あなたの、名を

※多少のグロテスク表現有り。苦手な方は要注意。







 全身が、熱い。
 痛みか、恐怖か、或いは、歓喜。
 払った鉄扇の先で、肉を切り裂く感触。生温い飛沫が頬を打つ。突き上げ、振り降ろせば硬い物が砕ける音。ずぶりと沈んだ先でそれを開けば勢いで捩じ切れた丸い物が飛んだ。或いは、中身をぶち撒けて地にくずおれる。己の身に起こった事実を理解出来ずに零れたモノを必死で掻き集めようとする様が滑稽で笑い出しそうだった。幾重にも襲い来る切先。飛来する鏃。その全てをかわし、打ち払い、また骸を積み上げる。手緩い。呟き、咆哮する。まるで獣だ。他人事のように、思う。否。生きるために駆る獣の方が、ずっとましだ。鉄扇を振るう度に、飛散したものが宙を舞い、地に叩きつけられる。そうして思う。
 甘美だ。
 何という昂揚感。これ程までに心躍るものが、他にあっただろうか。
 舌で唇を湿らせた。口角が吊り上がっている事に、初めて気がついた。嗤っている。自分は愉しんでいる。争い、戦い、そんな生温いものではない。これは、殺戮。命を弄ぶ、行為。
 そうだ、これらの事は、己が。
 ―――――――――が、人々に教えた行為。

「兄者!!」
「―――――、」

 呼ばれた、気がした。
 ふと気付くと、辺りに敵の姿はなかった。立ち尽くす。何をすればいいのか、わからなかった。わからなかったから、きっと、己を呼んだのであろう男を振り返る。見た覚えのある顔が、そこに並んでいた。あれらは、何という名だったか。どの顔も、酷く不安定に揺れていた。

「兄者、大丈―――、」

 ああ、そうだ、確か。

「『オボロ』」
「え?!あ、ああ…」

 どうやら当たっていたらしい。
 しゃべる震動が、左肩に響いた。正確には、首の付け根に極近い場所。矢が突き立っていた。煩わしい。柄を掴んで引き抜こうとしたが、返しが深く肉に食い込んで動かなかった。面倒になって、力任せにその柄を圧し折る。反動で鏃が傷口を広げ、血が噴き出した。痛みはない。だが見ている方は気が気ではなかったらしい。慌てて駆け寄ってくる。

「総大将、何やってんですかい!」
「大事ない。それより、『クロウ』、『ベナウィ』は、どうした」

 覚えている。否、思い出した。
 この矢を受けた瞬間に見た、ひとりの男の驚愕の表情。そしてその一瞬生じた隙に、同じように矢を受けた。滅多な事では表情を変える事のない男の、苦渋に歪んだ顔は、己の受けた痛みなどではなく、傷を負った主への焦燥、そしてそれを防げなかった己への重い後悔に満ちていた。それでも男は槍を振り翳し、鬼神の如き猛攻で敵を蹴散らしていた筈だが。
 圧し折った、矢の柄を見る。受けたのは、同じ矢だ。

「毒が、塗ってあったろう」

 『クロウ』は、瞠目した。しかしやがて躊躇いがちにひとつ頷く。

「今は、ちぃとばかし後退して陣を敷きやした。大将はそこに。あの後も結構な勢いで暴れてたんで、ぶっ倒れるまで止めても止まりやせんでしたが…」

 ついでに、あんたも。
 不安そうな、それでいて不思議そうな顔で無言の内に問うて来る。何故、同じ毒矢を受けた皇は平然と立っていられるのか。期待に応えられるだけの回答は持たず、皇は柄を捨て颯爽と歩き出した。

「『オボロ』、全軍の指揮を任せる。この辺りを掃討し一兵たりとて陣に近寄らせるな」
「お、応!」
「『クロウ』、被害状況を報告してくれ」
「へい」
「『ウルト』たちは負傷兵たちの所へ」
「畏まりました」

 矢継ぎ早に指示を飛ばす様子は何時も通りの皇だ。だがその事が一層違和感を強くする。肩の傷など、まるで気にする事もなく歩いてはいるが、未だ新しい血が流れ続けているのだ。
 それに、あの姿―――――。
 こんな皇を、あの娘たちが見たらどう思うのか。被害状況を報告しながら隣を歩く騎馬衆副隊長は、それとなく忠告を試みたが当の本人は何の事だと言わんばかりに一瞥をくれ歯牙にもかけなかった。
 やはり、何処か違う。何かが、可笑しい。だが明確に何がと言えるわけではなく、副隊長は胸に蟠りを抱えたまま静かに沈黙した。



 急ぎ張られた天幕。
 中へ入るとそこは血臭に満たされていた。
 奥の敷布に、ひとりの男が横たえられている。その傍に寄り添うように、見なれた薬師の背中があった。横たえられた体には脂汗に滲んでいる。その左肩が、黒い血溜りを作っていた。傷口自体、赤黒く変色しているようだ。薬師が必死になって薬を煎じていた。
 一歩、踏み出す。
 音はなかった。だが空気が動いた。漂う血臭が、濃くなった気がする。
 薬師は顔を上げた。蒼白な顔。その顔が恐怖に引き攣った。喉の奥で、悲鳴のような息を飲み込んだ。
 それ程に、酷い有り様だったのだ。
 全身に返り血と肉片を浴び、身につけているものの元の色など分からない。そんな中、仮面の下の双眸だけが炯々と薬師と男を見据えている。
 一瞬、皇だと認識出来なかった。あの優しい人だとは、とても思えなかった。

「ハク…、」
「状態は」

 それ、が口を利いた。
 紛れもなく皇の声である事に薬師は安堵する。だがそれと同時に鋭い緊張を走らせた。

「鏃を、取り出した所です。汚れた血を出してますけど、毒を受けてから、動きすぎました。正直な所、危険な状態です」
「わかった。ご苦労だったな『エルルゥ』、下がれ」
「…え?」
「下がっていい。あとは自分が看よう」
「え、で、でも…」
「心配するな、死なせはせん」

 本来なら、心落ち着く筈の皇の微笑み。だがそれが、妙な胸騒ぎを掻き立てた。薬師は幾許か躊躇い、やがてふらりと立ち上がる。今の皇の様子は尋常ではない。自分が口を挟む事ではないのだと察した。

「後で、調合したお薬を持って来ます。それと、着替えも…」
「ああ、すまない」

 途中何度も振り返りつつ、薬師は天幕を後にした。
 血の臭いが充満する天幕に、横たわった男の細い呼気だけが音を成している。
 皇は足音もなくその男に近付いた。左肩。己と同じ場所に、同じ矢傷。鏃を取り出す為に大きく切り開かれ内側の肉が覗いている。それさえも健康な色を失っていた。薬師の少女の言う通り、かなり危険なのだろう。
 すぐに撤退すればいいものを、矢を受け一度倒れた己の傍を、決して離れようとしなかった。

「馬鹿な…」

 毒に体を蝕まれながら、何度となく下がれと言った筈だった。しかしそれに返る言葉は聞けませんの一言。
 実際、彼の奮闘がなければ今頃敵陣営では盛大な宴が行われていた事だろう。皇の首級をあげたと。そうならなかった事には感謝している。だがそれでこの男を失っては何の意味もないと言うのに。

「『ベナウィ』…」

 横たわる男に、覆い被さった。
 苦しげな呼吸。土気色の顔。皺の寄った眉間が、皇の声にぴくりと動いた。うっすらと、瞼が持ち上がる。

「……聖、上…」

 掠れた声だった。
 だが確かに、自分は呼ばれた気がする。
 ご無事でしたかと吐息のように囁いた声は心からの安堵を示していた。長い前髪をそっと掻き上げる。苦しげだった男の顔がほんの僅かに和らいだ。

「戦場で、へまをやらかすのだな。お前のような漢でも」
「…あなたが…」

 こんな傷を受けたりするから。唇だけが、そうかたどった。
 震える右腕がぎこちなく持ち上がり、皇の左肩に触れる。その指が折れた矢に触れた時、先よりもずっと苦しそうに男は息を吐き出した。

「手当を…受けてはいないのですか…?」
「その前に、お前だ」
「聖上、どうか、ご理解を。私、などより…貴方の、」
「聞かん。お前は自分の言う事を聞かなんだ。だから自分も、お前の言う事は聞かない事にする」
「聖上…!」
「今の自分は、大丈夫だ」

 言うや否や、皇は男の肩口に顔を埋めた。
 左肩。毒々しく変色したその皮膚に、ぞろりと舌を這わせる。

「――――ッ、」

 腐食し始めている皮膚は熟れた果実のようだった。ぐじゅりと不快な音。爪を立てれば容易く食い込んで、黒い血を滲ませた。吸い上げると、弱くなった皮膚ごと口腔内に飛び込んでくる。

「聖、上…ッ、お止め下さい、そのような、不浄な…ッ」
「黙れ」

 激痛と不快感、そして何より皇にこんな真似をさせている自分が許せないのだろう。力の入らない腕で、覆い被さる皇の体を押し返そうとする。だが皇は構う事なく傷口を吸い続けた。暫くして顔を上げると口の中の異物を吐き出し、また同じように男の肩に咬み付いた。
 何度も繰り返す内に、抵抗がなくなった。否、正確には抵抗したくとも男は、腕どころか指先ひとつ、動かせなくなっていたのだ。鉛のように、体を重く感じる。目の前が白く霞んだ。横たわったままだというのに奇妙な浮遊感が襲い、ものを考える事すら億劫になっていた。
 皇は漸く、体を起こす。血塗れになった口元を袖で拭った。

「こんなものか…汚れた血を全部出したが、これでは間違いなく貧血だな」
「何……を…」

 男は虚ろな目で、ぼんやりと皇を見上げている。やがてゆるゆると首だけを動かし左肩を見た。信じられないものを見たように、その目が見開かれる。そこにあったのは生来の皮膚と、肉の色。うっすらと滲む血は鮮やかな赤だった。皮膚の表面が多少いびつに歪んではいるが、健康な人間のそれである。
 男の目が、今度は不可解なものを見るように、皇を見上げた。何故、声に出さず唇だけが動く。皇は答えなかった。答えられなかった。己にさえ、わからなかった。ただこうすればこの男が助かるような気がした。
 だから、その目から逃れるように仮面の顔を掌で覆った。

「『ベナウィ』…」

 記憶している、この男の名を呼ぶ。
 どんな顔をしているか。どんな目で己を見ているか。知りたくなくて硬く目を閉じた。

「は…い」

 掠れた、ややぎこちない是。

「『ベナウィ』、」

 もう一度、呼ぶ。

「はい、ここ、に」

 今度は先よりも、確りとした声が耳朶を撫でた。

「名、を…」

 呼んでくれないか。
 声は、不安定に揺れた。
 空いた右手が己の肩を抱く。肉に食い込んだままの鏃。この男を侵した毒が、同じようにこれにも塗られていた筈だ。一度は膝を折った。だからこそ、この男は無茶をしたのだ。だが気が付けば、己は獣のように戦場を駆けていた。薙ぎ払い、突き倒し、切り捨て屠った敵は、一体どれくらいになっただろう。血肉に塗れ、己は確かに歓喜していた。

「自分、は…」

 何故、この傷は痛まない。感じるのはいっそ陶然とする心地好さだ。
 何故、この毒は己の血肉を侵さない。まるでこの身は、あらゆるものを凌駕する―――――――――のようではないか。

「わたしは、だれだ」

 眩暈がする。
 己の声が、濁って聞こえた。全身が、熱い。煮え滾る。焼け付く。細胞のひとつひとつが、暴れ出し、狂う。破裂するのではないか。溶け出してしまうのではないか。この身が真二つに裂け、臓物を食い荒らした別の何かが出てくるのではないか。
 恐ろしかった。
 恐ろしくて、目の前の男に縋るように問うた。

「わたしは、だれだ」

 ひやりと冷たい物が、優しく、頬に触れた。

「ハクオロ、様…」
「わた、しは…」
「ハクオロ様、」

 触れたのは、男の掌だった。
 腕を持ち上げるのでさえ、酷く労力を費やす程体内の血液を失っているのに。土気色から青白く変わった顔色、それでも男は普段通りの真摯な表情で、己を『ハクオロ』と呼んだ。
 冷たい掌。それがあやすように、幾度も頬を滑って行く。そこから、全身に蔓延っていた渦巻くような熱が、解放されていくようだった。

 ああ、そうだ。
 私は、その名で呼ばれていた。

 無意識のうちに張りつめていたものが、弛んだ。

「…ベナ、ウィ…」
「聖上…?」

 途端に、激痛が襲う。
 切り裂かれるような痛み。左肩が悲鳴を上げていた。内側から抉られるような―――事実、己でやらかした無茶の所為で傷口は主に内側で広がっているのだが―――強烈な痛みに堪え切れずに、皇は体を折った。

「いだだだだだだだだ…!!」

 のた打ち回りたいのを必死の思いで抑え込んでいると、吐息のように笑う声。
 笑い事ではない、睨み付けようと顔を上げるがそれはすぐに元の位置に戻されてしまった。
 即ち、男の胸の上。
 一見繊細であるが彼の掌は武人らしく無骨で、意外な程力強く皇の頭を抱え込んでいた。浴びた返り血が固まり手触りなどいい筈もない髪に、そっと鼻先を埋める。

「生きている、証拠ですね…」
「―――――、」

 その胸から聞こえる鼓動が、あまりにも優しいから。



 激痛といとしさのあまり、ほんの少し、涙が滲んだ。








「ハクオロさん、お薬と着替えを―――……………」

 控え目に開かれた天幕。そこから顔を覗かせた薬師の少女。

「…………」
「…………」
「…………」

 天幕の中では、抱き合っているようにしか見えない皇と侍大将。(因みに薬師の来訪に驚き体を起こした皇は侍大将の腰の上に跨った状態である)
 暫しの沈黙の後、少女は一瞬の内に顔を真っ赤に染めあわあわと慌てふためき出した。

「あああああの、わた、私何も見てませんから!ハクオロさんがそんな…イヤ、大胆ッ…いえ何も!何も見てませんからぁぁあ!」
「エ、エルルゥ?!ま、待ってくれ誤解だ!」
「いいんですハクオロさん、私、気にしませんからッ、そんな偏見ないですしッ」
「いやいやいやいやいや!!そうじゃない誤解―――いだだだだだだッ」
「聖上、あまり動かれては、」
「ひゃわあああああスミマセン私すぐ出て行きますからーー!!」
「まま待ってくれ!ち、治療、治療してってくれエルルゥーーーーー!!!」

 重症である筈の侍大将が運び込まれた天幕から間の抜けた悲鳴が上がり、そこで漸く、固唾を呑んで見守っていた周囲の兵らは安堵の息を吐くのだった。
 あの分なら、大丈夫だろう。間違いない。
















大神半覚醒。
ちなみに、別にできてるわけではないので本当に誤解です(えええ)
このひとたちもう互いに無自覚にあいしあってればいいと思います。

ベナハクで10のお題