何てことはない
昼休み。 何時ものように教室で広げたるり子さんの弁当を田代達につまみ食いされながらそれでも何とか食い終わり、俺は屋上に出た。 貯水塔の上。姿は見えないがくゆる紫煙が晴れた空に吸われていく。どうやら今日も先客がいるようだった。 「よう」 「おう」 これも、何時ものやりとり。 俺のクラスを受け持つ担任教師、千晶直巳は空いた時間をこの場所で過ごしている事が多いようだ。千晶が着任する前は俺だけが知る「誰にも邪魔されない平和的スポット」だった。教えたわけでもなく、何かにつけちゃ生徒に群がられる千晶がここに来るようになったと言う事は本能的に俺と同じものを嗅ぎ分けたという事だろう。 この場所にふたりでいて、とくに何を話すという事もない。勿論、世間話をする事はあっても基本的には各々が好きに寛いでいる。互いの存在が互いの邪魔になっていないという事が、心地好い空気を生み出すのだ。 今日の千晶は体調もそう悪くはないらしい。赤黒い靄も見えないし、煙草もうまそうだ。最初のやりとりの後、千晶から一歩離れた場所に腰を降ろし読むつもりで持ってきた本を開く。 こういう時は大抵、そのまま一言もなく時間が過ぎ、予鈴が鳴る頃「じゃあな」「おう」というやりとりだけを残して昼休みが終わる。俺たちは互いに会いに来ているわけではない、昼休みを満喫する為にここにいるのだ。それだけで十分と言えるだろう。 だがこの日は少しばかり相手の様子が違った。 「今日は何を読んでるんだ、稲葉?」 いや、正確にはここ数日の様子が違うのだ。それが何時からか、考えるとどうにも修学旅行から帰った頃辺りの気がする。 「一色黎明の詩集だよ」 「へえ、またコアなもん読むんだな」 本を読んでいると控え目ながらこうして声をかけて来る。昼寝と決め込むとすぐ隣まで来て俺の頭をふわふわと撫でる。またその声も仕草もタイミングを読んでいるのか、俺が邪魔と思わない隙をついてくるのかどうか知らないが、絶妙で文句も言えないのだ。 「俺のダチに一色黎明の大ファンがいてな、絶版になった初期作品を血眼で探してるよ。どうしても手に入らないのがあるって…何だっけな、永久の…」 「”永久の礎”?」 「そう、それ!…ひょっとして持ってんのか?」 「いや、俺は借りて読んだ」 本人に。と心の中で付け足す。あげようか、とも言われたが冗談ではない。喉から手が出る程欲しかったが、あの人の初期作品は一部では何十万という値でやりとりされているのだ。そんなもの貰える筈がない。 とまあ、こうして俺が食いつく話題を振って来るのだから性質が悪い。 そもそも俺の記憶が正しければ、俺が屋上に来ると大抵この男と鉢合わせる。修学旅行前はここまでではなかった筈だ。 「なあ、あんた最近職員室に居づらい理由でもあんのか?あれか、教員同士の虐めとかそういうドロドロした奴か」 「どうした突然。何でそうなる。第一俺が虐めなんかに屈するか」 「だよなあ」 千晶ならば大人らしい笑みを浮かべたまま正論で相手を叩きのめし腹の底で舌出して哂うくらいはするだろう。あまりに非現実だった。 では一体なんだと言うのだ。この分では雨でも降っていない限り毎日ここにいるのではなかろうか。 「何だ、俺がここにいちゃまずいか?」 「別に。あんたの話は面白いから、俺はいいんだけどさ。生徒から逃げて来た先で生徒の相手してたら本末転倒じゃね?と思って」 千晶はきょとんと目を瞬いた。そして徐に真剣な顔になると、大真面目にのたまう。 「稲葉、俺は我儘なんだ」 ああ、うん、そうだろうな。何となくそんな感じはしてた。しかしそれを何故今真顔でカミングアウトだ。何事かと思ったぞ。てか何事だ。 「基本的に、仕事でない限りはやりたい事しかしないんだ」 「はあ」 「昼休みってのは校内にいて唯一、仕事から解放される時間なんだ」 テスト期間じゃあそうも言っていられないが、と忌々しげに付け加える。何だか支離滅裂な気がするが、千晶の言う事を要約するとこうだ。 ”仕事から解放される昼休みは自分のしたい事しかしてない。” 「だから、その自由時間にまで生徒の相手をするのは疲れないか?」 「惜しい!そこまで理解出来んならもう一歩踏み込めよ!」 「はあ?」 「高確率でお前がいるのを知っててここに来てんのは俺だぞ?お前の読書や昼寝を妨害してまで話しかけてんのは俺だぞ?」 妨害してる自覚はあったのか。とは口に出さずに俺は首を捻った。というかそれは自信満々に語る事柄なのだろうか。 「つまり俺にちょっかいかけんのも好きでしてる事だと?」 「そう。…ちょっかいって…いやまあそうなんだが…やっぱり邪魔か?」 急に殊勝になった千晶に思わず吹き出す。 修学旅行の後、千晶との距離が少しだけ近付いた事は何となく気付いていた。千晶からすれば、一度弱みを見せてしまったからには今更繕うのも面倒臭いという怠惰の現れもあるかもしれない。以前にはなかった「甘え」らしきものがちらほら見える。それでもこの男は教師だ。校内で生徒を贔屓するわけにはいかないだろう。だから他の生徒と比べて一歩分仲良し、くらいの認識なんだと思っていたし、実際俺もそう思っていた。 だがこの男は教師でない部分でまで俺を構うくらいには、俺の事を気に入ってくれているらしい。 それがわかったら可笑しくて堪らなくなった。 「もしかして、ここんとこ何時もいるのは、俺に会う為か?」 「教室じゃ落ち着いて世間話も出来ないだろうが」 「ま、ハイエナにたかられんのが落ちだな」 ひとしきり笑った後、少し不満そうな顔をしている千晶の肩を拳で突いた。胸に温かいものが満ちている。ひょっとしてこれが、フールの言う「良い波動」というものなのだろうか。今もポケットの中にいるだろうフールの満足げな顔を思い浮かべて俺は口角を吊り上げた。 「邪魔だと思ってたらとっくに他の場所探してる。構って欲しいならそう言えよ、センセ」 「………生意気ー!」 不満げな顔がやがて不敵な笑みになり、俺にヘッドロックを食らわせる頃には貯水塔の上、ふたり揃って馬鹿みたいに笑い転げていた。 |
(これが彼らの通常運行)