奇妙な沈黙が流れる。
 それをぶち破るように、ホルスの眼が帰ってきた。その姿を見て田代が体を強ばらせるが、そこから逃げ出しはしなかった。先程俺を見ていたように、じっとそれを見つめる。自分の見ているのものが一体何なのか、見極めようとしているようだった。
 俺はあえてそれには構わず、ホルスの眼が見てきた映像を確認する。
 まずは講堂のすぐ近く、数人の生徒と一緒に麻生が駆けてくる。もうすぐ到着するだろう。遅れて高山も、ふたり程の生徒とともにこちらへ向かっていた。
 講堂へ来るつもりのある奴らはいい。問題は動けなくなっている奴だ。ホルスの眼が見せる映像は、空の教室ばかりを写している。

「いた―――!」

 ホルスの眼が片っ端から見て回った校内。その中で普通科の教室にふたり、部室棟に、複数人。しかもこれは、

「青木…」

 青木と、青木のシンパたちだ。要するに聖書の詩編愛好会、という事だろう。ひとかたまりになって震えている生徒らを、青木がまるで親鳥のように抱き締めている。
 これは厄介だ。思わず頭を抱える。しかし放っておくわけにもいかない。俺はやれやれと息を吐きながら立ち上がった。

「先生、動けなくなってる生徒らがいる。ちょっと行って、回収してくるわ」
「待て、そういう事なら俺が行く」

 群がってくる生徒を引き剥がして、千晶が俺の腕を掴んだ。駄目だ、言うと険しい顔で詰め寄られた。

「あのな、俺は教師なんだぞ。生徒ひとり危険に放り込めるか」
「俺が一番適任なの、アンタにはわかるだろ。それにアンタはここにいなきゃ駄目だ」

 顎で指し示すのは、千晶がどこかに行ってしまうかもしれないと思い不安そうな顔をしている生徒らだ。千晶がいるだけで彼らが安心すると言うなら、千晶はここに残るべきだ。
 千晶もわかってはいるのだろう。それでも納得出来ずに食らいつくなんて実に千晶らしい。

「あたしが一緒に行くわ」

 田代だった。

「稲葉ひとりじゃ心配なんでしょ、千晶ちゃん。あたしに任せて」
「何言ってんだ!お前女だろ、危ねえって!」
「何よ!普段はあたしの事女と思ってないクセに、都合悪い時ばっか女扱いしようっての?調子いい事抜かしてんじゃないわよ!言わせて貰うけど、あんたひとりじゃ絶対苦労するわよ!特に女子の扱い!あんた女子免疫ないし!」
「余計なお世話だ!そういう事言ってっから女扱い出来ないんだっての!さっきまでの殊勝な態度はどこ行ったんだ!まったくもって男らしいとしか言いようがないぞお前の行動は!」
「あたしのどこが男っぽいってえ!?失礼しちゃうわ!五年後後悔しても遅いわよ唐変木!」

 唐突に口論を始めた俺たちに、生徒らが何事かと目を向ける。そうこうしている間に到着した麻生や高山も目を丸くして俺たちを見ていた。

「麻生先生、高山先生、よかった、ここの生徒たちをお願い出来ますか」
「ちょ、おい千晶!」
「先生をつけろ。どう考えたって、お前たちだけで行かす道理がない。俺も行く」
「往生際が悪いわよ、稲葉!諦めて千晶ちゃんを受け入れなさい!」
「お前が言うと別の意味に聞こえるわ!たく…ッ、そんじゃ、急ぐぞ」

 結局、先と同じ面子で再び校舎内を疾走する事になった。

 先ずは普通科の校舎だ。ふたりの生徒が教室に取り残されていた。
 校舎の中はやけに静かだ。俺たちの足音と呼吸の音しか聞こえない。
 こうして一切の音を切り捨ててしまうと、校舎というものは途端に浮き世離れした場所のように感じる。もとより、外界から隔離されたある種の異空間と呼べなくもない場所だ。音という生と密接したものを切り離すとそこはもう、生を感じる事の出来ない白々しい空隙と化すのだ。
 ましてや、今は本当に外界から「閉ざされて」いる。恐ろしい程の静けさの中、俺たちは無言で足を進めた。

「わ、何、あれ…!」

 最初に声を発したのは田代だった。視線の先には、目的の教室。正確には、その教室に取り縋るようにして群がる、無数の黒い塊だった。その塊が、揃って動きを止める。そして一斉にこちらを振り向いた。

「―――審判!」
「いけませんご主人様!あれらにブロンディーズは効きません!」
「何!?」

 黒い塊が俺たちめがけて触手のようなものを放ってきた。その勢いは凄まじく、まるで黒い濁流のようだった。

「畜生!イグニスファタス!」

 痛烈な光を浴びて、黒いものたちは悲鳴を上げながら散り散りに消えた。
 だが先も思ったが、イグニスファタスでは一時的に散らす事しか出来ないのではないか。根本的な解決にならないのだ。

「ちょ、っと稲葉…何かするなら言ってよ!目がちかちかするわ!」
「あ、悪い」

 振り返ると頭を押さえたふたりが少し恨みがましげにこちらを見ていた。
 そう言えば今回は目を閉じろと言い忘れた。そんな暇がなかったというのもあるけど悪い事をしてしまった。

「それより、そこの教室か?」
「あ、ああ」

 ホルスの眼が見た教室だ。この中に女生徒がふたりいる筈である。扉にそっと手をかける。だが扉は開かなかった。

「鍵がかかってる」

 恐らく中の生徒がかけたのだろう。千晶に目を配せる。それに応えて千晶は扉の前に立った。

「おい、いるんだろう?もう大丈夫だから、鍵を開けてくれ」

 瞬間、響き渡る絶叫。
 鼓膜がぶっ飛ぶかと思った。恐らくこれまでの時間でさらされた恐怖に極限まで追い詰められていたのだろうが、それにしたって凄まじい。必死に宥めようと、千晶が色々言葉を投げているが、正直隣にいても聞き取れない。何だ、オペラ歌手か何かを目指している生徒なのか。
 止まない悲鳴に業を煮やしたのか、千晶は数歩後ろに下がると勢いをつけて思い切り扉を蹴飛ばした。意外に短気だ。あと、馬鹿力だ。たった一撃で外れた扉が音を立ててふっ飛ぶ。その音と更に一段高くなった悲鳴に頭が割れそうだった。

「田代」
「ま、任せて」

 耳を塞ぎ顔を顰めながら、田代はふたりの女生徒に駆け寄る。何を話しているのかはわからないが、悲鳴が泣き声に代わるまでそう時間はかからなかった。
 田代に肩を抱かれて出てきた女生徒ふたりは憔悴しきっていて、酷く痛々しかった。

「次は部室棟だ。悪いけど、あんたたちにもつき合って貰わなきゃならない。少しの間辛抱してくれ。何かあっても絶対守るから」

 なるべく怖がらせないように優しく言ったつもりだが、うまくいっただろうか。女生徒ふたりは半分惚けていたし、田代が呆れた顔をしていたので失敗だったのかもしれない。田代の言う通り、俺は女の扱いが心底苦手だ。
 まあそれならそれで仕方がない。グズグズしている時間はないのだ。

 今度は部室棟に向けての強行軍になる。俺たちは揃って走り出した。








 「それ」が何なのか、彼女には見当もつかなかった。
 目の前で起きたいくつもの怪奇現象。怖かった。
 だがそれ以上に「彼」を怖いと思った。
 得体の知れない小さなものを連れ、得体の知れない不思議な力を遣い、得体の知れない恐ろしい「それ」を退けている。
 自分が知っている筈の彼の背中が、まるで知らない何かのようだった。自分が対峙しているものが何者なのかわからないという事は、予想以上に恐ろしい事なのだと彼女は思った。

「きゃ、」

 手を引いていた女生徒の一人が足をもつれさせた。支えようにももう一方の手も別の女生徒の手を引いているので叶わない。転びそうになった女生徒を支えたのは彼女らの後ろを走っていた教師だった。

「大丈夫か」
「は、はい…」

 教師の手を借りて、女生徒が体勢を立て直したその時に、先頭を走っていた彼が鋭い声を上げた。

「皆、固まって目え閉じろ!」

 あ、と思った時は黒い「それ」が彼の足を絡め捕り、まるで口のように開けた空洞に引きずり込もうとしている所だった。
 彼女は咄嗟に駆け寄ろうとしたが、それを教師が押しとどめる。三人の女生徒を纏めて抱き寄せ覆い被さった所で、またしてもあの光が闇を切り裂いた。

「ッ稲葉!無事か!」
「おー、平気平気」

 眩しさから閉じた目を開けて見れば、座りこんでいた彼が立ち上がろうとしている所だった。目が合うと僅かに苦笑し、肩を竦める。
 何故だか無性に腹立たしかった。
 教師が腕を離すと、腰を抜かしたのか先程足をもつれさせた女生徒がその場に座り込んでしまった。立ち上がらせようとして肩を抱くと、その体が小刻みに震えているのがわかる。もうひとりの女生徒も辛うじて立ってはいるがそれが精一杯のようで、そこから一歩も動けずに震えていた。
 その目はどちらも、彼を見ている。


 ああそうか、彼女たちが「今」恐れているのは、「彼」だ。


 彼女は座りこんだ女生徒を無理矢理立たせると、もうひとりの女生徒と一纏めに力尽くで抱き締めた。突然の行動に面喰っている女生徒たちに、彼女は大丈夫、と呟く。

「大丈夫、絶対。だって、守るって言った」

 そうだ、彼は守ると言ったのだ。彼が今何者かわからなくても、その言葉に嘘はない筈だ。彼自身に、嘘はない筈だ。
 自分に言い聞かせるように彼女は大丈夫だと繰り返す。
 多少恐ろしいから、何だというのだ。彼は友人だ。そう呼んだのはなりゆきでも、呼び続けたのは彼女の意思だ。その友人の言葉を、信じられなくてどうする。

 恐ろしいと思う事は多分、悪い事ではない。恐ろしいという思いに任せて目を背ける事が、きっと一番してはいけない事なのだ。


「そらすもんか」


 先頭を走りながら後ろの彼女らを気にして何度も何度も振り返る、ぶっきらぼうの癖に妙にお人好しな彼を、自分はただ信じればいい。

 呟く彼女の目は挑むように彼の背中を見据えていた。









(だって、たぶん私、あの背中に何度も助けられている)