逃げられた…
執務室に戻るとそこには異様な光景があった。 本来、主が座っているべき場所に巨大な白い塊が居座っている。 皇の愛する娘が可愛がっている、森の主だ。 今の皇が皇となる以前、敵対していた時こそ戦場で痛い目に遭わされたが、普段は至って大人しい、特に母と思い慕っている皇の娘には従順なものだ。 それが、今何故ここに。 あたりを見回すが、森の母の姿はない。この獣が単独で行動する事など滅多にない筈なのだが。首を捻っているとその獣が呻き声をあげた。 いや、正確には、腹這いになった獣の腹の下からよく知る声が唸ったのである。 「……そこにいるの、は、ベナウィ…か…?」 聞き違える筈もない、主の声である。 「…はい、私ですが…聖上、何をなさっておいでですか」 「ううう…たすけてくれぇ…」 近付いて覗きこんでみると、獣の胸の飾り毛に埋もれるように仰向けになった主の顔があった。 どうやら獣の腹に敷かれているらしい。途方に暮れたように侍大将の顔を見上げている。当の獣の方は満足そうに喉を鳴らして寛いでいた。 一体、何がどうなってこんな有様になったのか。 「最近、アルルゥがガチャタラにばかり構っているから、ムックルが拗ねていてな。それを慰めてたら離れなくなってしまった…どうしよう」 「どうしようと仰られましても…」 流石にこれを力技で退けるのは、無理だ。傷付けてもいいのなら方法はあるだろうが、この獣は既に仲間であり、この国の家族だ。出来よう筈もない。 「苦しいのですか?」 「いや…うまく体重がかからないようにしてくれてはいるみたいだから…しかし身動きが取れなくて腰が痛くなってきた」 そういう意味では非常に苦しい。呻くように零す皇に、思わず笑みが零れた。 勢い余って押し倒されたのだろう、乱れた髪もそのままに仮面の顔に散っている。 それをひと房ひと房、丁寧に整えた。 「もう少し、我慢して差し上げては。ここ暫く、新しく出来た弟に母君の寵愛を奪われて寂しそうでしたから」 「そうなんだよな…本当にもう、ムティカパとしての威厳も何もない様子でアルルゥの後をついて回っていたり…だが私の腰もそろそろ限界…」 苦笑の滲んだ台詞の最後が、不自然に消えた。 訝しく思い、だがふと気がつく。 心休まる平穏な日々が続いた事、政が滞りなく進んでいた事、そして目の前の微笑ましい光景に、気が緩んでいたとしか思えない。 皇の髪を整えた手、それが無意識に、滑らかな髪を撫でていた。 何度も。 慈しむように。 「―――――…ご無礼を働きました」 「い、いや、いいんだけど…」 呆然としている皇に深く頭を下げ、立ち上がる。 その顔に先までの微笑みはなく、既に何時も通りの感情の読み取れない無表情だ。淡々と続けた。 「今日は差し迫った職務も御座いません故どうぞごゆるりとお寛ぎ下さい。それでは御前を失礼致します」 「え、お、おいちょっと、」 寛げってこの状態でか。 行くならこれを何とかしていってくれ。 言いたい事を伝える前に、侍大将は颯爽と執務室を出て行ってしまった。 「……逃げ、られた…」 残された皇は獣の腹の下でここからの脱出方法を真剣に思案するしかなかった。 その顔がほんのり火照っていたいた事は、皇を敷物にしている白い獣しか、与り知らぬ事である。 |
忍びきれていない好意(でも無自覚)
皇の赤面は照れ臭かっただけですきっと。相手が誰でも(夢がない)
ベナハクで10のお題