胸にだけ留まる事になるに違いない。 千晶の蹴破った教室の扉と凹みに凹んだ講堂の扉、それから講堂前の焼け跡は少々問題になるかもしれないが、誰がやったと言う証拠は何もない。いずれうやむやになって忘れられていくだろう。 それはきっと、今回に限った事じゃない。 「俺も、いつか忘れちまうのかな」 俺は工事現場の前で立ち止まった。工事は滞りなく進んでいるようだ。 ここにはもう、人を愛した神々も彼らに愛された人々もいない。そしてそんな彼らがいた事を知る誰か、すら――――。 「それでもよいのですよ」 「フール」 「人が忘れても、我らは忘れません」 制服のポケットから上体を乗り出したフールは酷く眩しそうに空を見上げた。 俺も同じように空を仰ぐ。 昨日と同じ、気持ちのいい風が吹く秋晴れの空。きっと今日も暖かくなるだろう。 「なあフール、お前前に、人には不死なんて無理だって言ってたよな」 「ええ、申し上げました。体が長らえたとて心が保ちません。人の心は、永久を歩めるようには出来ていないのです」 「妖なら、平気なのか?」 ひとつひとつを忘れずに心に留めて、永いながい時を越え生きるのは、苦しくはないのだろうか。 あの神々のように、大事な人たちを失い心を壊してしまう妖もいるのに。 そこに、人と妖の違いなんてあるのだろうか。 フールは俺を見上げ、にこりと笑った。 「人の世に例えると、我々は教師なので御座います」 「…どういう事だ?」 「目の前を過ぎ去る愛し子たちを、ただ見送るのです」 幾度も、幾度も、幾度も。フールは繰り返す。繰り返す度、そこに滲む思いがあった。 「それを寂しいと思う事も御座います。やるせなく思う事も御座います。けれども決して止められないのです」 滲むのは。 「なればこそ、ひとときひとときが目が眩む程いとおしいのです」 滲むのは、遠い昔に馳せる愛しさか。 「わたくしには、人の心はわかりません。ですが教師というものなら少しだけ、理解出来るような気が致します」 時代が流れていつか本当に、人は忘れてしまうだろうか。 こんなにも自分たちの事を思う、目には見えないものたちの事。 「ま、時にその目映さに心奪われるも一興と言うもので御座いましょう」 笑いながら肩を竦めるフールを、この時俺は抱き締めたくてしょうがなかった。 「ねえ、ちょっと、昨日の事、詳しく説明してくれるんでしょうね!」 教室に入った途端、俺の首にヘッドロックをかけ人の少ない非常口まで引きずってきた田代の言葉に、俺は目を剥いた。 覚えているのか、と問えば「あんなもん忘れられると思ってんの?」と呆れ気味に返される。 そうか、と俺は息を吐いた。 そうか、覚えているのか。 藤之医師の催眠暗示は、本人が忘れたがっていれば忘れるという簡易で微細なものものだった。 「覚えていようと思えば、覚えていられる…」 泣きたくなった。 それは簡単な事だった。そんな簡単な事だったのだ。 「何?何か言った?」 「…いや…」 俺の呟きに胸元から小さく笑う気配がする。俺も笑って、それを掴み出した。 さて、朝のHRが始まるまで、どこまでを話せるだろう。 |