「成功、したのか…?」
「…今の所はなッ」

 煙を上げる式神に素早く手を重ねた。異様な熱を持っていた。ジジ、と嫌な音をさせるそれを見て千晶は目を剥いた。手を離させようとするがそれは出来ない。俺と墜ち神らとの根比べは既に始まっているのだ。
 少しでも気を抜けば墜ち神らは俺の封じなどいとも容易く破って出てくるだろう。そしてそうなったら俺も、千晶も、講堂にいる連中も、多分ただでは済まない。

 失敗してもどうせ助けて貰えるとは思うな。

 画家の言葉が脳裏を掠める。
 思うもんか。
 式神を押さえる手に、もう一方の手を重ねた。肉の焦げる音と臭い。走る熱と痛みに顔を顰める労力すら惜しい。
 集中しろ。目を閉じる。さっきは上手くいったじゃないか。イメージする。力で押さえ付けるのではない。静かに帳を降ろせ。水の衣で包むように、彼らを眠らせてやるのだ。





「化け物――――ッ!!」





 金切り声。
 反射的に体が跳ねた。振り向く。講堂の扉が開いていた。一人の女生徒が恐怖に歪んだ顔で俺を見ている。

 俺を、見ている。


「あんたの所為ね!」

 恐怖はたちまち憎悪に成り代わり、侮蔑と悪意がその口から迸る。

「あんたみたいな化け物がいるから、こんな目にあったんだわ!何であんたみたいなのが平気な顔して学校にいるのよ!」

 ああ、しまった。




「疫病神!!!」




 式神を押さえた手が焼ける。

 化け物。
 そう呼ばれ、責められる事を、覚悟していなかったわけではないのに。



「稲葉!」



 一瞬の動揺が、隙を作ってしまった。

 式神は跡形もなく燃え尽きた。俺の半端な封じを破って溢れ出した墜ち神らは俺を飲み込み、千晶や、講堂に向かって津波のように押し寄せる。
 反転する視界。いや、反転したのは視界なのか、体なのか、或いは意識なのか。今まで見えていた景色が一転した。人も背景も泥のような濁流に掻き消される。
 すぐ近くにいる筈の千晶の声が遠い。

 女生徒の悲鳴。それよりも激しく濃厚な、神々の狂気。呪詛と怨嗟と悔恨、そして悲嘆。剥き出しのそれらは物理的な凶器となってすべてを飲み込もうとしている。


 ああ、失敗した。


 焼けた手のひらが熱い。痛みはあまり感じなかった。頭に分厚い膜でもかけられたようにぼうとする。渦巻く狂気はその内と外で縦横に荒れ回った。

 俺は失敗したんだ。

 情けない、と思う心すら、膜の向こうでどこか遠い。最早それが、自分の感情なのか彼らの感情なのかも曖昧だった。ここまでか。ここで終わるのか。俺にもっと力があれば、もっとうまくやれただろうか。皆をたすける事が出来ただろうか。心が溶け出し体と言う境界さえも見失いそうになった、その時――――。





 走り抜ける、明確な痛み。



 手。
 握られた手が、強く、痛みを訴えている。
 千晶。
 姿は見えない。
 だがこれは千晶だ。



 俺にもっと、力があれば?






 俺は、何を思いあがってる―――――!






 俺はその手を握り返した。ひきつるような痛み。焼けた手のひらの痛覚は、頭にかかった膜を吹き飛ばした。



 ”頑張れ”



 田代が言った、千晶も言った、あれは、俺を信じていると言う意味ではなかったか。

 これでは駄目だ。
 ここで終わっては駄目だ。
 終わりじゃない。
 少なくとも俺の心臓はまだ動いているじゃないか。
 俺はまだ、俺に出来得る何もかもをやっちゃいないじゃないか。

 力ならあるだけでいいんだ。ちっぽけな俺に相応しいちっぽけな力だとしても決して無力ではない筈だ。今ある限りを振り絞れ。


 狂乱する渦の中、俺は手探りでプチを開いた。





「―――教皇!」

「!ご主人様!いけません!」




 フールは止める。けど、このままじゃ駄目なんだ。失敗したら、そこで終わっちまうんだ。龍さんも明さんも田代も千晶も、俺を信じてくれたじゃないか。俺が俺を信じないでどうする。




「フラウロス!!」

「―――フラウロス!すべてを焼き尽くす地獄の公爵で御座います!」




 一帯が炎に照らされた。













―――――教皇を使ってはいけません。

 魔導書の案内人はパラパラとページをめくる主にそう言った。主は視線だけを案内人に投げ、どうしてだ?と訊ねる。

「過ぎたる力は身を滅ぼすものに御座いますれば」
「つまり教皇のこいつ…フラ、ウロス?は今の俺の霊力じゃ扱いきれないって事か?」
「左様で」
「俺の力が足りなけりゃ、ジンみたいにしょぼい感じで終わるんじゃねえの?」

 案内人はいつも通りの胡散臭い仕草で首を振り、いつもとは少し違った真実辟易した様子で吐息を落とした。

「あれは少々勝手が違いまして」

 他の使い魔らは主の霊力の影響を如実に反映させるが、その教皇だけはその範疇ではないのだと案内人は語った。外部からの影響を受けないだけの力があるのだと。

「多少の反映は御座いますが、それも微々たるもの。彼奴もそれをわかっております故、主の霊力があまりに低ければ召還に応じすらしません」
「今になってそんな忠告をするって事は、初期の俺の霊力は”あまりに低かった”から安心してたわけか」
「左様、左様」
「忠告を貰える程成長した自分を喜べばいいのか、歯に衣着せない言い方の使い魔を嘆けばいいのかさっぱりわからん」

 主はがっくりと肩を落とした。しかし、と魔導書をめくりXのページで手を止める。

「何だってそんな大層な奴がプチになんか入ってるんだ」
「なんかとは何です、なんかとは!」

 主の態度に案内人はぷりぷりと腹を立てた。しかし主の開くページを一瞥すると僅かに顔を顰めふいとそっぽを向いてしまう。

「彼奴は創造主殿を脅したのです」
「脅した?穏やかじゃねえな」
「ええ、そりゃあもう身勝手な振る舞いで御座いました。自分を使い魔にせねば毎日通い詰めて駄々をこねると言うのですから!」

 ガン、と派手な音がした。
 頬杖をついていた主の頭が手のひらから滑り机に落下したのだ。

「…駄々?」
「駄々です。フラウロスは見た目は屈強な大男なのであれはもう視覚の暴力です」
「…そうか」
「そうですとも」

 主は打ち付けた額をさすりながら小さく笑った。
 要するにフラウロスという男は押し掛け使い魔になるくらいには創造主の事が好きで、案内人もそれを鬱陶しく思うくらいには創造主を慕っていた、という事なのだと思ったら微笑ましくて笑わずにはいられなかった。
 いつまでも肩を震わせて笑っていたら、何を笑ってらっしゃいます、失礼な!と怒られる。

 その怒り方が不貞腐れているようにしか見えず結果、笑いの止まらなくなった主は腹を抱えて転がる羽目になったのだ。













 総じて青白い稲光とともに現れるプチの精霊の中で、それは激しい炎とともに降り立った。
 炎から俺を守るように、小山のようなものが聳え立っている。

「やれ、ようやくお呼びがかかったと思えば…」

 小山が、呆れたように嘆息する。低く張りのある男の声だった。小山のように見えたのは長身の男が外套を広げている所為だ。振り返る。それはタキシードに身を包んだ巨大な豹人間だった。

「フール、貴様がついていながら何という体たらくだ」
「わたくしはお止め申し上げました!」
「結局押し切られては意味がない。案内人が聞いて呆れる」
「ぐ…ッ」

 豹男は尻餅を付いて自分を見上げる俺を舐めるように見るとニイと口角を釣り上げた。

「身の程を知らぬか、小僧。その程度の霊力で私を呼び出すとは、命が惜しくはないらしい」
「冗談、惜しいから、呼んだんだ」

 肉食獣の顔が俺を見下ろしている。呼吸が浅くなり、鼓動が早鐘を打つ。フラウロスを呼び出す事によって消費される霊力とは関係なく、それは生物としての本能的恐怖だ。

「尽き果てるぞ」

 だが縦長の瞳孔が、俺を見る目は意外な程理性的で真摯だった。それが俺を踏み留まらせる。

「黙って祟り殺されるより、なんぼかマシだね」
「なるほど」

 豹男は呵々と笑う。心底可笑しくて、嬉しそうな笑い方だった。

「これが此度の主か。フールめが好みそうな男よ。よかろう、その覚悟に免じ主が怨敵、我が炎にて焼き尽くして進ぜよう」

 そのフールは苦い顔をして押し黙っている。
 豹男は炎の中でばさりと外套をはためかせた。

「…そこな男、主から手を離されるな」
「え、?」

 どうして気付かなかったのか。俺は千晶に抱きかかえられていた。自力で座っている事すら出来ていなかったのか。
 千晶は厳しい顔で前を見据えている。肩を抱く腕としっかりと握られた右手が痛かった。だが離してくれ、と言う気にはならなかった。この痛みが、俺を引き戻してくれたのだ。



「神格失いし堕ち神如きが我が主に触れようなどとは笑止。業火に焼かれ灰塵と化せ!!」



 高らかな咆哮。迸る炎。
 その言葉通り、フラウロスの炎は神さえも焼いた。