自分でも不思議だった。 直接会って、話をしたら、必ず『あちら』へ行きたくなるだろうと、思っていたんだ――――。 仁慈 藤色の鷹を見つけて、声をかけようとは思っていなかった。 ただ何時もの蕎麦屋の前で、あいつが俺の名を口にしたりするから、殆ど反動のように返事をしてしまったのだ。あいつは、酷く驚いていたようだが、本当に驚いたのは実はこっちだ。不覚にも程がある。 「さっきからどうしたんだい、黙り込んで」 鬼哭村への帰途。 山の中俺の隣を歩く男が不思議そうに、だが少しばかり心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。 この男、奈涸は―――そういえば町の中ではぽってりと肥えた商人のナリをしていたのに人目に付かない山中に入るや否や一瞬の早業で変装を解いた。今度是非ともその一瞬をじっくり見せて頂きたい―――仲間になってからというもの、何くれとなく俺に気を遣ってくれている。他の仲間たちより、その傾向が強いのは偏にこの男が、飛水の末裔であるからなのだろう。 俺の体は通常の人間よりも地水火風の四元素、とりわけ水と風の影響を受けやすく、また与えやすい。水を抱く玄武を守護とする飛水の一族が、俺の《氣》の揺らぎを敏感に感じ取っているのだと思う。 「龍君…?」 「予想外だ…」 先ほど、目晦ましの結界を通り抜けた。もうじきに、視界が切り開ける頃だ。足を止めた。つられたように奈涸も立ち止まり、訝しげな顔をして振り返る。 戻りたく、なるだろうと思っていた。 今の自分の立場など忘れ、何もかも放り出し、今はもう失くしてしまった『以前』のように、彼らの許へ――――。 だがそれは、駄目なんだと思う。 それでは何も変わらないから。変わらないものを選んだ俺は、変わらない未来を過ごして、変わらない結果を得、変わらない絶望の淵に叩き落される。 もう一度、あの絶望へ―――? ―――――冗談は、よせ。 思い出しただけで、身が引き千切られそうだ。 そうともあの、絶望と比べたら、何て事は無い。 知らない誰かを見る目で見られても、知らない誰かを呼ぶように呼ばれても、懐かしい記憶の全てを、積み上げてきた全てのものを、否定、するように、何もかも、無かった事のように忘れ去られたとしても。 俺は耐えられると思っていた。耐えようと、思っていた。 それはとても苦しくて、悲しくて、叫び出しそうな事ではあるけど。 それでも生きて、いてくれる事が嬉しくて。 だから、と思っていた。 だから何時か、『その時』が来るまで彼らと『出会って』はいけないのだと。 だからこそ、直接言葉を交わす事を避けてきたのに。 思いの外あっさりと、覆された決意。 しかし自分でも意外な程、俺は落ち着いていた。 あいつを前に、俺は幻を見る。見回り途中の寄り道、他愛無い話をしながら蕎麦を食って酒を呑んで、戻ったら元気のいい少女に怒られて、クソ真面目な坊主に小言を喰らう。それをお嬢が苦笑をしながら見守っていたりして―――穏やかで、優しい、目の眩むような懐かしい幻だ。 だがそこに感じたのは、胸を締め付ける切ない郷愁ではあっても、この身を狂わせる呪いにも似た渇望ではなかった。 戻りたいと、切に思う気持ちは変わらない。 変わったのは、あの思い出だけを拠り所にし、縋り付き依存していた心だ。 何かが着実に、変化しているのか。俺の中で。 ふと、思い出したのは鬼を統べる男の顔だった。 陽の光を浴びて、赤い髪が金色に透けて見えた。苦しそうに、悲しそうに顔を歪めて、俺の声が聞きたいと涙を流したあの男がとても、とてもきれいだと思った。純粋な思い、純粋な言葉、その全てが柔らかな水のように、沁みこんでくるようだった。 愛おしいと、思った。 彼らと、同じように。 なくしたくないと。 「緋勇―――――、」 「………あれ、ぇ?」 声に顔を上げるとそこに奈涸の姿は無く、代わりに立っていたのは赤い髪の男だった。僅かに肩で息をしている。村からここまで走ってきたのだろうか。 「どうした、旦那」 「どうしたではない、奈涸が…お前がここから急に動かなくなったと、言って…」 「………」 それで、迎えに来ちまったわけですか。頭目自ら。何てこった。 俺は額に手を当てて溜息を吐き出した。 「大丈夫、なのか。具合が悪いなら桔梗を呼んで―――、そうだ、桔梗を連れてくればよかった。何をやっているのだ俺は―――、」 「いや、いや大丈夫」 そのまま再び村まで駆け戻りそうな勢いの旦那を呼び止めて、苦笑する。困惑顔の鬼の頭目にゆっくりと歩み寄り、その肩を二度三度と軽く叩いた。 木洩れ日の下、赤い髪がきれいだった。 「悪かったな、心配かけて。…俺は、もう大丈夫だよ」 旦那は僅かに目を見開いて、それから。 それから、俺を気遣うように優しく微笑った。 ―――――あぁ。 胸に溢れる思いがある。 なんて。 なんていとおしい。 戻りたいと、思う。 だがここにも、うしないたくないものが、ある。 どちらも真実で、掛け替えも無いものだ。 目の前の微笑みが愛しくて、半ば無意識の内に手を伸ばしていた。頬を撫でる。髪を梳く。最初は驚いて体を固くした旦那も、やがて力を抜き俺のさせたいようにさせてくれた。そして何を思ったのか、俺の髪にも手を伸ばしてくる。ぎこちなく触れて、撫でて、絡めるように梳いた。俺の存在を、確かめるように、何度も。 くすぐったくて、俺は笑った。 何時か。 見せてやりたいと、思う。 旦那にも、そしてあいつにも。 違う場所で生きている、まったく正反対のようでいて、同じように優しく尊い人たちを。 「―――村、戻ろうか、旦那」 「……あぁ、そうだな」 安堵したように微笑む旦那は名残惜しそうに髪から手を離し、代わりに俺の手を柔らかく握った。 きっと、むずがれば簡単に振り解ける。けれどそうする理由も思いつかず、俺は苦笑を噛み殺しつつ旦那の後を半歩遅れて歩いた。 |
人が好きでたまらないヒトとは少し違うもの。対個人な愛ではないです。まだ。
というか私は若をどこまでOTOMEにすれば気がすむのか。
ところで元素って言葉は…この時代ない…よな…?まぁいっか(アバウト)
07.02.19