「ここんとこ千晶ちゃん具合悪そうね」

 昼休み、いつものようにるり子さんの弁当を携帯カメラで撮影していた田代が、思い出したように口にした言葉がやけに引っかかった。

「そうか?朝のHRじゃあまだ平気そうだったけど」
「んもう、駄目よダーリンたら、しっかり見ててあげなきゃ。四時限目の前に見た時顔色悪かったよ」
「今日はうちで授業もねえし、そんなとこまで見てるかよ。俺はあいつの保護者じゃない」
「愛しのハニーだもんねえ」
「桜庭、今日はお前にこのふわふわ卵焼きをくれてやろうと思ってたが、止めだ」
「あ、嘘嘘ゴメン稲葉君たまごちょーだああい!」
「ずるい桜、あたし肉団子!」
「あたしも!」
「こらあ!健全な男子校生の弁当から肉ばっか取ってくな!」

 許可を出した途端三方から箸が延びてきてるり子さんの弁当は忽ち魔女らの生け贄になった。
 女どもが各々たまごだの肉だのの素晴らしさをテンション高めに語らっている隙に、俺は残りの弁当を急いで腹に納める。もたもたしていたら更に奪われそうだからだ。予想通り、空の弁当箱を前に手を合わせた俺に「もう食べ終わっちゃったの!?」と酷く残念そうなご様子。危ない危ない。
 弁当箱を片付けると代わりに取り出した読みかけの本を手に、俺は教室を出る。その背中を田代の少し殊勝な声が追った。

「稲葉、もし千晶ちゃんに会ったらあんまり無理しないでって言っておいて」
「ああ、わかった」

 手を振る事で応える。
 それにしてもあの田代が―――千晶が弱っている事すらネタに盛り上がれる田代が、こんな態度をとるとは相当だ。四時限目の前に一体どんな状態だったと言うのか。
 俺のクラスの担任、千晶直巳は貧血症の上体質的に疲れを体に溜めやすい。
 確かにここ数日、千晶は具合が悪そうだった。顔色は見るからに悪く、疲労の靄も日に日に濃くなっていく。隙を見てヒーリングを試みようとするが、なかなか機会に恵まれない。
 せめて屋上に来てくれれば。そう思うが千晶の疲労が目立つようになった頃から、当の本人が屋上に来る事はなくなった。
 避けられている。俺自身を、というより、ヒーリングされる事をだろう。あれが俺に酷い負担を与えているのではないかと、千晶は心配しているのだ。人の心配より自分の心配をするべきなんだ、あの手の掛かる男は。
 俺は屋上へは向かわず、生徒指導室に足を向けた。小さくノックをしてから戸を開ける。鍵はかかっていなかった。

「千晶、いるのか?」

 しんと静まり返った室内から返事はない。だが教室の奥、生徒と対談する為のソファに見慣れた長身が横たわっていた。予想通り、それは千晶だった。
 自分でも限界を感じ取ってここで休んでいたのか、近付いても目を開ける気配はない。俺は息を潜めて千晶の胸にそっと手を置いた。
 集中する。千晶の胸にかかった黒い靄。吸い上げ、霧散させるイメージ。
 ヒーリングはうまくいった。完全ではないが、ダメージを散らす事も最近では出来るようになってきたのだ。千晶が心配する程の負担は俺にはかからない。幾分よくなった千晶の顔色を眺めて、俺は満足した。

「お見事で御座います、ご主人様」

 眠っている千晶に気を遣っているのか、ポケットから顔を覗かせたフールが声を潜めて囁いた。別のポケットに入れたままの栄養補助食品の封を切りながら俺は笑った。散らし切れずに受け入れたダメージ分は食って補うのが一番いい。

「俺も大分慣れてきたよな」
「はい、従事する者としてご主人様の成長芳しく喜ばしい限りで御座います」
「大袈裟なんだよ」

 大袈裟に頭を下げるフールを軽くいなして俺は改めて千晶の顔を見る。静かな寝息を立てるその顔は穏やかだ。ほっと息を吐いて俺は向かいのソファに座った。

「これ、誰にでも出来ればいいんだけどな」
「今朝のご婦人の事を考えておいでですか?」
「ああ、大丈夫だったかな」
「さてさてそればかりは」

 やはりあの時点で救急車を呼んでおいた方がよかっただろうかと考えて唸っているとフールはにんまりと人(?)の悪い笑みを浮かべた。殊更声を潜めてすり寄って来る。気持ち悪いな。

「ご主人様はああいった女性がお好みで御座いますか?」
「ええー…まあ、あんまりか弱いのも考えもんだけど、女の人って感じだよなあ」
「秋音様もまり子様もクラスメイトのレディたちも素晴らしい女性ではありませんか」
「あの人らに女を感じろって方が無理だろ、男らしすぎる。田代らに至ってはありゃ魔女だぞ。怖いっての」
「嘆かわしい…そんな事だから女無用などと言われてしまうのです」
「余計なお世話だ」
「…人の枕元で何やってんだ…」

 低く這うような声に目を向けると、向かいのソファに横たわったままの千晶が呆れたような顔をしてこちらを見ていた。

「これはこれは千晶様、ご機嫌麗しゅ」

 俺が何かを言うより早く仰々しい仕草で頭を下げたフールを上から手のひらで押さえつけた。手の下で何やらもごもご言っているがよく聞こえない。多分、ご無体な、とかそんな感じだ。そんなフールを鷲掴んでポケットに押し込む。どうもフールは千晶の事を気に入っているらしく、強引にでも仕舞ってしまわない限り自分から退散しようとはしないのだ。

「起こして悪かったな。気分はどうだよ、もうすぐ昼休み終わるぜ?」
「……ああ」

 と言ったきり千晶は沈黙した。上体を起こし、胸に手を当てて眉を顰める。黒い影は消えているがまだ気分がよくないのだろうか。少し不安になって様子を伺っていると半眼になった千晶にじろりと睨まれた。

「稲葉、お前やりやがったな」
「はあ?」
「疲れがとれてる。お前がやったんだろ」
「何言ってんだ。あんた今まで寝てたじゃないか。自力で回復したんだよ」
「おい小人」
「はいはい何で御座いましょう」
「ちょ、おいフール!」

 ぎょっとした。千晶が進んでフールと交流を図ろうとする事はなかったのだ。声をかけられたフールは喜び勇んでポケットから顔を出す。

「実際はどうだ」
「ご主人様がヒーリングを行いました」

 そしてあっさりと裏切りやがった。この野郎。

「ご主人様、嘘はいけません」
「方便ってあるだろうが!」
「いーなーば。そういう事じゃないだろ」

 座り直した千晶は正面から俺を見た。少し苛立ったような目が真っ直ぐこちらに向けられている。俺はその目から逃れるように僅かに視線を逸らした。
 千晶の指が、コンコンとテーブルを叩く。こっちを向け、という意思表示だろうが、俺は敢えて気付かない振りをした。一向に視線の合わない俺に千晶は小さく溜息を吐く。

「何度も言ったよな、こんなんされても嬉しくないって。大体、気付けなかった俺も悪いが、人が寝てる隙にってのはマナー違反じゃないか?」
「それは…」
「俺なら大丈夫だ。やばいと思ったらこうして休息もとってる。受験に向けてお前も忙しいだろう。気にしてくれるのはありがたいが担任としては複雑なんだよ」

 咎める声音は怒っていると言うより少しばかり悲しそうだった。何だか自分が酷く悪い事をしてしまったような気になって、居た堪れなさから席を立つ。ポケットの中のフールが珍しく慌てたように身を乗り出した。

「千晶様!ご就寝中への無作法、わたくしからもお詫び申し上げます、ですがあのっ」
「フール、いい」

 言い募るフールをポケットに押し込めて、俺は千晶に頭を下げた。

「悪かった」
「稲葉」
「もう予鈴鳴るし、教室戻るわ」
「稲葉、待て」

 制止の声は聞かず俺は指導室を出た。
 周りに人の気配がない事を確認してから、ポケットの中のフールが申し訳御座いませんと小さく謝った。

「わたくしまさか、千晶様があれ程お怒りになるとは露とも思わず…」
「いいよ、気にすんな。俺が軽率だったんだよ」

 そういえば前に秋音ちゃんが、お祓いなんかは当事者の意向や了解が重要なのだと言っていた。ヒーリングも似たようなものなのかもしれない。
 らしくなくしょんぼりと項垂れているフールの頭を指先で弾く。

「お前がそんな顔すんなよ。次はバレないようにするさ」
「!それでこそご主人様で御座います!」

 パッと顔を明るくしたフールに苦笑がこぼれた。








 女は公園のベンチで自らの手元をじっと見つめていた。
 ペットボトルの水。
 静かに目を閉じる。この水をくれた少年の顔が浮かんだ。幼さと精悍さを同時に湛えた面差しがとても優しかった。少しぶっきらぼうな口調の中に、隠しきれずに滲む気遣いがとても暖かかった。

 やさしい、ひと。
 とてもとても、やさしいひと。

 手の中でペットボトルを転がしながら、女は知らず口元を緩めた。
 その中で揺れる透明な水が、見てわかる程に減っている。封は切られていない。女は目を閉じたまま、大事そうにペットボトルを握っていた。

 なつかしい。

 女は思った。しかしそこで、驚愕に体を強ばらせる。
 何が、懐かしいのだろう。
 狼狽えた。女の中には、懐かしいと思える記憶がなかった。酷く気分が悪かった。目眩に頭痛、それに体を締め付けられるかのような圧迫感に吐き気を覚えた。それが最初の記憶だ。気が付いたらあの少年がいた。それが次の記憶。自分には、ほんの僅かな間の記憶しかない。どうして、その事に今の今まで気付かなかったのだろう。女は動揺を押し殺すように俯いた。手が震える。ペットボトルの中に残る水は、あと僅か。そして女の見ている前で、最後の一滴が消えてなくなった。

 あぁ、かわく。

 女の中で、何かが変化した。吐いた息はか細く、しかし重い絶望をはらんでいる。

 かわいてしまう、かれてしまう。

 焦燥感。じりじりと焼けるように喉が疼く。女の耳に、聞こえる筈のない声が聞こえた。

 たすけて。
 たすけてください。
 たすけてください。
 どうか。

 止めて。女は耳を塞いだ。空になったペットボトルが、軽い音を立てて足下に転がる。熱い。喉か焼ける。しかし潤してくれる筈の水はない。声が縋り付いてくる。痛い。渇ききった喉から、喘ぐような悲鳴が漏れた。それでも声は止まない。

 たすけてください。
 たすけてください。
 たすけてください。

 声は繰り返す。女は狂ったようにかぶりを振った。止めて、もう、許して。長い黒髪が乱れて舞う。
 その女の耳元で、何かが囁いた。

 ゆこうぞ。

 女は動きを止めた。別の声が囁く。

 やれ、口惜しい。我らに力さえあれば。
 ゆこうぞ。
 足らぬのなら得ようぞ。
 力を得ようぞ。
 獲物ならある。
 我らは知った。
 清き水より強き力。
 食ろうて得ようぞ。

 囁く何かは次第に数を増やしていく。女のまわりにひとつ、またひとつと不気味に光る物体が揺らめく。

 人の血肉を食らおうぞ。

 ああ、そうだ。


 やがて女は立ち上がった。茫洋としたその顔は、紙のように白かった。




 わたし、いかなくては。