やっとの思いでたどり着いた部室棟。
 ほんの少し前まで、俺たちもいた場所だ。英会話クラブの部員たちはホルスの眼には写らなかった。講堂にもいなかった所を見ると無事に下校出来たらしい。よかった、俺はこっそりと吐息を落とした。色々苦労もさせられているが、大事な仲間たちだ。怖い思いをさせずに済んだ事が素直に嬉しい。
 それと同時に足が重くなる。理由はおして知るべし、という奴だ。聖書の詩編愛好会が使用している一室。目的の教室はすぐそこだ。
 正直な所もの凄く引き返したい。ホルスの眼が見て来た情報によると、その中には生徒のみならず顧問教師である青木もいるのだ。この極限の精神状態で、あの人と相対して冷静でいられる自信がない。だがまさか先頭切ってここまで来た俺が逃げ出すわけにもいかないだろう。

「稲葉、俺が行こう。この子たちを頼む」
「千晶」
「先生をつけろって言ってるだろ」

 俺が開けようとした扉の前に、何かを察したのか代わって千晶が立つ。
 千晶は俺が青木を苦手としているのを知っているし、やはりここは教師である自分の方が適任だと言う思いもあったのだろう。正直話が早くて助かるが、代わる時に頭を撫でていくのはどういう了見なのか。覚えてたら今度じっくり聞かせて貰おう。
 中に聞こえるような声量で失礼、と言い扉を開けようとするが、扉はガタリとつかえたように動かない。やはり鍵がかかっているようだ。

「青木先生、いらっしゃいますね。千晶です、開けて頂けますか。さっきの放送の通り講堂に集まって頂きたいのですが」

 今度は先程のような大騒ぎにはならなかった。代わりに暫しの沈黙が訪れる。辛抱強く中の反応を伺った。やがて小さな物音。鍵が開けられた。

「千晶先生…」

 薄く開けた扉から、青木が血の気の引いた顔を覗かせる。不安でいっぱいだが守るべき生徒の手前ぎりぎりの所で踏みとどまっている、そんな感じだ。千晶を見て緊張に強張っていた顔がふっと緩んだ。千晶と青木も仲がいいとは言い難い関係だが、やはり追い詰められた精神状態で知り合いの顔を見ればほっとするのだろう。

「講堂に行きましょう。他の生徒や先生方も皆集まってます」
「はい…でも、あの子たちが怯えてしまって…」
「説得してください。あの子らも、他の生徒らがいる場所の方が安心するでしょう」
「そう、そうですね」

 その時、俺の背筋を走り抜ける何かがあった。
 弾かれるように廊下の暗がりに目を向ける。
 部室棟の廊下は他の校舎より薄暗い。その上今は光源が絞られていて蛍光灯より非常灯の方が明るいくらいだった。近くの蛍光灯が一本、切れかけているのか不規則に点滅している。
 その蛍光灯が、バチンと音を立てて消えた。

「な、なに!?」

 田代に寄り添う女生徒が小さな悲鳴を上げる。田代も緊張した面もちで両腕に女生徒を強く抱き締めた。
 真っ直ぐに延びた廊下。明かりの少ないその先は、闇が口を開けているようだった。

 ヤバイ。

 嫌な汗が背筋を伝う。知らず足が後ずさる。ざらざらとしたものに首筋を撫でられているような不快感。それでいてねっとりと重い空気が全身に絡みついてくる。
 ヤバイ。何が、とかそういうのはわからない、あの感覚だ。理屈ではなく、本能が鳴らすサイレン。

 ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ。

 あの闇の向こうから、何か、ヤバイのが来る。


「千晶…!」


 呼べば千晶はああと低く頷いた。その蒼白な横顔に汗が滲んでいる。胸にかかった靄がますます濃くなっていた。

「稲葉君?田代さんも…千晶先生、こんな時に生徒を連れ回していたのですかッ?」
「んな事言ってる場合じゃねえ!青木センセ、生徒が可愛いなら急いで講堂まで連れて走れ!」
「え…?」

 俺に怒鳴られた内容が一瞬理解出来なかったのか、単に耳が受け付けなかったのか。青木はぽかんと口を開いて俺を見た。何でもいいから早くしろ、と更に怒鳴る前に、千晶が厳しい顔で青木を追い立てる。

「青木先生、急いで!」
「は、はい!」
「稲葉」
「千晶、皆連れて、先に行け」
「馬鹿言うな!お前も一緒に行くんだ」
「いいから聞いてくれ!これ、アンタに預ける」

 俺はペンダントを外してそれを千晶に押しつけた。龍さんのペンダント。効果は秋音ちゃんのお墨付きだ。

「お守りだ。絶対に離すな。それから、講堂に入ったら鍵はかけずに扉を閉めろ。誰かが…例えば俺が「開けてくれ」と言っても絶対に開けるな」
「稲葉ッ!」
「田代、皆を頼んだぞ」
「…わかったわ」
「走れ!!」

 俺の声をきっかけに、田代が駆け出し女生徒二人が後に続く。部室から出てくる所だった青木とその生徒らもつられるようにその後を追った。
 千晶だけが戸惑ったように二の足を踏んでいる。

「何してんだ千晶!いざとなったら女子優先、アンタが言った事だろ!」
「…ックソ!後で迎えに来る!」

 意を決したように、千晶も女たちの後を追って行った。

「ご主人様!」

 フールの悲鳴。
 俺は暗闇から噴き出してきたものに飲み込まれた。









 生徒指導室の前で、女はうなだれていた。

 ここに、あのひとがいたのに。
 優しい香りが、ここに残されている。
 確かにここにいたのに。
 あのひとはどこ。
 あのひとは。
 あのひとを、早く見つけなければ。

 女の背後の暗闇から、無数の手が伸びる。何本もの腕が縋るように女に絡みついた。そして暗闇の底から、這うような声で助けを求め続ける。

 たすけてください。
 たすけてください。
 たすけて。
 こわい。
 どうか。

 どうして。
 あんなに。
 わたしたちは。
 あんなに、あんなに。

 女は一本の揺らめく腕を煩わしげに掴んだ。掴んだ箇所が、黒い泡を噴いて溶けていく。否、蒸発していく。つんざくような悲鳴が上がり、やがて腕とともに消滅した。しかし暫くするとまた新たな腕が無数の腕に紛れ、女に絡みつく。
 女は構わず歩きだした。音もなく、滑るように。

 ちからがほしい。
 ちからを、えなければ。
 えなければ、わたしは、わたしたちは。

 女は窓の向こうの空を仰ぐ。
 月も星もない、のっぺりとした黒い闇だけが広がっていた。

 嗚呼、と息を吐けども出るのは掠れた声ばかり。

 絡む腕と、裸の足、枯れた喉を引きずりながら、女は優しい気配を辿るように歩いた。










 全員を講堂に入れた後、千晶はすぐさま引き返すつもりだった。それを止めたのは、やはり田代だ。

「千晶ちゃんは、稲葉のその…あの不思議な力を知ってたの」
「…ああ」
「まさかとは思うけど、千晶ちゃんも…って事はないよね」
「あるか。俺は至って常識的な一般人だ」

 ここに件の少年がいれば「常識的な一般人が聞いたら鼻で笑われるぞ」くらいは言ってくれたかもしれないが、生憎この場に親切な突っ込み役はいない。

「じゃあ常識的に考えて。千晶ちゃんが戻った所で、あいつの力にはなれないんじゃないの」
「それはそうだが…」
「あいつね、約束は守ってくれると思うわ」

 あの強盗事件の時もそうだった、と田代は言った。必ずふたりで無事に出て来て、と言った半ば一方的に押しつけた約束を彼は守ってくれたのだ。

「あいつは守るって言ったわ。あの子たちの事だけじゃない。あたしら纏めて、守るって言ったんだわ。だったらあたしだって、出来るだけの事で返さなきゃいけないと思うの」

 稲葉は田代に「皆を頼む」と言った。田代はそれに応えたいのだろう。それが彼女の、彼に対する誠意なのだ。彼の言う「皆」には間違いなく千晶も含まれている。だとするならここで千晶を行かせるわけにはいかない。
 いつになく真剣な田代の様子に、千晶は苦く息を吐いた。後ろ髪を引かれる思いで講堂に入り、稲葉に言われた通り鍵をかけずに扉を閉める。

「千晶ちゃん」
「内側からは絶対に開けるな。…ってのが稲葉の指示だ。皆にも伝えておいてくれ」
「うん!」

 田代は元気のいい返事を残し、ひとかたまりになっている生徒らの元へ飛んで行った。

 ポケットを探る。稲葉に渡されたペンダントがあった。
 そういえば稲葉の首にはいつも紐状のものが引っかかっていた気がする。あれはこのペンダントだったのだろうか。台座と水晶の間に糸のようなものが8の字状に纏められ挟まっている。確かにこれは何かしらのまじないもののように思う。
 だが、所詮は気休めではないか。こんなものひとつで得られる安堵などたかが知れている。少なくとも今の自分に必要なのはこんな御守りではなく、彼の無事な姿だ。

 指導室で「まずい事になった」と呟いた彼の姿が目に浮かぶ。
 酷く動揺していた。不安そうでもあった。大人びた価値観を持っている癖に案外子供で、そのアンバランスさが妙に危なっかしくて、安心して放っておけると思っていた彼から目を離せなくなっていた。
 あの子供を守りたいと思う。今、この状況で千晶が彼の力になれる事は、田代の言う通り確かにありはしないだろう。
 ただ心細い思いをしているなら傍にいてやりたい、それだけなのだ。

 あの日、病室で見た彼の涙は今も褪せる事なく胸にある。

 壁に背を預けてずるずるとしゃがみ込んだ。座り込んでしまうと疲労が一気に押し寄せて来る。落ちそうになる意識を必死につなぎ止め、ペンダントを握り締めた。


「無事でいてくれ…」


 こぼれた呟き。
 それをかき消すかのように、扉が叩かれた。

「千晶、田代、そこにいるか!?」
「稲葉…?」
「稲葉!よかった、無事だったんだ!」
「悪い、心配かけた。ここを開けてくれ」

 ざわりと、背筋が粟立った。

「うん、待ってて!」
「待て、田代」

 生徒らの元から駆け戻って来た田代が、喜び勇んで扉を開けようとする。その手を、千晶が止めた。

「千晶ちゃん?」
「稲葉、鍵はかかってない。自分で開けられるだろう?」
「…悪い、手を怪我しちまって、扉が重いんだよ」
「千晶先生、早く開けてやらないと!」

 やりとりを聞きつけた他の教師らもやって来て扉を開けようとするが、その前に千晶が立ち塞がる。
 「例えば俺が開けてくれと言っても絶対に開けるな」彼の言葉だ。言われなくても、千晶にここを開けてやる気はなかった。

 この向こうにいるのは、それを言った彼ではない。

 確証はないが、千晶は疑わなかった。
 本当に彼だと言うなら、吐き気さえ催すようなこの胸糞の悪さは何だ。手の中に握り込んだペンダントが、熱を帯びる理由は何だ。

「千晶?どうしたんだ、どうして開けてくれないんだ」

 ああ本当なら今すぐにでもここを開けて扉の向こうにいる「何か」を叩き潰してやりたい。
 その声は。
 その声は彼以外の誰かが使っていいものではないのだ―――。

「千晶ちゃん…」
「千晶…!何か来るッ、頼む、早く開けてくれ!千晶!!」
「稲葉君!千晶先生退いてください!私が開けます!」
「青木先生、待って…!」

 怒りに気を取られている隙だった。
 千晶を押し退けた青木が扉に手をかける。何かを察した田代が止める間もなかった。

 青木は扉を開け放ち、そこに、絶望の闇を見る。



「…え?」



 開け放たれた扉いっぱいに巨大な人の顔。焼け爛れた皮膚から飛び出した目玉がぎょろりと動き、呆然としている青木を見てにたりと笑った。



「あおきせんせい、ありがとう」



 青木が意識を手放すのと、「それ」が大口を開けたのはほぼ同時だった。

「青木先生!」
「千晶ちゃ、」

 とっさに動いた。倒れようとする青木を田代に向けて突き飛ばす。その反動でよろめいた体を、巨大な口の奥から延びてきた無数の腕が絡め取った。
 引き摺り込まれる。

「千晶ちゃん!!」
「閉めろ!!」

 千晶の台詞は化け物の口の中に消えた。
 講堂の中に悲鳴が響き渡る。すぐさま動いたのは高山だった。扉を閉じ、腰を抜かしかけている麻生を振り返る。

「麻生先生!生徒たちを落ち着かせてください!パニックを起こさせては危険です!」
「は、はい!」

 だが既に生徒らの精神状態は最悪と言ってよかった。ただでさえ恐怖と緊張に疲弊した所にこれでは駄目押しだ。
 そこに。
 バン、と激しく扉を叩く音。
 講堂内は更なる悲鳴に包まれた。だが。

「田代、聞こえるか」
「千晶ちゃん!?千晶ちゃん無事なの!?」
「どうにかな。悪いが田代、俺はやっぱり稲葉を捜しに行く。さっきみたいな事があっても、今度こそ、誰にも開けさせるな。頼んだぞ」
「ま、待ってよ千晶ちゃん!」
「稲葉を連れて戻るから」

 千晶の言葉は揺るがない。どんな言葉で引き留めても、もう無駄なのだと悟った。とにかく姿を見せてくれないかと言い募る高山を、田代は遮った。

「…約束、してくれる?」
「ああ、約束だ」
「なら許す!」
「おう、行ってくるわ」

 苦笑する気配。そしてそれはそのまま遠ざかっていった。



 扉の向こうに残されたのは、無惨に飛び散った大量の肉片。だがそれもやがて音もなく溶けて消える。

 ただ小さな水晶の欠片だけが、闇の中で清涼な輝きを放っていた。