現実を変えて
例えば、コップいっぱいに注がれた水。 表面張力で溢れる事を堪えている。あと一滴。たったそれだけの干渉で、辛うじて保たれた均衡が崩れ去る。 それが、今の我ら人類の在り様だろう。 我らはそれに抗った。あらゆる知識を持ち寄り、打開策を検討した。頭上から今まさに一滴の水が注がれようとしている、その間際、我らが辿り着いた結論は酷く滑稽に歪んだものだった。 コップの水を、氷らせてしまえばいい。そうしてしまえば、たった一滴の水に怯える事はなくなろう。 我らは、一切を拒絶した。注がれる水滴は我らの上を滑り、落ちた。我らは変わらない。冷たい殻に閉じ籠り、永遠に変わらない。 これは、生きている、と、言えるのだろうか。 殻の中でいくら足掻いた所で、所詮は殻の中の事。人類は、自らを取り違えた。この小さな世界で新たな生物を創造し、それによって自らが神であるような錯覚を起す。誕生は無意味に繰り返された。だが、ここは死の世界だった。狭く冷たく、暗く無機質な、惨めな世界だった。 凍えて行くのが分かる。 壊れて行くのが分かる。 悲しみや虚しさが薄れて行く。 そんな時、私は決まって『彼』の元に行くのだ。 「―――水島さん」 私の立体映像に向け穏やかに微笑む彼は、この不愉快に狂った世界の中で唯一、『生』を感じさせるものだった。彼の傍は―――傍と言っても私の生身の肉体が彼の隣に立つ事など出来はしないのだが―――とても心地が好い。 『気分はどうかね、アイスマン』 「これと言って。貴方は相変わらず、浮かない顔をしていますね。立体映像では分かり難いけど、顔色もよくないんじゃないですか。私にどうこう言う前に、自分が休息を取るべきでしょう」 『まったく、君は御節介だな』 思わず苦笑が零れてしまうのも無理はないだろう。彼は我らにとっては実験体で、貴重なサンプルだ。その彼に体調管理を促されるというのだから、笑うしかない。 だが嫌な気分ではなかった。豊かに響く彼の声は柔らかく、染み入るように暖かい。彼のまわりにだけ、色がある。穏やかな生。冷たい氷の中にいる事を忘れさせてくれる、私は、彼という生き物がとても好きだった。 『これでも、充分休養はしているつもりだよ。君が気にする事じゃない』 「ミコトが心配してるんです。博士はろくに寝てないみたいだと」 『…そうか…』 彼が『ミコト』と呼ぶものは、私にも彼にもよく懐いた。私はあれの名を呼ぶ事も、愛情を与えてやる事も出来ないが、彼は惜しみなくそれをした。それは心温まる光景だった。 そんな風に感じる事が出来る、私の心はまだ生きている。 だがそれも時間の問題だろう。何時か、私の心は彼の色に声にその笑みにすら、動く事などなくなるのだろう。 その時が来るのが、酷く怖い。 その時私はどうなる。彼は、どうなる。 ゆっくりと狂っていく世界を、止める術などありはしない。 「―――アイスマンを再凍結する」 ああ―――凍えていくのが分かる。 壊れていくのが分かる。 悲しみや虚しさが薄れていく。 だからすべてを失ってしまう前に、君をここから、解き放とう。 罪悪感とか、罪滅ぼしとか、そんな事、君には呆れられるかもしれないけれど正直どうでもいいんだ。 ただ君が好きだから。 君をとても愛おしく思うから。 動きしゃべるだけのものに『命』を吹き込む奇跡のような君という存在に、最初で最後だ。贈り物を、させておくれ。 大丈夫、君ならきっと。 きっと―――――――――。 |
水島さんの年齢はわかりませんが息子みたいに思っててもおかしくないかな、と。
水島さん大好きです。年上に弱いハクオロも大好きです。
09/02/12
臆病な10題