まるで聖者の |
何時ものように扉を潜るとカウンター席に男がひとり、座っていた。 開店前のバー。店にいる人間など限られている。高岸は、表で見た。カウンターの中では既にボータイを締めた坂井がグラスを磨いている。私の来訪に坂井が小さく頭を下げた。 スツールに腰掛けた男は動かない。カウンターの上で手を組みじっと俯いている。僅かに背を丸めた姿は神に祈りを捧げているようにも見えた。だが男はきっと祈っているわけでも、そも手を組んでいるわけでもない。組めないのだ。男には、左の手首から先がなかった。 「沢村先生」 声に、男は漸く顔を上げた。片手のピアニストが、体ごと振り向いて、笑う。 「こんばんは、川中さん」 酷く穏やかな笑みだった。 男の隣に腰を下ろすと、すぐにグラスが差し出される。 シェイクしたドライ・マティーニ。開店前に一杯。この習慣を続けてどれくらいになるのか。考えようとして止めた。 私の為だけにこのカクテルを作った男達がいた。皆良い腕だった。その殆どが、まるで道ですれ違っただけのように通り過ぎて行った。今カウンターの中にいるこの男は、何時までカクテルを作り続けるだろうか。死ぬまで。そんな気がする。この男もいずれ、彼らと同じように軽く片手をあげ微笑みながら通り過ぎて行くのだ。或いは私が先に死ぬだろうか。私が死んだら、坂井は二度とドライ・マティーニをシェイクしたりはしないだろう。そういう男だ。 「川中さん」 では、左手を失くした沢村明敏は、一体何時までピアノを弾き続けるのだろうか。 「川中さん私はまだ、ここにいてもいいのでしょうか」 静かな声。今はない左手。やはり祈りによく似た仕草で右手と合わされている。 「いてはいけないと、思うんですか」 「わかりません」 「ピアノ、弾きたくありませんか」 「とんでもない」 「ならいればいい。弾きたいと思わなくなるまで、弾き続ければいい」 言ってから、この男がピアノを弾きたくないと思う日が来るのだろうかと考えた。気持ちを、すべて音で表そうとする男だ。そうする事しか出来ない、息をするように、鍵盤に触れる。それを止めると言う事は、死ぬと言う事ではないのか。それもいいかもしれないと思った。 この男にソルティ・ドックを驕るのは、趣味みたいなものだった。同じ趣味を持っている人間が、何人かいる。そしてその趣味を何より楽しみにしていた男もまた、我々の横を悠々と通り過ぎ、今の沢村の演奏を聴く事はない。弾き続ければいい。ピアノは、沢村明敏そのものだ。生きている限り、弾き続ければいい。その音はきっと、去って行った男たちにも届くだろう。 「死ぬまで、弾いて下さいよ」 「死ぬまで」 呟いた沢村はやがて口元に淡い笑みを浮かべた。 「片手でも?」 「両手を、失っても」 笑い返し、私は席を立った。 |
09/11/09