問題は山積みだった。
 その根元にあるのは、やはりこれからどうするかだ。いくつかの案をフールと出し合ったがどれもその場凌ぎで解決には至らない。

「彼奴らの結界に閉じられた空間を解き放つ事が出来れば、状況も変わってくるやもしれませんが」

 肝心の方法が俺たちにはわからない。揃って唸っていると俺を抱えたままだった千晶がおもむろに立ち上がった。

「千晶?どうした」
「今、空に何か…」
「空?結界の所為で何も見えないだろう?」
「ああ、だが何か一瞬白いものが見えた気がするんだが…」

 千晶は窓に寄っていった。俺とフールもそれに倣う。
 窓越しに見上げた空にはやはり何も見えない。墨を溶かしたような黒い闇が広がっているだけだ。
 だがそこに一点、白いものが鳥のように旋回しているのが見えた。結界に阻まれるように同じ場所を行ったり来たりしている。
 それでも結界の向こうに見える唯一のものに、俺は息を飲んだ。

「あれだ、何だ、あれは」
「あれって…ひょっとして!」

 俺は慌ててプチの最初のページを開く。

「ジン!」

 俺の声と同時に煙に包まれた万能の魔神が姿を現す。俺は闇の向こうを旋回するものを指さした。

「あれを、ここに連れて来てくれ!」
「承知!」

 ジンの体を包んでいた煙がむくむくと膨れ上がる。視界が煙で埋まる、と思った瞬間にそれらは泡のように弾けプチに吸い込まれていった。
 一瞬の内に開けた視界に、あの白いものがある。

「やった!」
「稲葉、これは…」


「お、今夕士の声が聞こえたぞ!」
「ちょっと明さん!前見て前!信号赤!」
「ちゃんと見てっから進んでんだろうが!荷物が文句言うな!」
「荷物には安全に運ばれる権利があると思うよ!あ、夕士君そこにいる!?私の声が聞こえる!?」


 聞こえます。
 クラクションとともにはっきりと。
 ていうか、この虚脱感、どう伝えればいいだろう。
 この現状を打開する一縷の光が見えたのに有り難さより先にたつそれに思わず膝から崩れ落ちた俺を笑うなら笑え。
 白いものはいつぞや見た、龍さんの式神だった。
 手のひらサイズで人型のそれは宙に浮いたまま、龍さんと、何故か画家の声を伝えてくる。

「夕士くん!?返事して!」
「あ、はい、すみません、聞こえてます。ちょっと驚いて…」
「よかった!実はさっき妙な胸騒ぎを感じて…君の身に何か起きているんじゃないかと思ったんだ」

 妙な胸騒ぎ。ひょっとしてあのお守りが割れた事が何かしらの形で龍さんに伝わったのだろうか。それで心配して俺の元に式神を飛ばしてくれたのか。
 嬉しかった。泣く程嬉しかったが泣いている場合ではない。
 俺は今ここで起きている事を式神の向こうにいる龍さんに伝えた。今朝の出来事や田代に聞いた泉の話も交えた―――泉の話は聞いた事があるようだったが―――ので短い話ではなかったが、龍さんは所々に相槌を入れながら真剣に聞いてくれていた。

「まず最初に言っておきたいのは」
「はい」
「今後、骨董屋さんから妙なものを買わないように」

 それ、何を置いても先に言うべき事なのだろうか。

「買ったんじゃないっす。あれは一度アパートを出た時に餞別にって貰ったんです。あと、お陰様で千晶が無事にすんだので、今度会った時は同じものを買おうと思います」
「あの人が調子に乗るからやめて!お守りが欲しいなら私が何か作ってあげるから!」
「おい、そこじゃねえだろ、今重要なのは」

 画家の冷静な突っ込みに、龍さんがあ、と言葉を止めた。この人、案外天然だ。

「えっと…とりあえず、みんなを一カ所に集めたのはいい判断だったよ、お疲れさま」
「は、はい」
「それでその後、どうするべきかを考えてたんだよね」
「そうっす。元はと言えば俺の所為だし、俺にどうにか出来るならしたいんですけど何も思いつかなくて」
「夕士君、人ひとりに出来る事は、本来とても小さい。ひとりの人間がしたただひとつの行動が何もかもを引き起こす事なんてあり得ないよ。それはほんの些細なピースのひとつだ。今回の事は君のところでパズルが完成してしまったに過ぎない。君の優しさを間違いだと言う人はいないよ。胸を張って」

 龍さんの声は染み入るように優しかった。
 最初は目の前に浮遊する人型の紙切れに若干困惑気味だった千晶もそこから発せられる声に真摯に耳を傾けている。

「でも、胸を張った君も皆を救けたいと言うのだろうね」

 苦笑混じりの声に、俺も笑ってはいと答えた。
 俺はやっぱり、俺に出来る事があるならしたいと思うのだ。自分のしている事が優しさだとか偽善だとかは考えた事がない。それを考え出したらきっと身動きが取れなくなってしまう。そんなのは嫌だった。

「すんません、龍さん。だから知恵を貸してください」
「うん、まずは君の話を聞こう。どうするべきだと思う?」
「フールと話してたんすけど、奴らの結界を破れれば、少なくとも皆を帰す事は出来るんじゃないかと…」
「そうだね、今講堂にいる人たちの事を最優先に考えるならそれがいい」

 でも、と龍さんは沈黙した。

「…それをすると、稲葉が危険になるんですね」

 龍さんの言葉尻を引き継いだのは千晶だった。千晶は俺の肩を強く抱き式神を見つめている。確信を持ったその言葉に、龍さんは小さく吐息を落とした。

「そういう事です。結界を破るという行為は呪詛に似ています。そのものに酷く力を要するし、失敗したときの反動も大きい。ましてや夕士君は霊能師というわけでもありませんし…仮に成功したとしても、結界の規模が大きければ大きい程破壊したその衝撃で何が起こるかわかりません。それに、堕ち神らの狙いが夕士君である以上、同じ事が起きるでしょう」
「埒も明かねえな。結界なんざほっといて根底をぶったたけって事だろう」
「ちょっと、明さん」
「おい夕士、どうなんだ。お前はただ助けが来るのを待つか?」

 画家の声は、少し遠い。だがその声は確かに、俺の間近で鼓膜を揺さぶった。

「助けは、来ますか」
「行くよ。今私たちはそちらに向かってる」
「だがどんなに急いでも明け方くらいになるぜ。ま、明け方に到着出来るだけでもましだがな」

 聞けば画家が龍さんの仕事場のごく近くにいたのは偶然だったと言うのだ。その偶然がなければ駆けつける事さえままならなかったというのだから縁というのは不思議なものだ。
 さて、と俺は考えた。
 龍さんが堕ち神と呼んだあの黒いものたちは、徐々にイグニスファタスの力に慣れてきていた。何度も遣う事で俺の霊力が落ちてきていたのかもしれないが、この結界の中で奴らが力を付け始めているのだとしたら。

「あの講堂も、明け方までもつって保証はない…」
「稲葉…」

 千晶は心配そうに俺を見ている。

「俺に、出来る事はありますか」
「稲葉!」
「危険だよ」
「出来る事があるなら、やらせてください」

 式神の向こうとこちらで沈黙があった。龍さんも千晶も、出来れば明け方まで俺に大人しくしていて欲しいのだろう。
 その沈黙を破ったのは低い笑い声だった。

「いいじゃねえか、やらせてやれよ」
「明さん」
「ただし、失敗してもどうせ助けて貰える、とは思うな。絶対にだ。そんな甘ったれた事考えてる限りは成功しない。それと、お前に何かあったら困る奴が大勢いる事も忘れるな。それだけ頭に叩き込んで歯ぁ食いしばれ」
「っす!」
「…仕方がないね」

 龍さんは困ったように笑ったが、俺の決断を好ましく思っているようだった。
 龍さんは俺に「出来る」と思っているのだ。そうでなければ俺がどれ程「やる」と言った所で止めているに違いない。待つ事に同程度の危険があろうともだ。そしてそれを画家もわかっている。わかっているから「やってみろ」と言ってくれる。心配して戸惑っている千晶には悪いが、俺はそれを誇らしく思った。
 やがて龍さんは、静かに口を開く。

「キーワードは水、だ」







 虫の報せ、というものだったのだろう。

 ふと感じた違和感。最初は気の所為かと思った。だがそれは徐々に膨れ上がり、無視出来ない程の胸騒ぎへと変わった。
 脳裏にひとりの少年の面影がよぎる。何故かはわからない。それこそ虫の報せだったのだとしか言いようがなかった。
 男がいるのはとある山奥の寺であった。仕事の為に訪れたがその仕事自体は呆気ない程容易く片付いた。長居をするつもりはなかったのだが生憎そこは交通の便が悪すぎた。一日に一本しかないバスの停留所は寺から徒歩でゆうに一時間という距離で、その日の運行は既に終了済みだったのだ。この日は寺に厄介になって明日発てばいい。そう思った矢先の事だった。
 慌てて寺の電話を借り、アパートに連絡する。この時間ならあの少年は既に学校から帰っている筈だ。

「夕士君?まだ帰ってないよ。そう言えばさっきコール二回で切れた電話があったんだけど、あれは龍さん?」

 胸騒ぎが激しくなった。男は電話を切るとすぐさま懐から式神を取り出した。知っている限りの少年の情報を吹き込み、彼の元へ行くようにと飛ばす。何事もなければそれでいい。矢のような勢いで飛んでいくそれを見送り、男は歯噛みした。
 自分こそが、ああして飛んで行ければ。
 埒も明かない事を考える自分を男は静かに笑った。その笑みを打ち消すように、静かな境内に似つかわしくないエンジン音が轟く。聞き覚えのあるそれに男は思わず寺を飛び出した。

「ああ?あんた、こんなとこで何してんだ」

 ヘルメットをとったラーダースーツの男も、寺から飛び出して来た男を見て驚いた顔をしていた。

 ああ、なんという巡り合わせだろう。







「さっきの、泉の伝承だけどね、あの話には続きがあるんだ」
「続き?」

 あの寺の住職と顔見知りだったという画家は愛犬シガーの代わりに男を乗せ―――シガーは住職の好意で寺で一時預かって貰う事になった―――鷹の台へ急いだ。画家の背中で男は式神を通じて件の少年と会話を続けている。

「そう、後日近隣の村人たちが、その有様を気の毒がってせめて弔いだけでもしてやろうと泉を訪れたんだ。ところが村人たちがそこで見たのは、見た事もない奇妙な生き物たちと天女のように綺麗な女が、鬼のような形相で屍肉を喰らっている姿だった」
「それって…」
「うん、おそらくは八百万の神々だろう。彼らは枯れた泉の代わりに、死人の血肉を喰らったんだ」

 神が魔となるに、十分な理由だった。
 その後這々の体で逃げ帰った村人は原因不明の熱病に侵され数日の内に亡くなったと言う。以来近隣の村々に同じような病が流行り多くの者が犠牲となった。事を重く見た村人らは丹念なお祓いと祈祷を続け、魔封じを施した上で、墓守としてある一族にすべてを託したのだ。

「墓もないのに墓守というのはおかしな話かもしれないけど、当時の人たちはそういう思いで戦死者を弔い神々を鎮めたんだろう。その一族が、あの土地の元地主。私は少しだけ交流があってね、この話も前の地主だったお爺さんから聞いたんだ」
「何で…」
「ん?」
「何で神様たちは、死体を喰ったんすかね」
「さあ…それは、多分当の神々にしかわからないだろうね」
「…俺、あの女の人が悪いものだって、どうしても思えないんすよ」

 勿論、あの黒いものらを率いて来たのが彼女だという事は理解している。だが、と少年は続けた。

「ありがとうって、言ったんです。大した事したわけでもないのに、凄く嬉しそうにありがとうって言ったんすよ」
「…彼女はその時、真実の姿だったのかもしれないね」
「神様としての、本来の姿って事っすか?」
「そう。永い封印から解放された衝撃で記憶に混乱をきたす魔性は少なくはない。自分は何者なのか、何を恨んでいたのか、何の為に存在するのか、そういうものを忘れてしまうんだ」
「そのままで、いられたら…」
「残念ながら、大抵の場合はちょっとしたきっかけで思い出してしまう事が多い。そしてそうなると手を付けられなくなるのが魔性というものさ」
「救えないんすね」
「救えない」

 少年は押し黙った。

「がっかりした?」
「いえ、腹が決まりました」

 その声は晴れやかだった。しっかり話を聞いていた画家もそれを聞いて小気味よく笑う。

「踏ん張れ、夕士」
「っす!四カ所目、設置出来ました」
「あと一カ所だ。頑張って。千晶先生は傍にいる?」
「はい…あの、千晶だけ講堂にやっちゃ駄目ですか」
「駄目。どうやら彼が傍にいると君の霊力も安定するようだから、出来る限り傍にいてもらって。それに、どうせ彼が納得しないでしょ?」
「う…はい、今、もの凄い威圧されました。さっきから一言もしゃべらねえでスゲエ怖いんすけど…」
「耐えて」
「…はい」

 返事とともに聞こえてきた重々しい溜息に、画家は遠慮なく笑い男もひっそりと笑みをこぼしたのだった。