自覚
「大変、大変千晶ちゃん!稲葉が誘拐されちゃった!」 俺は啜っていた珈琲を見事な霧にした。 放課後、生徒指導室。 普通科の悪ガキ三人組と他愛ない会話をしている時だ。ノックもなしに飛び込んで来たのは担当クラスの女生徒、何時も人を散々な厄介事に巻き込んでくれる田代だった。 「でっかいバイク!まっくろの!乗ってたのがまたまっくろのライダースーツ着たフルフェイスのイケメンで!!」 「何でフルフェイスなのにイケメンだってわかるんだ」 「希望!!」 「…ああそうかい」 「そのバイクの男が稲葉の横につけたと思ったら、問答無用でメット被せてタンデムだよ!意味分かんない!萌える!」 「萌えんのかい」 アスカたちが律儀に突っ込みを入れてくれるお陰で手間が省ける。誘拐とは何事かと思ったがこの分では田代が過剰に反応しているだけだろう。 「普通に考えて、知り合いだったんだろ。何だ誘拐って」 「だって稲葉、人攫い〜って喚いてたから」 誘拐される人間がそんな悲鳴を上げるか。 「ねえねえ千晶ちゃん、気になんないの?ダーリンが他の男に連れてかれちゃったんだよ?」 つまり田代が言いたいのはここだろう。無駄に表情が輝いている。十代の輝かしさの使い道を間違っているようにしか思えないが、本人が楽しいのならそれもありなのだろう。 気になるかならないかで言うなら、多少はなる。一応生徒指導の教師をしている身としては気にしないわけにもいかないだろう。だが相手は他の誰でもない稲葉である。悪ぶる事をよしとしない冷めた部分を持っている稲葉が滅多な事で道を踏み外すとは思えない。これが本当に力尽くで連れて行かれたというなら焦りもするが、暢気な悲鳴を上げるだけの余裕があるなら問題はないだろう。 「俺はダーリンを信じてるからな。ほら、そろそろお前らも帰れ、遅くなるぞ」 言いながら三人組と田代を教室から追い出す。その間田代はずっと「愛ね〜」などと抜かして三人組を呆れさせていた。閉めた戸の向こうから「でも嫉妬のひとつでも見せて欲しかったわ!」という雄叫びが聞こえて来た時は思わず笑ってしまった。 妄想力が逞しいと、人生は楽しそうだ。 数日後の事だった。 その日はクラブ活動がないという稲葉を捕まえて、進路指導室で仕事の手伝いをさせていた。手伝いと言ってもプリントをコピーして束ねるというごく簡単なものだが、いかんせん量が多い。終わる頃にはすっかり日も傾いていた。 「もう二三人呼べばよかったな、悪いな稲葉、こんな時間まで」 「別にいいよ」 廊下を歩きながら謝罪する俺に稲葉は肩を竦めた。声をかけた時は逃げようとしたし、手を動かしながらも文句は言っていたが、結局最後まで投げ出さずに手伝ってくれた。何だかんだで本当にいい子だ。 「もう暗くなるから、今日は送ってやる。裏門とこでちょっと待ってろ」 「え、まじで。ラッキー」 「他の奴らにゃ内緒にしろよ」 「当然。何言われるかわかったもんじゃねえ」 笑いながら、一度別れた。職員室に戻り帰宅の準備をして車に乗り込む頃には辺りは既に薄暗い。こんな中何時までも生徒ひとりで立たせておくわけにはいくまい。俺は急いで裏門に車を回した。 人影が、ふたつ。 裏門で見つけたそれに、俺は慌てて車を飛び出す。 「稲葉!」 「あ」 人影のひとつは勿論稲葉だ。そしてもうひとつ。その人影はお世辞にも人相がいいとは言い難く、尚且つ絡むように稲葉の首に腕を回していた。 防衛本能が働いたのは無意識だった。 ふたりに歩み寄り強引に稲葉の体を引き剥がす。間に体を割り込ませるようにして、稲葉を背中にまわした。 「うちの生徒に、何か」 「生徒?はあん…なる程、これが噂の」 人影―――黒いライダースーツの男はにやりと口角を吊り上げ、笑った。それはまさに獰猛としか言いようのない笑みだった。何かを言おうとしていた稲葉が顔を引き攣らせて硬直する。 この男は危険だ。 警笛を鳴らすのは俺の本能か。真正面から睨み合う。男は笑っている。闘争本能を剥き出しにした眼光が、俺を捉えている。捕食者のようなそれ。異様な圧力だった。首の後ろがざわと粟立つ。無意識に足を引こうとして踏み止まったのはプライドと、後ろに守らなければならない奴がいるからだ。 いざという時は稲葉だけでも逃がさなくてはいけない。その為には何が一番最良の選択か、考えていると当の稲葉が俺のシャツをぐっと握った。 「…っちょ、ちょ、ちょっと待った!何でいきなり喧嘩腰!!」 「ああん?」 絞り出すような悲鳴に近い稲葉の声。男の顔から笑みが消えた。 余計な事を言って刺激するなと喉まで出かけたが、驚いた事に男は先までの物騒な気配を嘘のように霧散させていた。稲葉を睨むその目はただ目つきが悪いだけのように見える。その場に漂っていた緊張が少し緩んだ。 「お前のハニーが喧嘩売って来たからだろ?」 「ハニーって言うな!」 「ったく邪魔しやがって、ここんとこ暴れてねえから丁度いいと思ったのによ」 「相手選んで下さい!この人これでも教師ですから!暴力沙汰とかシャレになんねえッスから!」 「何で俺が相手の都合まで考えてやらにゃなんねえんだ」 「そういう人だよあんたはあああ!」 訂正。大分緩んだ。 俺の背中から出た稲葉は男の胸倉に掴みかかる。だがそれは喧嘩腰というよりじゃれついているだけのように見えた。男もそれを許容している。 「…稲葉のお知り合い、でしたか」 「同じアパートの住人だ」 「そうとは知らず失礼しました。稲葉の担任で、千晶と言います」 「深瀬だ。アンタの事は夕士から色々聞いてる」 「今日は、彼の迎えに?」 「いや、通りかかったらこいつが出て来る所だったから、拾ってやろうと思ったんだが…」 深瀬と名乗った男は俺と稲葉を見比べて、やがて面白そうに鼻を鳴らすとメットを被った。フルフェイス。よく見れば男の数歩後ろに化物みたいな二輪がある。この男が、先日田代が言っていたバイクの男なのだろう。田代、お前の希望通り、大層な男前だぞ。人相は悪いが。 「今日は予備のメットもねえし、俺は先に帰るわ。夕士、センセイにしっかり送って貰え」 そう言うとグローブをつけたままの手で稲葉の髪を掻き回した。髪をぐしゃぐしゃにされた稲葉はそれでも嫌がる素振りは見せずされるがままになっている。 奇妙な既視感があった。それが何から齎されるものなのか分からず、俺は小さく首を捻る。 男はバイクに跨った。アクセルを開いた瞬間に、巨大な鉄の塊が命を吹き込まれる。その巨体が一声唸ると、まるで本当の生き物のようにその場でターンした。赤いテールランプが綺麗な半円を描く。扱いが難しいとされる巨体を自分の体の一部のように操る様は見事だった。 「ちょっと明さん、帰んじゃないんですか?そっちはアパートとは逆っすよ」 「お前のお陰で不完全燃焼だ。ちょいとひっかけてから帰るわ」 「飲酒運転ダメゼッタイ!」 「誰が酒なんて言った。女だよ、女」 「仕事しろ不良中年!!」 腹の底に響く排気音と小気味のいい笑い声を残して、大型二輪は走り去った。残された俺たちはそれを見送って、やがてどちらともなく溜息を吐く。 「お前は知り合いまで得体が知れないんだな。絡まれてるようにしか見えなかったぞ…しかも何だ、とても堅気とは思えん」 「うちの住人たちと一緒にされんのは甚だ不本意なんだが…ま、心配かけて悪かったよ。守ろうとしてくれたのもありがとう」 「言うな恥ずかしい…とんだ早とちりじゃないか」 「何でだよ。かっこよかったぜ?」 「………」 俺は再び溜息を吐きだした。 何時ものように色素の薄い髪を掻き回そうと手を伸ばして、ふと先の光景が目に浮かんだ。 男の手が稲葉の髪を掻き回す。その仕草に覚えた既視感。あの仕草。俺のそれと、少し似てはいなかったか。次いで、男に詰め寄る稲葉の姿が頭を過った。交わされる軽口。稲葉を許容する男と、許容されているが故の甘えが混じる稲葉のやりとり。 知らずもやっとしたものが胸に湧き、途端脳裏に例の女生徒の元気な声が再生される。 ”嫉妬の一つでも見せて欲しかったわ!” 「千晶?」 頭に手を置いたまま動かなくなった俺を、稲葉は不審そうに見上げている。ああ、そりゃ不審だろう。目の前で教師が突然蹲り頭を抱えりゃ誰だって不審に思うに決まっている。 あの男が見事に操るバイクに乗る稲葉を想像した。実際目にしたわけでもないその光景に、信じがたい焦燥を覚えた。 だれか、嘘だといってくれ。 これは正しく、嫉妬と呼ぶべきものではないのか。 |
(それは信じ難くしかし思えば合点もいく)
千晶から見ても画家はカッコイイのではないかと思って。