文化祭も終ったとなると、三年はもうクラブに顔を出す事も少なくなる。引継さえ済ませてしまえば引退、というクラブが殆どだ。
 俺たちの英会話クラブは現在引継の真っ最中で、三年、特に部長である俺は割と頻繁に部室に通っていた。生徒会の方の仕事をしていた田代も後から加わって、結局雑談になってしまうというパターンもあと少しなのだと思うと感慨深い。

「だから、これは祟りだと思うのよ!」

 その雑談の内容が、若干殺伐としているのには最早目を瞑ろう。

「また阿呆な事言ってんな、田代。そういうのをやたら騒ぎ立てるんじゃねえよ」
「だって、ここの所流行ってるのよ、原因不明の体調不良。うちの学校でも何人か休んでるみたいだし」
「ただの風邪だろ、もしくは少し早いインフルエンザだ」
「それはそれで問題だわよ。違くて!前に話したでしょ?今工事してる場所の事!調べてみたらホントやばいみたいでさあ」
「だったら尚の事、無闇に騒ぎ立てるな」
「私、聞きたいです先輩!」
「あたしも!」

 田代の話に食いつくのは女子ばかりだ。俺を含めた男子連中は非常に苦い顔つきである。昔から、何で女って生き物はこういう話が好きなんだろうな。
 群がってくる女子部員を相手に、田代は得意げに仕入れた情報を語りだした。

「昔ね、あの辺りには泉があったそうなの」


 以下は田代の話だ。

 その泉は八百万の神々が休息に現れるとされ近くの村民から大変敬われていたそうだ。かと言ってただ畏れ傅くのではなく、近く親しみ共存していたと言っていい。村人は泉の水を生活に利用していたし、そこに住む魚を獲ったりもしていた。夏になれば子供たちがはしゃぎまわり、秋には収穫祭だと賑やかす。村人たちは何かめでたい事がある度に、それがどれ程小さな事でも泉へ赴き神々に供物と感謝を捧げ歌い踊った。村人にとって神々とは遠い存在ではなく、苦楽を共にする隣人であったのだ。
 ある時、その村の近くで豪族同士の小競り合いが起きる。作法も兵法もない、大きなものが小さなものを力尽くで捩じ伏せる、それは一方的な暴力だった。
 小さなものに属していた村は、抗いようもない戦禍の渦に飲まれ大きなものに抵抗する手立てもなく無惨に踏み潰された。
 村は焼き払われ、戦に駆り出された者を含め、多くの者が死んだ。
 惨たらしい敗戦だったと言う。
 そんな中、辛うじて難を逃れた村民らは残党狩りから逃げ惑い、あの泉に救いを求めた。共に歌い踊り、共に笑い合ったと信じてやまない神々に、縋る他なかったのだ。

 おわします八百万の神々よ、どうか我らをお救いください。

 祈りは届かなかった。
 女も、子供も、老人も、そこには何の分け隔てもなかった。ただ殺されていく。何の意味もなく、奪われていく。
 神の泉は人々の血でおぞましく染めあげられた。


 淡々と語っていた田代はそこへきて急に声を潜める。

「その時に泉に投げ入れられた無数の遺体が泉の水を全部吸って、泉は枯れちゃったんだって」
「うわぁ…」
「じゃあ祟りって、その時殺された人たちの怨念…」

 ここで、部室の扉がノックされた。

「ぎゃああああああああああああああああああ!!!」

 女子たちの悲鳴もかくや、どうしてなるべく話を聞かないようにしていた男子連中が率先して悲鳴をあげるんだ。そしてどうして俺にしがみ付いて来るんだ。
 ノックをした張本人は返事を待たずに扉を開けはなった。

「何だ!どうした!?」
「千晶ちゃん!」

 何故かそこにいたのは顧問でも英語教諭でもない千晶だった。
 部員全員が驚きの声を上げたが、俺は皆とは違う驚きで「あ」と声を上げた。

「もーおどかなさいでよー」
「驚いたのはこっちだ、何だ今の悲鳴は」
「副会長の陰謀です」
「ちょっとアンタたち何それひどい!」
「それより千晶先生、どうしたんですか?」

 二年の女子に尋ねられ、千晶はここへ来た理由を思い出したようだ。こちらに視線を寄越す。
 目が合った。

「稲葉、もうクラブも終わる時間だろ、ちょい話があるから来てくれ」
「…了解」

 丁度俺も、千晶に聞きたい事がある。立ち上がった俺に田代の視線が突き刺さった。何事かと振り返ると何故か親指を突っ立てている。相変わらず奴の行動は読めん。

「…じゃあお先、あと片づけと鍵よろしく、皆気を付けて帰れよ」
「はーい。がんばってねー!」

 何をだ。
 部室のドアを閉めた所で俺はこめかみを揉みながら溜息を吐く。そして改めて千晶を見て眉をしかめた。
 胸に、黒い靄。
 どう考えてもおかしい。昼には綺麗に取り除いた筈だ。ほんの数時間でここまで疲労が溜まるなんて事、今までなかった。

「あー…と、立ち話もなんだ。指導室行くか」
「ああ」

 踵を返し歩き出した千晶の背を追う。
 背中からではわからないが、あれは見間違いなどではないだろう。
 どういう事だ、と小声でフールに問いかける。フールはポケットから頭だけを出して首を振った。わからないらしい。しかし原因がない、なんて事はありえないだろう。人間誰しも疲労は溜まるものだがこの速度は異常と言う他ない。
 そういえば、今日は帰りのHRがなかった。昼休み以来、千晶を見ていないのだ。お陰でいつからこの異常状態になったのかがわからない。
 そこまで考えて俺はふと疑問を浮上させる。
 いつから。
 昼休み、寝ている千晶の傍に行った時、僅かな違和感があった。深く眠っていた。触れても気付かない程に。
 基本的に千晶は何処ででもすぐに寝る。だが決まって眠りは浅く誰かが近付けばすぐに目を覚ますのだ。気配に敏感なのだと思っていた。その千晶が。
 もしかして。
 田代の言葉を思い出す。ここ数日具合悪そうね、そう言っていた。
 もしかして、千晶は既に「異常」を抱えていたのではないか。

「怒ってるのか、稲葉」
「え?」

 気が付くと既に生徒指導室だった。千晶の胸元をガン見していた俺に、当の千晶が困ったように苦笑している。
 俺は慌てて首を振った。
 怒ってるって何だ。どこからそういう発想が、と考えて昼間の事を思い出した。ついでに今の今まで結構な勢いで睨み付けていた事も。

「いや、違う。あれは俺が悪かったんだし…って、もしかして話ってその事か?」

 千晶は遠慮がちに頷いた。

「少し苛立ってた。言った事は嘘じゃないがアレじゃ殆ど八つ当たりだ。お前はただ親切でしてくれてんのに、あんなに強く言う事じゃなかった。ごめん」
「待て!ちょっと待て!」

 下げようとした千晶の額を俺は手のひらで押し止めた。少し勢いが付いてしまいべちりと音がしたが構ってはいられない。

「アレに関してはもういいんだって!怒ってねえし…てか、勝手にやらかして怒るとか、とんだ逆ギレじゃねえか、アンタ俺をどこまでガキだと思ってんだよ!」
「止めても聞かなかった」
「拗ねんな!反省してたんだあれは!」
「さっきだってずっと俺を睨んでたろ」
「それだ!!」

 一段階大きくなった俺の声に驚いて、千晶は目を瞬いた。

「謝罪とかそんなんいいから教えろ。アンタここんとこ、自分の体調について何か気付いた事なかったか」

 知らず声が低くなる。睨み上げる千晶の顔も困惑的なものから真剣なものに変わった。どうやら自覚症状もあるようだ。修学旅行の時と同じだ。何か知っているのかと、その目が訴えかけてくる。だが生憎、これもあの時と同じ、俺に千晶の満足する答えは出せない。「何か」を聞きたいのは俺の方なのだ。

「アンタ、昼休みからこっち、何か特別疲れるような事あったか」
「…何も。五限は授業をしただけだし、六限はフリーで事務作業をしてた。その後も…」

 心当たりもないとなると、「異常」は千晶ではなく他にあるのか。

「ここ数日、疲れが溜まりやすい。眠ってもあまり疲れがとれないんだ」
「ああなるほど、それですぐに俺がやったって気付いたのか」

 そんな事がわかっても事態の解決にはならないのだが。俺は暫し逡巡し、千晶に断ってからフールを呼んだ。

「お前これどう思う」
「さて…わたくしとしましては、先程のレディたちのお話が気になります」
「祟りだってか?」
「はっきりと申し上げるには情報が少なすぎますが、ないとは言い切れますまい。確かにここ数日、この町全体の空気が少しばかり重い気が致します」
「あのアパートで暮らしてりゃ、あり得ない、なんて台詞は迂闊に吐けたもんじゃねえけど、こんな世界の広さはあんまり感じたいもんじゃねえなあ…」
「おい稲葉、何も超常現象に結びつけなくても、単に俺の体調不良かもしれないし」
「じゃあ聞くが、こんな事今まであったか?」

 聞けば千晶は低く唸った。あると言えばあるだろうが、確信が持てない。そんな所だろう。俺も一緒に経験している。即ちあの修学旅行。だがあの旅行の間の出来事は千晶の中では恐らく希薄だ。何せ所々記憶が抜けている。

「ご主人様、ここはひとつ占わせてみては」
「ええ?何か答えは決まってそうだけどなあ…」
「何だ?」

 ていうか、千晶の前でプチを使うのか。あの強盗事件の時は勢いもあったが、改めて考えるともの凄く気まずい。
 だがしかし背に腹は代えられまい。そも目の前をフールがちょろちょろしてる現状を思えば何を今更、だ。
 俺は決心してプチを開いた。



 と、その時だ。


 指導室のドアが勢いよく開き、誰かが中に飛び込んできた。その誰かは近場にいた俺に容赦ないタックルをかましてくる。
 もの凄い勢いで胸に当たった頭のお陰で、一瞬呼吸が止まった。

「田代!?」

 千晶の声。言われてみれば、この頭は確かに田代だ。さては俺と千晶の後をつけて来たな。

「いなば…っ!」

 俺にしがみついたまま、田代は震える声で俺を呼んだ。
 声、だけじゃない。俺の制服を握る手、その体が不自然なくらい震えている。
 その様子が尋常ではない事を悟り、普段はなるべく触れないようにしている田代の肩を掴んだ。

「どうした、田代、何があった」
「なにか、いる」

 今にも泣き出しそうな声で、田代は叫んだ。

「校門のところに、なにかいる!!」

 それを聞いた千晶が指導室を飛び出そうとする。変質者だとしたら捨て置けない。そう思ったのだろう。だがそれに気づいた田代が俺から離れて千晶の腕を掴んだ。

「駄目!千晶ちゃん行っちゃ駄目!!」
「田代、」

 必死の形相だった。俺はふたりの横をすり抜ける。再び田代の叫ぶ声と千晶の制止が聞こえたが振り切って指導室を出た。
 ここの廊下からは、校門が見える。



 そこに。

 そこには。



 何もなかった。あるべきものさえ、何も。



 校門の外側に見える筈の道路、電信柱、ガードレール、何一つない。ぽっかりとした暗闇が、ただ蹲っている。

「いけません…!」

 胸元でフールが息を飲む。何が、と一瞬フールに目を向けた。再び校門に視線を戻した時、先にはなかった人影があった。








 白。



 いや、よく見ればそれは淡い藤色である。暗闇を背負うように、それは立っていた。
 俯いていたそれが、上げた顔。
 紙のように白い、その顔。


 赤い、赤い唇が弧をえがく。













 み つ け た 。