「空間が閉じます!」
「何だって!?」


 一瞬の事だった。
 校門の外側に蹲っていた暗闇が凄まじい勢いで拡散した。闇がぶちまけられる。そして襲い来る、激しい揺れ。
 校門に目をやると、白い人影は消えていた。その代わり、目には見えない何かがこちらに向かって迫り来るような感覚。それは次第に加速しやがて―――。

 言い知れない恐怖を感じ俺は指導室に飛び込んだ。

「稲葉、どうした、今の揺れは!?」
「……まずい事になった」

 取り乱す田代を宥める千晶の胸の靄。濃くなっている。やはり、これは霊障だ。
 俺は深呼吸を繰り返した。落ち着け。まずは落ち着く事だ。そして現状を把握しろ。変に早鐘を打つ心臓を掴むように抑える。

「フール」
「はい」

 俺の胸ポケットから飛び出す小人を、状況も忘れて田代がぽかんと見つめていた。

「空間が閉じたって言ったな。それは、あの修学旅行で起きた事と同じか?」
「左様で。此度の規模はこの学園すべて。広大ですが、現象としては同様で御座います。これは言わば彼奴らの結界、破るには相応の力と手段が必要で御座います」
「つまり今学校にいる人間は、完全に閉じ込められたって事か」
「然り」

 畜生、呟いて髪に手を突っ込む。
 あの人影。
 あの白い人影は、あの女だ。今朝見た、藤色の着物の女。
 人間だと思った。いや、正確には疑いもしなかった。優しい顔つきの女だった。ありがとうと言った声はとても暖かかった。
 その女が俺を見て、笑った。別人のような、ぞっとする笑みだった。そして「見つけた」と言った。
 俺を捜していたのか。
 俺を捜して、ここへ来たのか。
 だとしたら、この事態を引き起こしたのは俺だ。
 千晶に田代、それにまだ校内に残っているだろう連中を巻き添えにして。
 背中を滑る汗が気持ち悪かった。指先が震える。眩暈がした。自分の拍動が不快だった。まるで頭に心臓を放り込んだようにガンガンと煩い。
 怖い、と思った。自分のした事が、大勢の人間を巻き込む事態に発展したその事実が恐ろしかった。
 何とかしなければ。
 だがどうすればいい。俺は、龍さんや秋音ちゃんとは違う。古本屋のように魔導書を完全に使いこなせるわけでもない。多少この手の知識があるにしたって、一般人に毛が生えた程度だ。そんな俺に何が出来る。

「稲葉、大丈夫か」

 はっと顔を上げると、千晶が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
 そうだ、惚けている場合ではない。
 震えを誤魔化すように、強く手を握る。少なくとも、今ここにいる人間で現状を―――正確とは言わずとも―――理解出来ているのは俺だけなのだ。

「千晶、携帯貸してくれないか」
「あ?ああ」

 千晶から借りた携帯でアパートの番号を押す。だが呼び出し音が二度鳴ったところでぷつりと音が途絶えた。その後は何度試しても呼び出し音すらならなかった。

「駄目か…」
「ご主人様、彼奴ら、すぐに襲いかかって来ない所を見ると扉が閉じている場所には入れないのでは」
「扉…?」
「扉とは元来空間を隔てるもの。密室そのものが結界のような役割を果たす事もあると申します」
「教室の中にいれば安全って事か?」
「確実では御座いません。ここは既に彼奴らの結界の中ですし、破ろうとする力が強ければ当然結界は破られます。まして通常の人間の霊力ではさしたる効果も御座いますまい」

 フールが言っているのはここの事ではなく、ここ以外のどこかにいるであろう人間たちの事だ。

「…校内にいる人を、一カ所に集める…」
「何?」
「放送室だ、千晶、一緒に来てくれ!」
「…わかった」

 一瞬、説明を求めるような顔をしたが、そんな時間すら惜しいのだと言わんばかりの俺に何か察してくれたのだろう。千晶は重く頷くと田代を振り返る。

「立てるか、田代」
「立てなかったら俺が負ぶる」

 千晶に携帯を返し、田代の前に手を差し出した。呆然としていた田代は少しの間俺たちを見比べて、やがて自力でふらふらと立ち上がる。

「だいじょうぶ、立てる」

 そう言って自ら両頬を張った。驚いている俺たちにひとつ頷く。行こう、と言った田代はもういつもの彼女だった。
 まったく、実に男らしい事だ。

「ご主人様、太陽を」
「ああ。ふたりとも、目を瞑れ」

 扉を開け放つ。

「太陽、イグニスファタス!」
「イグニスファタス!光の精霊で御座います!」

 叫び声。
 扉の向こうに溜まっていたおどろおどろしい「何か」が鋭い光に蹴散らされた。

「よし、いいぞ、放送室まで急げ!」

 三人、走り出した。時折足をもつれさせる田代を、後ろから千晶がフォローしている。
 一気に放送室まで走り抜け、放送を流した。

「現在校舎内に残っている生徒及び教師は、至急講堂に集合して下さい。繰り返します」

 放送は千晶に入れて貰った。生徒である俺がやるより効果があるだろう。
 恐怖と緊張と全力疾走から肩で息をしている田代の足下に、俺から降りたフールがちょろりと寄っていった。

「レディ、大丈夫で御座いますか」
「えっ、えっと…うん…」
「驚かせてしまって大変申し訳御座いません。わたくし、ご主人様にお仕えする魔導書の案内人0のフールと申します。以後、お見知りおきを」

 どさくさ紛れに何やってるんだ、あいつは。俺は溜息を吐いてそのフールをわっしと掴み上げた。相変わらず目をまんまるくしている田代に、逆の手を差し伸べる。

「ちょっとだけ、手貸せ」
「え?」

 田代はちょっと戸惑ったようだが、素直に俺の手を取った。
 神経を集中させる。背後で千晶が「あ」と言っているのが聞こえた。俺が何をしようとしてるのか察したのだろう。
 少しして、俺は田代の手を離した。田代の呼吸は整っている。

「もうひとっ走りして貰わなきゃなんねえからな」
「え?え?あれ、何かちょっと楽になってる…?」

 過去に一度つながった事のある田代にならこの程度のヒーリングは軽い。不思議そうにしている田代を尻目に、フールをポケットに突っ込み千晶を振り返った。

「悪い、アンタも辛いだろうがもうちょい耐えてくれ。全部終わったら引き取るから」
「…いいって言ってるだろ。さあ行こうぜ」

 顔色が悪い。明らかに校内に充満し始めている霊気に当てられているのだ。それでも教師の顔で笑う千晶は本当に格好好いと思う。頷き、今度は講堂へ走り出した。

 講堂が近付くと、放送を聞いた生徒らがちらほらと見えた。どの顔も酷く青ざめている。講堂の中には既に十数人の生徒が固まって縮こまっていた。状況はわからずとも、ただならぬものを感じているのだろう。千晶が顔を見せた途端、安堵に泣き出す者さえいた。

「これで全員か?」
「わからない、どれくらいの生徒が残ってるのか…それに、教師も何人かは残ってる筈だ」

 俺は物陰に移動してプチを開いた。

「ホルスの眼」
「ホルスの眼!魔を看破する神の眼で御座います!」

 ホルスの眼は百円玉程の大きさになって目の前に浮かんだ。相変わらず悪い奴を求めて目玉―――つまり全身―――をぎょろぎょろと動かしている。

「悪い奴じゃなくてすまんが、残ってる生徒を探して来て欲しい。校舎を隅々まで見てきてくれ」

 言うや否や、ホルスの眼は目にも留まらぬスピードでどこへともなく姿を消した。
 その俺の隣に、田代がやって来る。
 腰を下ろしている俺に倣い、膝を抱えて座り込んだ。肩が触れるような距離で、ホルスの眼が消えた先をじっと見つめている。
 俺はその横顔から目を逸らした。いつも明るく笑っている田代の顔に表情がないだけで、酷く落ち着かない気分にさせられた。
 不思議な力を遣う俺を、田代はどう思っただろうか。こうして傍に来るのだから嫌悪まではしていなくても、不気味に思っていても不思議はない。
 ふと、田代の顔が真っ直ぐに俺を見る。俺もつられてそちらを向いた。

「何か、色々聞きたい事があるんだけど」
「…だろうなあ」

 俺は苦笑した。田代は笑わなかった。ただ真っ直ぐに俺を見て、やがて視線を正面に戻した。

「聞きたい事、ありすぎて、何聞けばいいのかわかんないや」
「…そっか」

 それきり、田代は一言もしゃべらなかった。