乱暴に叩かれた扉。開けた先には白いシャツを血に染めた男が立っていた。

「またお前か、下村」
「またお世話になります。桜内さん」

 頭から血を滴らせた男は悪びれもせず口の端を吊り上げて笑った。




 額の生え際を数センチ切っていた。傷自体は深くはない。場所が場所なだけに大袈裟に血が出ただけのようだ。それにしても下村程の男が瓶で殴られたというのだから笑える話だ。

「だから坂井には黙ってて下さい。あいつ絶対腹抱えて笑いやがる」
「黙ってても前髪上げたらばれちまうぞ。縫う必要はないが、傷は一晩じゃ消えねえからな」

 カウンターの中の無表情な男がこの傷に気付きその経緯を知った瞬間を想像してみる。接客用の顔でどんなリアクションを隠すのか非常に興味深い。確かに、ボータイを外し素に戻った瞬間絶笑しそうだ。指も差すかも知れない。それはそれで面白そうな光景である。
 短くなった煙草を灰皿に押し付けた。すぐに新しいものを咥えて火を点ける。

「まったく、俺は川中エンタープライズの専医ってわけじゃないんだがな」
「他の患者は来ないんですか」
「まともな患者はまともな医者にかかるもんだ。ほれ、腕も診せろ」

 血の滲む右袖を引き裂き、眉間に皺を寄せた桜内は面倒臭そうに煙草の煙を吐き出した。
 二十センチ程の切り傷。深くはないが、浅くもない。出血が少ないのは筋に沿って真直ぐ平行に切られているからだ。

「三針でいいな」
「え、縫うんですか」
「文句を言うならその口から縫い合わせるぞ」

 言っている内に、既にひと針入れている。相変わらず目を疑う手際の良さだった。

「ドスの傷だな」
「礼に左をぶち込んでやりましたよ。顔面に」
「ブロンズでか。相手の野郎、いい医者に巡り合えるといいな」
「知りませんね。こっちはタキシードを一着駄目にされた。とんだ災難だ」
「その上坂井に笑いのネタまで提供した。いや、ひょっとしたら川中も笑うかもしれんな」

 容易に想像がつくその様子に下村は眉を顰めた。

「よし、これでいいだろう。一週間経ったら抜糸に来い。と言ってもどうせお前の事だ。聞きゃしないんだろうな。勝手に抜いちまうに決まってる」
「引き攣れて気持ち悪いもんで」
「医者の手を煩わせないろくでもねえ患者だよ畜生め」

 言って煙草の煙を吹きかける。他人から浴びせられる煙を下村は手で払った。

「俺にも煙草、下さい」
「手前のがあるだろ」
「丁度ここへ来る途中で切れちまった」
「買ってくりゃいいだろうが」

 文句を言いながらも、治療台の上に無造作に置かれた煙草を放った。ライターはパンツのポケットから取り出す。火をつけて、漸くひと心地ついたようだ。そんな下村の腕を見て、桜内はふと今はいない男を思い出した。

「そいうや、あの野郎も結局抜糸にゃ来なかったな」
「誰です?」
「藤木さ」

 下村にとっても、それはよく聞く名前だった。

「もっともあいつの場合は、抜糸が出来るようになる前に傷を抱えたまま逝っちまったんだがな」

 あの野郎も、そういう傷をこしらえてた、と下村の右腕を指差した。

「どんな人だったんですか」
「死ぬ為に生きていた男さ。そして生きた瞬間に死んだ男だ」

 下村は肩を竦めた。恐らく、川中や坂井も同じような事を言ったのだろう。

「面白い野郎だったぜ。つまんねえ男だと自分で思ってる辺りとかな」
「よくわかんねえな」
「俺や叶なんかは、川中よりあの男の方がずっと好きでね」
「社長や坂井も、その人が好きですよ」
「妬いてんのか」
「まさか。会ってみたかったとは、思いますがね」
「お前も、好きになったかもしれん」
「俺があの世に行った時にでも、紹介して下さい」
「ちょっと待て、その時には俺も死んでるって事か」
「そうじゃないとは限らんでしょう」

 桜内は舌を打った。乱暴に髪を掻き混ぜる。洒落にならない。

「しゃべり過ぎちまった。これじゃ、叶を笑えんな」

 立ち上がる。もう遅い時間だ。ひとつ欠伸をして奥へ引っ込もうとする桜内に、下村は首を傾げた。

「おい、治療費は」
「二百三十円」
「はあ?」
「明日昼飯を奢りに来い。蕎麦を食いたくなった。店は俺が教えてやるよ」
「何だい、そりゃ。本当にいい加減な医者だな」
「放っておけ」





 あの男が好きだった蕎麦はきっと今でも変わらぬ味のままあの店にあるだろう。
 懐かしくなったわけではない。


 この男に教えてみたくなった。ただ、それだけだった。














別に何の事はない日常。



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