「皇帝、バロン!」
「バロン!あらゆる災厄を退ける不死の聖獣で御座います!」


 俺の体にまとわりついていた黒いものが青白いシールドに弾かれ、墨汁のように飛び散った。
 目の前に、獅子舞に似た奇妙な獣が降り立つ。
 全身がシールドと同じ、青白い光に包まれている。それは神秘的な姿ではあったが巨大な体で前傾姿勢になるものだから尻の部分が顔に当たりそうで冷や冷やした。
 巨大な獣―――聖獣バロンは腹に響くような咆哮を上げるとシールドを突き破り恐れもなく闇の中に飛び込んでいく。破れたシールドからまた黒いものが入ってくるかと思ったが、その気配は一向になかった。それどころかまるで被されていた黒い布を引くように、バロンがその牙で喰らい付いた「何か」に向けて収束されて行く。
 バロンとその「何か」はもつれ合いながら廊下を転がった。それは正しく肉食獣同士の戦いだ。人間には踏み入れない、圧倒的な領域。そんなものを間近で見る羽目になった俺は腰を抜かさないようにするのがやっとだった。
 唐突に、バロンが組み敷いた「それ」が耳障りな雄叫びを上げる。
 男とも女とも、子供とも老人ともつかない嗄れて掠れた声だった。断末魔、だったのだろう。暫くすると「それ」はバロンの体の下でさらさらと形を崩していった。
 そしてバロンは、

「燃え尽きたぜ…真っ白にな…」

 満足そうな顔で本当に真っ白になりすーっと消えてしまった。

「え!?しゃべれんの!?ていうか、大丈夫なのか、アレ!!」
「ジンと同じで、力を使い果たすとああなります。バロンは何度倒されても蘇り悪と戦う復活の聖獣で御座いますれば」
「てことは、暫くは休息期間なわけね…あぁこの状況を突破するのに最適だと思ったのに…!」
「世の中そううまくはいかないもので御座います」

 何とまあ、まるで他人事のようにのたまいやがる。

「お前なあ、わかってんのか?俺に何かあったら、お前らまた封印状態であっちふらふらこっちふらふらご主人探しの旅に出なきゃなんねえんだぞ?」
「承知しておりますとも」

 本当だろうか。大仰に頭を下げるフールを胡乱気に見やり、俺は溜息を落とす。

「しかし焦ったな…イグニスファタスの効果が弱まってきてるのか」

 黒いものに飲み込まれた時、真っ先にイグニスファタスを使ったのだがその効果は一瞬だった。再び黒いものに取り込まれあわや、という所でバロンを呼び出したのだ。
 しかし闇を粉砕する力を持つバロンは一度力を使い果たせば復活するまで時間が必要だと言う。

「そもそも何でブロンディーズが効かないんだ?」
「ブロンディーズは神鳴で御座います。神には効きません」
「ふうん…」

 ………。

「神!?」

 素っ頓狂な声を上げる俺に、フールはさもありなんと頷いた。

「最初は確信が持てませんでしたが、間違い御座いません。日本には八百万の神々というものがおりましょう。あれらはその神々の変化した物の怪に御座います」
「やおよろず…」

 その単語は、ついさっき聞いた。
 田代の話していた、神の泉の伝承だ。

「やっぱり、あの話が関係してんのか?」
「だとしても妙ですな。レディのお話に八百万の神々は登場しませんでした」
「そういやそうだ。どっちかっていうと、殺された村人の方が祟りそうなもんだが…」
「あ、ご主人様、暢気に話し込んでいる場合ではないようですぞ」

 お前も同罪じゃないのか。いちいち引っかかる言い方しか出来ない奴だな。
 だがフールの言う通り、再び嫌な気配が近付いてくる。俺もひとまず講堂に避難すべきだろう。千晶たちの安否も気になる。
 俺は講堂に向けて走り出した。自分のペースで走れる分、さっきよりずっと楽だ。
 丁度一年生の教室の前を通った時だった。角を曲がろうとした俺と、向こうから来ていた誰かがかち合う。

「稲葉!」
「千晶!?」

 先に講堂に行かせた筈の千晶だった。
 一瞬惚けるもすぐに我に返り俺は慌てて千晶の手を掴みすぐ傍の教室に飛び込んだ。

「アンタこんな所で何して…皆は!?」

 扉を閉じる前に周りを見回すがここにいるのは千晶だけのようだ。だとすると一度は講堂にたどり着いたのにわざわざ引き返して来たのか。詰め寄ろうとした俺はしかし千晶の行動に先手を打たれ言葉を奪われた。
 気付いた時には千晶の腕の中にいた。

「ちょ、おい、千晶?」
「よかった、よかった無事で…!」

 結構な力で肩と腰を抱かれてしまって身動きが取れない。どうにか抜け出そうと試みるが、俺を抱くその手が微かに震えている事に気付いて俺は抵抗を止めた。代わりに溜息を吐く。

「皆は講堂か?」
「…ああ」
「無事なんだな?」
「ああ」

 ならいい。呟いて千晶の背中を抱き返した。その体温にほっとする。張り詰めていたものがほんの少し弛むような、言い知れない安堵感。途端に膝から力が抜けた。

「ッ、稲葉、大丈夫か!」
「…びっくりした」
「こっちの台詞だ!」

 盛大な溜息を吐いた千晶は俺と一緒に床に座り込む。自分の足の間に俺を置いて、どうやら離してくれるつもりはないらしい。やれやれと思いつつも決して不快ではないので好きにさせておく。

「ったく、何しに来たんだよ、アンタ」
「迎えに行くって言ったろ」
「本当に来る奴があるか」
「俺は嘘は言わない」

 千晶が嘘を言うとは俺も思わないが、出来れば安全な場所で大人しくしていて欲しかった。と、言うのも俺の勝手な希望で、生徒第一のこの男が素直に聞いてくれるわけはないのだ。わかっていたが頭が痛い。
 しかし俺自身千晶が来てくれた事を少し喜んでしまったのだから説得力も何もあったもんじゃなかった。
 どうしたもんかと思っていると、ふと千晶は伏せていた顔を上げる。

「そうだ、お前に謝らなきゃならない」
「何?」
「これ、壊しちまった」

 そう言って千晶が差し出したのはあのペンダントだった。台座がひしゃげて水晶の部分がなくなっている。勿論、台座と水晶の間にあった龍さんの霊毛もない。
 滅多な事で、龍さんの力が(勝手に)込められた御守りがこんな姿になるとは思えなかった。慌てて何があったのかと尋ねると千晶はペンダントがこうなってしまった経緯をぽつぽつと語り出す。
 話を聞き終えた俺は呆れていいやら青ざめていいやら、反応に困ってとりあえず千晶の手ごともうお守りの役目を果たさないペンダントを握り締めた。
 龍さん、本当にありがとうございます。

「…ごめんな」
「謝る事ない。千晶が無事に済んだ代償としてなら安すぎるくらいだ」

 しかし、と千晶の胸元を見る。最初は気付かなかったが、あの靄がない。話を聞くとその件の後から急に体が軽くなったと言う。どうやらペンダントが化け物を砕いた際に一緒に祓ってしまったようだ。流石と言おうか何と言おうか、末恐ろしい。

「稲葉、これからどうするんだ」
「ん?うーん…どうしたらいいんだろう」

 正直、皆目検討もつかない。
 皆を一カ所に集めたのは悪い判断ではなかった筈だ。多くの人間はひとりでいるより集団でいた方が平静を保てるし、何より一体感が生まれれば不安を紛らわす結果にもなるだろう。それに纏まっていてくれた方がいざという時に守りやすい。
 問題は、この後だ。
 時間が解決してくれるなら、例えば夜が明けるまで耐えきればどうにかなると言うなら籠城するもありだろう。だがこの「閉じられた」空間で、果たしてそれは有効なのか。この学校を覆う闇が、朝の訪れとともに打ち払われるものなのか。そもそもの籠城が、果たしていつまでもつものなのか。
 そんな曖昧な賭けには出られない。だとしたら俺にまだプチを遣う力が残っている内に現状を打破出来る案を出すべきだ。
 改めて考えて、つくづくとんでもない事になってしまったと吐息を落とす。

「稲葉…?」
「…ごめんな、巻き込んじまって」

 抱き締める腕があまりに優しくて、弱々しい言葉がこぼれてしまった。しまった、と思った時には遅く、酷く険しい顔をした千晶が俺を抱く腕に力を込める。

「何でお前が謝る」
「い、や…だって、十中八九俺の所為、だと思うし…」
「だから、どうして」

 言葉に詰まっていると至近距離から名前を呼ばれる。逃げ出そうにもしっかり抱き込まれているものだからどうにもならない。
 その厳しい視線に責められているようで、俺は顔を上げている事が出来なくなった。もう一度ごめん、とこぼすと千晶は一瞬驚いたように俺を抱く腕を放す。

「違…悪い、責めてるわけじゃないんだ。ただお前は何でもかんでもひとりで背負っちまおうとするし、心配で…その…巻き込んだって思うなら、理由を聞かせてくれ」

 俺が泣いているとでも思ったのだろうか。千晶の口上はしどろもどろだった。もう一度肩に回された腕は恐る恐るといった感じで幾分頼りない。
 何もそこまで気にしなくても、という程気を遣われては諦める他なかった。俺はこんな事になった発端を語り出す。
 登校中に女の世話を焼いた事、その女がどうやら人ではなかったという事、あの黒いものらを引き連れているのがあの女であるらしい事、そして女は俺を捜してここへ来たようだという事。
 ひとつひとつを並べていく内に千晶の顔が苦渋に歪んでいく。千晶の方が泣き出すのではないか、と思った。

「ちあ、」
「お前の所為じゃない」

 頭を強く抱き込まれた。

「お前の優しさが、悪いわけないだろう」

 だが今朝の事がなければ、今こんな事にはなっていなかった筈だ。
 では、見て見ぬ振りをすればよかったのだろうか。そう考えた所で、今まで沈黙を守っていたフールが俺の思考を読んだかのようなタイミングで胸ポケットから顔を出した。

「僭越ながら申し上げますれば、あの場でご婦人を見過ごす事のなかったご主人様にお仕え出来ました事、わたくし誇りに存じます」

 俺の肩に移動して得意げに胸を張ったフールに、千晶はそっと笑う。

「そうだな、俺も、お前みたいな生徒を持てて嬉しい。だから稲葉、あまり自分を責めないでくれ。お前にはそのままでいて欲しい。ありのままに優しくする事を怖がらないで欲しい。お前のその性質は、きっと何より尊いものだ。そのお前が招いたのがこの状況だって言うなら、俺はどんなものでも受け入れるよ」

 千晶の指が俺の髪を滑っていく。肩口に頭を押し付けられている所為で千晶の表情はわからない。だがその指の感触と声の柔らかさが、俺の涙腺を刺激した。

「ご主人様、たまたま、何かしらのキーが重なりこのような結果になっただけで御座います。ご主人様の所為では御座いません」

 フールまで、今まで聞いた事もないような声を出す。ふざけんな、何だこれ。
 こぼれそうになる涙を知られるのが癪で、俺は少し強引に千晶から体を離した。回されていただけの腕は案外あっさりと解けて安堵したのも束の間、立ち上がろうとした俺の腰に再び腕が絡み付いて来る。

「何すんだ!」
「いや…かわいかったから、つい」

 つい、何だ。そも、かわいいとか言うな。腰を取られてバランスを崩した俺は結局千晶の腕の中に収まる事になった。

「ご主人様、敵前逃亡とは情けのう御座います」
「敵じゃねえので許してください」

 唸るように言った俺の耳元で千晶が低く笑う。それが擽ったくて身を捩ると一層強く腕が絡み付いてきた。

「千晶、苦しいんだけど」
「逃げようとするからだろ」

 逃げたっていいじゃないか、人間だもの。
 とは言えずに俺は深く息を吐いた。

「…逃げないから、緩めろ。あと耳元で笑うな」
「ん」

 どうやら聞き分けてくれたらしい。緩んだ腕に呼吸が楽になって人心地。ここから出る事を諦めた俺は開き直って千晶に凭れかかった。一拍の間の後、肩口に千晶の頭が落ちてくる。


 その体温を感じながら、俺は小さくありがとうと呟いた。