境界






 伸びてきた右手を掴んだのは、反射のようなものだった。

「お前、これ止めろ」

 俺の胸に伸ばした手を止められた稲葉は不思議そうに首を捻った。
 俺の不調をどういう原理で嗅ぎ分けているのか、稲葉は多くは語らない。ただ奴が伸ばしてくる手は確実に俺の疲労を攫って行く。俺はそれがどうにも気に食わなかった。
 口には出さず、何で?と問いかけて来る。
 何故、だと。本当にわからないのか。わからないのだろうな。聡い癖に妙な所で鈍い子供だ。疲れているのに苛立たせないで欲しい。あ、そうか俺が疲れているからこいつはこうなんだ。何だこの悪循環。まったくもって腹立たしい。

「俺の目を節穴だとでも思ってるのか?どう考えたって、お前の負担になってる。そんな事を続けさせるわけにいくか」
「あんたがもうちょい自己管理に気を遣えば、これの回数も減るんじゃないか?」

 正論だ。耳が痛いにも程がある。だがそれを易々と受け入れるわけにはいかないのだ。稲葉の言うそれが正論であるなら、俺は俺の正論を説く。正論がひとつだなんて誰が決めた。

「いいか、これは俺の問題なんだ。疲れてんのも寝不足なのも貧血なのも、お前みたいにすぐにどうこう出来るわけじゃないが、テメエのケツはテメエで拭くよ。お前がいちいち気を揉む必要はない」

 今まで散々助けて貰っておいて何と言う言い草だ、とは自覚しているので言わないで欲しい。しかし俺の疲労を攫っていった稲葉がダメージを負っているのがわかっているのに、気付かない振りをして自分だけ楽になろうとは間違っても思わないのだ。
 俺の言葉を黙って聞いていた稲葉は少し考えるような仕草をして、やがて呆れたように小さく笑った。

「教師ってのは因果な商売だよな」
「あん?」
「大勢の生徒の見本でなきゃいけない。教師である前に人間だなんて当たり前の事も許されない。生徒を理解して、打ち解けるには踏み込んでいかなきゃいけないのに、自分の方には踏み込ませるなんて以ての外だ。難儀なこったな。こういうのが面倒だから、踏み込んでくる教師が減ったんだろうか」

 鈍器で頭を打たれたような衝撃があった。
 この子供は確かに、鈍くはない。特に、他人が引く境界線には酷く敏感だ。それは両親を失ってから親戚の家で過ごしたという三年間に培われた自己防衛の一種かもしれない。
 ”お前には関係のない事だから、それ以上は踏み込んでくるな”
 俺の言葉をそう捉えたのだろう。実際、端的に捉えればそういう意味だった。そこにどんな心情が紛れ混むかは、最早問題ではないのだ。
 引こうとする稲葉の手を、俺は離さなかった。

「教師じゃなくたって、自分のテリトリーに相手を踏みこませるのは勇気がいるさ。躊躇だってする。お前もそうだろう?」
「俺?俺は割とオープンだと思うけど」
「何処がだ。お前みたいのをな、得体が知れないって言うんだ」
「あんたに言われたくないね」

 鼻を鳴らした稲葉はしかし、俺の手を振り解こうとはしない。
 傷付いた風ではない。だが本当の所はわからない。嫌に大人びた言動に達観した眼差し。不思議な力を使うからというだけではなく、纏う雰囲気そのものが何処か浮世離れしている。俺はこの子供の事を何も知らない。ただ子供が、真実まだ子供なのだと言う事しか知らない。
 手を引いた。引かれた稲葉は思いの外呆気なく俺の胸に倒れこんで来る。その首を捕まえて頭の上に顎を乗せた。ゴッと鈍い音がしたのは勢いがつき過ぎた所為だ。顎の下で子供が痛えと喚いている。だろうな、俺も痛かった。

「俺は確かに立場上、生徒らに深く踏み入らせる事は出来ねえよ。それがマナーで、大人の見栄って奴でもある。それなのにこっちは踏み込んでいかなきゃなんねえんだから、不公平って言われりゃ尤もだ。本来ならそれに気付かせないのも大人の役目なんだがな」

 最後は苦笑交じりだ。喚くのを止めた稲葉は代わりに、俺の腕の中で器用に肩を竦めて見せた。

「あいにく、最近擦れた大人にばっか囲まれてるもんで、俺の大人の見方もすっかり擦れちまっててよ」
「擦れた見方ってのは、ある意味純粋なんだ。本質を真っ直ぐ見ようとしてる、そんな見方をされると、後ろめたい大人は困るのさ」
「あんたも後ろめたいのか」
「大人だからな」
「痛い所をつかれると煙に巻きたくもなる?」
「そういう事」

 笑うしかなかった。真っ直ぐに見られると眩しい。だがそれ以上に嬉しいと言ったらこの子供も笑うだろうか。

「だけどな稲葉。お前がどんだけ得体の知れない擦れた餓鬼でも、お前は俺の可愛い生徒で、ついでに言うなら個人的にも気に入ってたりするんだ」

 誰だって、正面から向かい合おうとしてくれるのは、嬉しい。そして愛おしいと思う。
 首を抱く腕に力を込める。

「守らせろとは言わない。お前に心配かけないように俺も気をつける。だからせめて、俺を負担にするのは止めてくれ」

 そんなのは堪んねえよ。短い髪に鼻先を埋めて呟けば、腕の中から唸り声がした。それきりぴたりと反応のなくなった稲葉の顔を覗きこむ。何とも複雑としか表現のしようのない顔がそこにあった。

「稲葉?」

 じっと様子を伺っていると稲葉の視線はふよふよと泳いで、

「…善処、する」

 呟いた途端火を吹くように赤くなった。
 ああ何だ、あれは赤面一歩前の表情だったわけか。
 俺は思わず全力で稲葉を抱き締めた。力加減などすっかり忘れていたので相当苦しかったのだろう。締め落とす気か、と怒られたのは言うまでもない。

 しょうがないだろう。
 年相応のその顔を可愛いと思ってしまったのだ。













(引くも破るもこころ次第)