地獄絵図、とはこういう事だろうか。

 辺りは火の海だった。炎に巻かれた墜ち神らが、狂ったようにのたうち回っている。苦悶の声を上げ、恨みの声を上げ、悲しみに叫び、燃え尽きては崩れ落ちる。

 情けも、容赦もない、その炎は圧倒的な暴力だった。

「お目を、閉じていても構いませんよ、ご主人様」

 これは悪魔の所行です。フールは言った。
 確かにこれは、人の所業ではないだろう。轟と燃える炎は逃げ惑う墜ち神らを容赦なく飲み込んでいく。溺れるように天に延ばされ足掻く腕が、もういくつ沈んでいっただろう。こんな恐ろしい事が出来るのは、正しく鬼か、悪魔か。
 だが俺は目を逸らす事が出来ずにいた。
 目を逸らしてはいけないのだと思った。
 霊力が、急激に失われていくのがわかる。体からあらゆる力が抜けていくようだった。そのすべてが、今この炎に代わっている。


 これは、俺がやっている事なのだ。


 体が震える。抱き締められた。千晶は、今どんな顔でこの凄惨な光景を見ているのか。俺を抱きながら何を思っているのか。目を逸らす事が出来ない代わりに、俺はその腕に強く縋る。

 せめて、最後まで見届ける。
 見届けなくてはいけないのだ。
 それが今の俺に出来る唯一なのだ。
 その結果誰かが俺を化け物と呼ぶのだとしても、俺はそこから逃げるわけにはいかない。

 唇を噛んだ、その時。

 炎の中に佇む女が見えた。
 空を、仰いでいる。




 星。




 離れた場所にいる筈の女の声が、耳元で聞こえた気がした。
 透き通るような声だった。

 きれい。

 女に取り縋っていた腕も闇も焼き尽くされ、女は身ひとつで立っている。その女の体も、炎に巻かれていた。
 結界は既に解けている。黒く塗り潰されていた空には星が煌めき月が浮かんでいた。
 女は炎に巻かれながら尚空を仰ぎ、その淡い輝きを綺麗だと呟いた。


「あんたも、綺麗だよ」


 女が、ゆるゆると俺を見た。微かな驚きに見張った目は、やがて花が綻ぶような微笑みを浮かべた。
 あの時に見た、溶けて消えてしまいそうな微笑みが今、炎の中に溶けて消えようとしている。
 その光景を、とても綺麗だと思った。
 悪魔の炎の中で微笑む女の姿が、本当に綺麗だと。
 それは、この世のものではない、美しさという奴なのだろう。

 女の引き摺っていた闇。闇から伸びた無数の腕。救いを求める、「彼ら」の腕。
 その腕を取れなかった事が、どれ程神々を苦しめたのか。きっと、「彼ら」を救う力が欲しかっただけだろうに。その「彼ら」を食らい魔性と化した自分たちに縛り付けて、神々は一体何を得られたのだろう。
 自我を失い、それでも忘れる事はなかったただひとつの願い。強い力への固執。炎に焼かれ朽ちて行くその姿が酷く悲しかった。
 これが、人を愛した神々の末路だと言うならあまりに切ない。

 それでも女は微笑んでいる。
 輪郭を炎に溶かしながら、とても綺麗に微笑んでいる。 


「これでよかったんだよな」


 女は静かに頷いた。

 わたし、多分、ずっと誰かに、助けて欲しかったのだわ。彼らのように、闇雲に、手をのばしていたのだわ。

 たすけてくれと、泣きながら。ゆるしてくれと、叫びながら。果てのない絶望の中、何に対しての贖罪かも忘れ。

 ながい、永いあいだ、ずっと、ずっと、きっとわたしたちから、彼らを助けてくれるひとを、さがしていたのだわ。

 消え入りそうな女の声が、柔らかく耳に届く。
 ぽつり、ぽつりと落とされるそれは、メロアの水滴によく似ていた。

 ぜんぶおわらせて、欲しかったのだわ。

 伏せた女の顔の横で火の粉が爆ぜ、黒髪が舞う。

 すがってしまって、ごめんなさい。
 やさしさに、甘えてしまってごめんなさい。

「いいんじゃねえの」

 女は顔を上げた。

「しんどい時くらい、甘えたって」

 朝、言った言葉を繰り返す。俺は多分、何度だって繰り返す。

 あなたのように、強くあれればよかった。

「買被り過ぎだ。俺がそうやって支えられてる。それを知ってる。それだけだ」

 俺は強いわけじゃない。ひとりじゃない事を知っているだけだ。そうして俺を支えてくれるその人たちを、悲しませたくはないなと、思うだけだ。
 きっとこれは、とても尊いものなのだと言う事を、知っているだけだ。

「無い物強請りには、飽きただけだよ」

 女の目が眩しそうに、愛おしそうに眇められる。俺を通して、失った「彼ら」を見ているのだろう。
 崩れそうな女の前に、同じように崩れそうな黒い獣の腕が伸ばされた。女はそっとその腕を取る。大きな塊が女の前で力尽きたように崩れ去った。女の手に、黒い腕だけが残る。女は腕を押し抱き、やがてその腕も崩れて消えると一粒の涙をこぼした。

「いけよ」

 炎の中で、たった一粒の涙は瞬く間に渇いてしまう。

「今度こそ、彼らの手をとってやりゃいい」

 儚い笑みを浮かべたままもう一度頷いた女は、次の瞬間には燃え上がった炎に飲まれ跡形も残さず溶けて消えた。
 最後に女の唇がかたどった、ありがとうという言葉。音にはならなかったそれは、綺麗な水のように俺の胸に静かに染み入る。


 火の粉が、蝶のように舞っていた。













 突き飛ばされ尻餅をついた状態で見たものは、彼女の理解の範疇を大幅に越えていた。

 それは彼女を突き飛ばした女生徒も同様だった。茫然自失の体で扉に縋り付き座り込んでいる。
 彼女の見ている前で、人ではない巨大なものがその身に纏う外套を翻した。一瞬の間にその巨大なものごと、辺りを覆い尽くしていた炎が消え去る。

 静けさが戻った。
 最初から、何もなかったように。全部夢だったのだとでも言うように。ただそこかしこに残る焦げ跡や、歪んだ扉だけが、あれは現実だったのだと訴えている。

 ふと背後に気配を感じて振り返ると、顔色を蒼白にしたままの青木が立っていた。限界まで見開かれた目に移っているのは、千晶に抱かれたままの少年の後ろ姿だ。

 敬虔なクリスチャンである青木は震える唇で悪意のない残酷な言葉を紡ぐ。




「悪魔の子だわ…」




 それを聞いた途端、彼女の目の前は真っ赤になった。
 跳ねるように立ち上がった彼女の手元で、乾いた音が爆ぜる。

「あ、貴方、青木先生になんて事するの!」
「無菌室育ちは黙ってなさいよ!!」

 青木は自分が生徒に殴られたのだという事をすぐには理解出来なかったようだ。青木の生徒らが代わりとでも言うように悲鳴をあげるが、彼女の一喝にその身を縮み上がらせるしかなかった。

「ふざけんじゃないわよ!!それが教師の言う事なの!?教師が、生徒に向ける言葉なの!?アンタの目には何が見えてんのよ!一体、どこを見てんのよ!何もかも自分の物差しで測って満足してんじゃないわよ!あたしだって何が何だかわかんないけど、わかる事もあるわ!ちゃんと見てれば、わかる事もあるわ!何もわかんなくたって、あいつが守ってくれた事くらいわかれ!!」
「田代」
「何!!」

 呼ばれて振り返れば、悪魔と呼ばれた少年が苦く笑っていた。

「いいよ、ありがとう」
「よくない!!」

 そうだ、さっきからずっと気になっていた。気になって、苛立っていた。
 どうしてそんな風に、諦めたように笑うのだ。
 腹が立った。本当に腹が立って気付けば彼女は泣いていた。

「…よくないっ!本当はこいつだって引っ叩いてやりたいんだからね!それを青木だけで許してやってんだからね!いいわけあるか稲葉の阿呆!!」

 先程少年を化け物と詰った女生徒は指を差されて竦み上がった。阿呆呼ばわりされた少年は相変わらず困ったように笑っている。その顔こそ引っ叩いてやりたくて、涙を拭いながら彼女は唸った。

「落ち着け、田代」
「…千晶ちゃん」

 すぐ傍に来ていた千晶が彼女の頭をくしゃりと撫でる。そして未だ呆然としている青木に目をやった。
 ビリ、と電撃のような緊張が走る。

「青木先生、生徒が手をあげた事に関しては俺からお詫びします。ですが田代が言った事を撤回させるつもりはありません。俺も彼女と同じ気持ちであるという事を、お忘れなく」

 青木は蒼白だった顔を更に強ばらせて、今度こそ完全に固まってしまった。

「ぢあぎぢゃああああああん!」
「よしよし、お前はよくやったよ。ありがとうな、皆を押さえててくれて」

 千晶の圧力に固まったままの青木や青木の生徒らを素通りして、千晶は講堂の中程にいる生徒らの元へ歩いていった。彼女もその後を追おうとしたが、ふと座り込んだままの少年が気になり、恐る恐るそちらに近付く。
 周囲を気にしながら近寄ってくる彼女が可笑しかったのか、少年は小さく笑った。

「もう何もいねえよ」
「う、うん…」
「怖い思いさせてごめんな」
「何であんたが謝るのよ。あんたの所為じゃないわよ。てか、何であんた笑ってんのムカつく」

 少し躊躇った後、彼女は手を差し伸ばす。
 僅かに目を見張った少年は、しかし困ったように首を振った。手を取る事を拒否したのではなく手を借りても立ち上がるだけの力がないのだ。それを察した彼女は自分もその場に座り込んだ。

「お前が俺の分まで怒っちまうからだろ?こっちはもう笑うしかする事ないっての」
「馬鹿じゃないの」
「馬鹿とか阿呆とか酷いな」
「あんたが馬鹿で阿呆だからでしょ」
「そうか」
「そうよ」
「じゃあしょうがないな」
「納得してんじゃなわいよ、馬鹿」
「はいはい」

 いつも通りの少年の声が、いつもより少し優しくて止まった筈の涙が再び溢れ出してきた。
 全部終わったのだ、という思いが押し寄せてくる。
 俯いた頭をぎこちなく撫でる感触があった。ぽんぽんとあやすようなそれは明らかに子供扱いだ。だと言うのに思いの外それは心地好くて、腹を立てる隙を見逃した。

 やがて彼女は意識のどこかで、緊張の糸が切れる音を聞く。
 いざなわれた眠りの淵。



 すう、と吸い込まれるように、深く静かに彼女は落ちて行った。