結界の内側に結界を張る。 それが龍さんの提案だった。 「最初は大きな結界を徐々に狭めていって、その結界に追い立てられた堕ち神たちを最終的に形代の中に封じる。一時的なものだけど、私たちが着くまでの時間稼ぎにはなる筈だよ」 封じてる間は、一時の気の緩みも許されないらしい。龍さんたちが到着するまでの数時間、俺は霊力と集中力で堕ち神たちを押さえつけていなければならない。それは精神的にも肉体的にも疲弊を免れない恐ろしく乱暴な手段だと言う。 「でもこれが、今君に出来る最良の選択だ。やれるかい?」 「やります。やらせてください」 それじゃあ、と龍さんが口にした途端目の前を浮遊していた式神がバラ、と「解けた」。どうやら式神は元々何体かが蛇腹に折り重なっていたらしい。式神が人型なので丁度手を繋いでいるような形で、合計六体。 龍さんの指示でそれを一体一体切り離し一体に「主」、残りの五体に「従」という文字を書き込んだ。龍さんの声は「主」と書いた式神から聞こえてくる。 「あとは…その学校の見取り図なんかがあると助かるんだけど…」 職員室へ行けばある、という千晶の言葉で場所を職員室に移し、見取り図を広げる。 マンモス校とまでは言わなくても、それなりに生徒数が多い分だけ、校内も広い。先程からこの中を西へ東へ駆け回っていたのだと思うと少々げんなりした。 「まだまだ走り回って貰わなきゃならないからね、しっかり」 「泣き言は早えぞ」 「泣き言なんて言いませんよ!」 龍さんはその見取り図に、敷地を囲む円を書くように言った。 「大体でいいけど、なるべく正円で。敷地をはみ出すならそれはそれで構わないから。そしてその中に星形を書き込んで」 「五芒星って奴ですか?」 「そうだよ。それは力のある形だからね。書けたかい?そしたら五芒星の先端五カ所に、それぞれ「従」の式神を配置していって」 「敷地をはみ出してる所は?」 「近くでいいよ」 「力のある形なんですよね。そんな適当で大丈夫なんですか?」 「まあ、何とかなるさ」 この人いつもこんな調子なのだろうか。 そんなわけで俺と千晶は再び校内を走り回る事になった。しかも今回は正真正銘外周ランニング状態だ。所々で堕ち神と鉢合わせ、その度にイグニスファタスで追い払う。まだ効力はあるようだが、やはり効き目は薄れてきていた。 五カ所目の配置を終えた頃には走り回った所為か霊力の使いすぎか、酷い疲労感に立ち眩みを起こしてしまった。 「ッ稲葉!」 「あ、何かアンタの声久しぶりに聞いた感じ」 慌てた様子で俺を支えた千晶にへらりと笑うと頭を軽く叩かれた。 実際そう長く沈黙していたわけではないのだが、この状況下で黙られるという事が想像以上に堪えていたらしい。その上無言の重圧をかけてくるのは他の誰でもない千晶だ。重苦しいったらない。 「大丈夫、か?」 「ん。こっからが勝負、だからな」 千晶に触れていると幾らか呼吸が楽になった。龍さんは霊力が安定する、と言っていたがその所為だろうか。修学旅行の時は立場が逆だった。千晶が潜在的に強い霊力を持っているというならそういう事もあるのだろう。 「次の指示、行けるかい?」 「っす!」 「主」と書かれた式神が龍さんの声を伝えてくる。次は、五芒星の中心へ向かった。 そこは講堂だった。 「げ!」 講堂の入り口には多くの堕ち神が群がっていた。一度扉を開けてしまっているそこは、既に結界の効力が薄れているのだろう。我先にと取り付く堕ち神の所為で扉は今にも押し潰されてしまいそうだった。 「イグニスファタス!」 太陽の光。だが一瞬だ。散らし切れない。 「畜生!踏ん張れイグニスファタス!」 「千晶先生!夕士君に触れてください!」 龍さんの鋭い声、千晶は躊躇いもせず俺の腰を抱き寄せた。 光が強くなる。歪んだ扉にしがみついていた堕ち神らが悲鳴を上げてどこかに飛ばされていった。 「一体…」 呆然と呟いた千晶と心境は似たり寄ったりだったが俺は我に返り扉に駆け寄る。 「田代!皆は無事か!」 「……いなば…?今度は本当に稲葉?」 田代の声は扉のすぐ向こうから聞こえた。震えている。当然だ。 「ああ、俺だ。怖かったろ。もうちょいの辛抱だからな」 「こわ、こわいなんてもんじゃないわよ!何なのこれ、もう、信じらんない!ねえ、ちょっと本物ならそっちから開けられるんでしょ?開けて顔見せてよ。そうだ、千晶ちゃんは?アンタを迎えに行ったのよ、会わなかった!?」 「落ち着け、大丈夫だ、千晶もここにいる。俺たちは無事だ。まだちょっとやる事があるからここは開けられないが、皆も無事なんだな?」 「無事…は、無事だけど…皆限界よ。泣きっぱなしの子いるし、ここから出たがって扉を開けようとする子はいるし」 麻生と高山がその子らを必死に宥めているらしい。青木は意識を取り戻しはしたが茫然自失で使いものにならないと田代は鼻息荒く言い捨てた。主に騒ぎ立てているのは青木の愛好会のメンバーで、他の連中はそれにつられて騒いだり泣いたりしているようだ。 「それでお前、扉に張り付いて死守してんのか」 「笑い事じゃないっつーのよ!」 「わかってる。よくやったよ」 「どうせなら千晶ちゃんに褒められたい!」 愚痴を並べ立てている間に平静を取り戻したのか、いつもの調子になってきた田代に笑いを噛み殺し損ねた。千晶も同様だ。苦笑に口元を歪めている。 「だってよ、千晶チャン」 「チャン言うな。田代、偉いぞ。もう少しだけ、我慢しててくれ」 「ちあきちゃん…」 千晶の声を聞いた事で気が緩んだのか、田代がまた泣きそうな声を出す。随分な態度の違いだな、まったく。 「田代、これからちょっとでかい音とかするかもしんねえけど、大丈夫だからな。じっとしてろよ」 「……うん」 「今度はちゃんと開けっから」 「うん」 「その時は、皆揃って帰れるからな」 「稲葉」 「ん?」 「頑張れ」 「おう」 励ますつもりが励まされた事に苦笑して、俺は扉を軽く拳で突いた。向こう側からも同じような音がする。 「よし、やるか」 扉から数歩離れた場所。俺は浮遊していた最後の式神を掴み取り、足下に置いた。 式神はもう浮き上がる事はせず地面で大人しくしている。 「健闘を祈るよ、夕士君」 「はい、色々ありがとうございました」 「お礼なんていいよ。君は、私たちに元気な姿を見せてくれるだけでいい」 「了解です」 「じゃあ、また後で」 それきり式神は沈黙した。 千晶が隣に来て俺の手を強く握る。 「頑張れ」 俺は笑った。 「任せろ」 手を握り返す。暖かいものが、そこから流れ込んでくるようだった。 プチを開く。 「女皇、メロア」 「メロア!水の精霊で御座います!」 闇の中で水滴が煌めき、やがてそれが渦を巻き式神に吸い込まれて消えた。 次の瞬間、ドン、と地面を突き上げるような衝撃。見渡すと、水柱が、五本。あれは「従」の式神を置いてきた場所だ。 水柱は細く長く伸び続け、俺たちの真上で融合した。さっと膜を広げる。圧巻だった。水のドーム、これが結界だ。 俺は「主」の式神に手を乗せる。 「”従者、主の元へ還れ”」 今度はズ、と地面がずれるような感覚だった。ズズ、と音を立て、水のドームが徐々にその範囲を狭めて行く。「従」の式神が「主」の元へ向かい始めたのだ。 よし、いいぞ。俺は精神を集中させる為目を閉じた。 引きずる音。呻き声が混じり始めた。墜ち神が、行き場をなくしている。少しずつ、厚く、狭くなっていく結界。頭の中にイメージしたそれを、現実が忠実になぞっていく。 水の精霊メロアの出す水は、汚れのひとつない清らかな水だ。魔性にとっては毒となる。 なぜだ。 なぜ、いまになって。 呻く声の中に、悲痛な叫び。 ゆるさぬ。 ゆるさぬぞ。 いやだ。死にたくない。たすけて、たすけてください。だれか、かみさま、たすけて。 ゆるさぬぞ、この地を荒らすもの。 かみさま、かみさま。 どうして、わたしたちは、こんなに、こんなに。 ゆるさぬぞ、この地を汚すもの。 きさまら人の子が、この地を汚すのだ。我らの地を汚すのだ。 我らを汚したのだ。 ああ口惜しや。 口惜しや、憎らしや。我らに力があれば。力さえあれば。清水などいらぬ。今更。清水などいらぬ。もっと力を。強い力を。力を得るには。もっと。力が。力を。力を。力を――――。 「われらに、ちからさえあれば」 女の声。 俺は目を開く。 藤色の着物に白い蝶が舞っている。 ズ、と引き摺る音。闇を、引き摺る音。女の連れた闇の中から、無数の腕が伸びている。女に向けて、差し伸べられた救いを求める腕。 「ちからが、あれば」 たすけられたのに。 俺は愕然とした。 女の口は、確かにそうかたどった。 ――――助けられた? 「稲葉ッ」 女の手が、俺に伸びる。同時に千晶が俺を抱え込んだ。 バチン、激しい音がして女の手は弾かれた。俺と女の間には、きらきらと煌めく水滴がある。虚ろだった女の顔が歪んだ。 「おまえが」 再び手を伸ばす。水滴に阻まれ、手は俺まで届かない。 「おまえのせいだ」 狭まる結界。墜ち神らの苦悶の声が木霊する。女は手を伸ばし続ける。メロアの水滴はまるで見えない壁だ。女は壁に縋り付く。ジュウと音を立て白い手が焼けても女は止めようとはしない。 天女のように綺麗な女。 鬼のような形相。 それは、きっとこの女の事だ。 「ああ、おまえのせいだ。あなたが、おまえが、優しくなどするから思い出してしまった。忘れていたかった。思い出してしまった」 紙のように白い顔。充血した目を剥いて俺を見ている。恐ろしい筈のそれが、妙に悲しげに見えた。 「やさしいかれらを、思い出してしまった」 女の引きずる暗闇から伸びる腕。女に向かって伸びている腕が、まるで俺に向かって伸ばされているようだった。 たすけて。 たすけてください。 たすけてください、かみさま。 「ちからさえ、あれば」 どうして。 どうして。 わたしたちは、こんなに。 こんなに。 「ちからさえ、あれば…!」 どうして、わたしたち、たすけてあげることができないの。 「ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」 女の悲鳴に呼応するように、すべての墜ち神が雄叫びをあげた。 何だ、これ。 俺は呆然とその光景に見入る。 身の毛もよだつその慟哭には、ただただ、悲しみだけが満ちている。 見た事もない風景を、見た気がした。 焼き払われた木々の合間に、ぽっかりとひらけた空間がある。 なにもない。 そこには何もない。 ただ山のように積まれた死体だけが、ある。 その天辺に、女がいた。 いや、そこかしこに、見た事もない生き物たちがいる。 それらが、屍肉に群がっている。 貪っている。 死体の血肉を食い漁っている。 女が顔を上げた。 綺麗な、綺麗な顔が血塗れで、涙を流していた。 「おまえが思い出させた!お前が思い出させたのだ!やさしいかれらを!口惜しい思いを!狂気を!忘れて、どうして忘れて、忘れていたかった、忘れていられたらよかった!どうして、どうしておまえが!あなたのようなひとが!やさしい、やさしいあのひとたちが、どうしてどうしてこんな目に、わたしに、われらに力があれば、力さえあれば、清水では足りぬ、もっと強い力を、もっともっと人の血肉を、おまえの血肉を、われらによこせ――――!」 腹はとうに決まっているのだ。 「俺はやれない。ここにいる誰かをくれてやる気もない」 パン、と両手を合わせた。 メロアの水が弾け、そのすべてが式神に吸い込まれていく。墜ち神をともなって。 「悪いな」 女の目が、何かを言いたげに俺を見た。だがそれもほんの一瞬の事だったから、もしかしたら俺の気の所為だったのかもしれない。 |