嫉妬
「おとーさん、なんか、キライッ」 いつものように木簡を抱えて主の待つ(本人が聞いたら断じて待ってはいないと言い張りそうだが)執務室へ向かっていた侍大将は、丁度その部屋から出て来た少女と擦れ違った。 憤慨しているらしいその少女は足音も荒く走り去ってしまう。擦れ違い様に見たその瞳は僅かに潤んでいたかもしれない。 去っていった少女を気にしつつ執務室へ足を踏み入れれば、何とも情けない顔をした主と目が合った。 「…ベナウィ…」 「……」 顔と同じように、情けない声である。 「…何事ですか」 「ううぅ…アルルゥに嫌われてしまった…」 本当に悲しそうにぼやく姿は僅かばかりの同情を誘われる。 だが皇の仕事机に積まれたままの木簡が目に入った途端そんなものは欠片も残さず吹き飛んでしまった。侍大将が自ら積んだ山である。今の時分であればとうに片づいていて然るべきものだ。 また脱け出して遊んでいたのかと疑ったが、それを察した皇は世にも情けない顔をして溜め息を吐くのだ。 「昨日、アルルゥと蜂の巣を取りに行く約束をしたんだ。その為に早く終わらせようと頑張ったんだぞこれでも。しかし今日に限って、気にかかる書簡ばかりだ。何度読み返しても、納得がいかなくてな。こんなものに軽々しく印を押すわけにはいかん。後日確認の上再提出するように指示を書いていたのだが…時間ばかりかかって仕方がない。結局思うように進まなくてこの様だ」 侍大将は皇によって積み上げられた要確認書類をひとつ手に取った。広げて目を通して見ると確かに、腑に落ちない点がある。また別のものを取っても同じような有り様だった。それに対する皇の指示は丁寧かつ的確で、なるほどこれでは時間がかかって当然だろう。 「これでは終わるものも終わりませんね…申し訳ありません、指示の徹底を心掛けます」 「ああ頼む、しかしアルルゥには悪い事をしてしまった…」 いかな、日頃怠け癖のある皇と言えどこの現状を放置して遊びに行こうとは思わないらしい。不幸中の幸いだが、そのあまりの落胆ぶりに思わず苦笑がこぼれてしまう。 目に入れても痛くないほど可愛がっている愛娘に「キライ」と言われたのが相当堪えているようだ。これでは兄馬鹿と名高いもうひとりの若き侍大将の事を笑えまい。本人に自覚がないのがまた重傷だ。 「私も、お手伝いしますのでそう腐らないで下さい。今日はこれらと、今私が持ってきた分を終わらせたら結構ですから」 「ほ、本当か!」 「ええ、ですからもう暫しのご辛抱を」 本当ならもう少し進めておきたい書類があったが、たまにはいいだろう。これまでの頑張りと、皇女の涙、そして皇の心底情けない顔に免じて目を瞑る事にした。 案の定、それを聞いた皇は途端に顔を輝かせるのだ。 ふと微笑みがこぼれる。 ああやはり、沈んでいる顔よりずっといい。 戦場に在るこの人の顔を、ひとりの武人として好ましく思う。皇座に在るこの人の顔を、ひとりの家臣として好ましく思う。 だが何より、日常に在るこの人の笑みが、ひとりの人間として―――――。 愛娘との約束を守る為、真剣な面もちで筆を取り書簡を睨みつけている皇にそっと嘆息する。 何時もこれくらい集中して執務に取り組んでくれれば、もっと自由時間も増えるし自分の小言を聞く事もないと思うのだが。 以前にもそんな事を言った覚えがある。その時はそれだけの集中力が続かない、それが出来れば苦労はしないと暢気な答えが返ってきたものだ。わかっているならどうにかして欲しいのだが、性格だと切られてしまえばそれ以上は何も言えなかった。言えばだから自分は皇になど向いていないのだ誰か代わってくれるなら代わって欲しいともうとっくに決着がついている事をグチグチと掘り返しかねない。それは困るのだ。 自分にとって、彼以上の皇など最早存在しないのだから。 どれほど強く、賢く、優しい皇も、彼でないのなら意味はない。彼だけが、この国の皇であり、彼だけが、 (私の、皇―――――) 例えば。 あの皇女のように、彼を突き放したのが自分なら、皇はこんなにも必死になってくれただろうか。 とても想像出来なかった。色々とありえない。 苦手だと言う机仕事を黙々とこなしていく皇を盗み見て、つい笑ってしまう。 ああ本当に、何て可愛らしい人なのだろう。 戦場に立つ背は広い。迷いなく、力強い采配に、どれだけ奮い立たされた事だろう。あの、どんな苦境も恐れず立ち向かう勇ましい人が、娘に嫌われるのを怖がって必死になっている。 ああ、本当に。 何て、愛おしい人なのだろう。 この人の微笑みも、真剣な表情も、自分とはかけ離れた場所にある。 こんなに間近で、見ているのに。 筆を動かす手が心なしか鈍くなったのは、その事がほんの少し、寂しかったからかもしれない。 |
嫉妬と呼ぶにはあまりに拙い。嫉妬をするだけ踏み込んでもいけない。
そんな感じでこれでも無自覚(どんだけ鈍いの)
ベナハクで10のお題