まるで恋でもしているようだと冷やかされた。
 勿論、そんな戯言ほざきやがる坊主と一戦繰り広げたのは、言うまでもない。







 安堵









 何時ものように町へ繰り出した。見回りと称したただの散歩のようにも思えるが、彼にとってはどちらもそう大差ない。ただぶらぶらと歩いて廻り、人の声に耳を傾ける。
 だがそれすらも今の彼にはどうでもいい事だった。
 思考を埋め尽くすのは、あの時に会った男の事ばかり。
 悲しそうな顔をしていた。
 寂しそうな顔をしていた。
 自分を見て、酷く動揺していたようにも思えた。
 昔何処かで、会った事があっただろうか。
 何度思い出そうとしても、記憶の片鱗に引っかかりすらしない。
 第一あれだけの器量(認めるのは同じ男として非常に不愉快なのだが)の男など、一度見たら忘れはしないだろうと思う。
 それなのに、あの男は自分を知っている。これは確信だった。あの男は間違いなく、自分を知っているのだ。では、何時。何処で出会った。何故、あの男だけが知っている。
 ふいに、境内で見た妖とも思える男を思い出した。
 あれは、あの男だ。辺りは既に薄暗く、ほんの一瞬の出来事だったから、はっきりと顔を確認したわけではない。だが、あれはあの男だったのだろう。
 泣き出しそうな顔で、寺を見上げていた。
 そうだ、あの時、誓って初めて見る顔に感じたのは、どうしようもない懐かしさだった。

 自分はきっと、あの男を知っている。

 それなのに、何故。欠片すらも思い出せない。影すらも、見い出せない。それが悔しかった。
 知らず拳を握り締めていて、それを見て溜息を吐き出した。
 なるほどこれでは、恋をしているようだと言われても無理はない。
 もしかするとそうなのだろうか、と少しだけ考えて直ぐに却下した。いくら綺麗でも男は御免だ。
 そういうのとは違うんだよなぁ…と腕を組んで唸る。
 そういえば、名前は何て言っただろうか。
 冷めた目で、忘れていいと吐き捨てた、名前は―――、

「緋勇…龍斗って言ったか…」



「呼んだか?」



「うぉおおおああああ?!!!」




 びたん。
 入ろうとしていた蕎麦屋の壁に、ものの見事に張り付いた。
 気配もなく背後に立っていたのは、今正に人の思考を占領していた件の男だったのである。
 壁と仲良くなっている彼を見て、男は不思議そうに首を傾げていた。

「楽しいか?」

 いいや頭が痛い。
 とは言わずにいたが、そんな心境だった。

「まぁ、いいけど。それじゃ」
「ちょ、ちょっと待て!!」

 彼の脇を通り抜けて蕎麦屋に入ろうとする男の腕を捕まえる。
 咄嗟の行動だったが、掴んだ腕の細さにぎょっとした。

「何?悪いけど俺そういう趣味ねぇぞ?」
「違う!つーかお前何だその細…いやそうじゃないッ、メシちゃんと喰って…これも違う!あー…、何だ、その…うー…」

 自分の言動の意味が分からない。泣きたくなった。色々な意味で。
 そんな彼を他所に掴まれた腕をそのままにして男はさっさと店の中に入ってしまう。掴んでいるのは自分なのに引き摺られるように彼もそれに続く。恐ろしく細くとも随分な怪力らしい。
 傍から見れば男同士手を繋いでいるように見えただろう。奇異な視線が集まる。慌てて手を離したが、それにすら構わず男は頑固そうな店主に「ざる三枚とかけと燗」と告げていた。

「…それ、ひとりで喰うのか…?」
「あ?当たり前だろ?お前自分の分は自分で頼めよ」

 それは勿論そのつもりなのだが、問題はそこではなくそれは当たり前の量なのかという所である。
 立ち尽くしたまま、改めて目の前に座った男を観察する。
 実体だ。紛れもない実体だ。夕闇の寺で見た稀薄さも、王子で見た触れたら切れる張り詰めた糸のような危うさもそこにはない。不遜で飄々とした実に堂々たる存在感である。
 これは本当にあの時の男と同一人物なのだろうか。
 首を捻った拍子に、襟から除く胸元に目がいった。細い。全体的な体格を重ねた襦袢で誤魔化しているようだが、それは異常だった。一度は離した腕を再び掴み上げる。手首は、枯れ木のように細かった。何故だか、無性に悲しかった。
 こんなんじゃ、なかった筈なのに。
 脳裏に過ぎった言葉に、ふと我に返る。
 男の目が、不思議そうに見上げてきていた。
 今、今自分は何と、比べていた。この男と、何を比べて苦い思いを噛み締めていた。比べられる対象など、自分は知りもしないのに。
 自分以外の誰かに、頭の中を引っ掻き回されているような不快感が胸に募る。舌を打って、手を離した。了解も得ずに男の向かいに腰を降ろす。

「親父、ざると冷だ」

 ぶっきら棒に言うと同じようにぶっきら棒な答えが返ってくる。彼は深く溜息を吐いた。
 ふと、空気を振動させるように男が笑っている事に気付く。

「………何、笑ってんだよ」
「別に」

 男の分の蕎麦が運ばれてきた。それを前に頂きますと手を合わせた男はそれでもまだ楽しそうに笑っている。恐らく自分の行動の何かが可笑しかったのだろうが、不思議と怒る気がしなかった。
 泣きそうな顔をされるより、ずっとましだと、無意識に思う。
 やがて彼の分の蕎麦も運ばれて来て、ふたりは暫く無言で食事を続けた。黙々と咀嚼し蕎麦を飲み込む男に、時折目をやる。自分が半分を平らげる間に、男はすでにざるを片付けかけに取り掛かっていた。その細い体の何処にそれだけが入るのか。呆れやら感心やらで溜息が零れる。
 彼は食事の手を止め、じっと男を見た。

「………お前…」
「うん?」

 男は目線だけをこちらに寄越して先を促す。箸を進める手は揺らぎもしなかった。

「お前、誰だ―――?」

 九桐の隣を歩いていた男。親しいのだろうその雰囲気は互いに穏やかなものだった。
 だがそこに感じる確かな違和感。甲州街道で九桐と対峙した時にも、同じものを感じた。何故。

『どうしてお前が、そこにいる―――?』

 疑問は漠然とし過ぎていて、言葉となる事は無い。彼はただじっと、正面の男を見据えた。
 男は気に留めた様子もない。流し込むように蕎麦を口の中に放り込んでいる。

「さっきお前覚えてたじゃねえか。忘れていいっつったのに」

 初めて、男の意識がこちらに向いたような気がした。単にそれは蕎麦がなくなったからに違いないのだが。証拠に箸は置かれ、その手は徳利に伸ばされている。それでもこの機を逃してはいけないような気がした。

「違う、名前じゃねぇ。名前の事じゃねぇよ。お前、俺を知ってるじゃねぇか。なのに俺はお前を知らない。…いや、多分、知ってるんだ。だが思い出せない。何故だ?」
「さぁてね。お前の脳味噌の事情まで俺は知らねえよ」
「…緋勇―――――、」

 ダン、と。卓を、殴りつけるような勢いだった。実際には、煽った猪口を置いただけだ。

「俺を」

 低い、低い声だった。

「俺を、その名で呼ぶな。二度とだ」

 長く落ちた前髪の向こうから射抜くような光があった。





 きんいろ。





 息を呑む。その光と、体からゆらり立ち昇る、怒気。
 きんいろのひかり。
 目を逸らせなかった。
 見間違いか。いや、確かにその目は深く鋭い、突き刺さらんばかりの光の色をしていた。
 人か。
 今自分の目の前にあるこれは、本当に人のものなのか。
 明らかに異形のものであるそれが、だがしかし恐ろしいとは思わなかった。
 それどころか、なんて。

 なんてきれいな。



『あいつらには、内緒な?』
『何でだよ。別に恐がりゃしないと思うぜ?』
『そんな事はわからない。俺は――――こわい』


 眩暈がする。

 何だ、この、記憶は。
 途切れ途切れに脳裏を駆け抜ける、閃光のような、記憶は。
 自分と誰かが並んでいる。
 誰か。
 顔が見えない。
 記憶がぶれる。
 迷走する。
 これは誰だ。
 何時の記憶だ。
 覚えが無い。
 覚えが無いのに、何だ。

 何だ、この、




 目の眩むような、懐かしさは。







「こりゃあ、緋勇さんじゃあねぇですかぇ」

「―――――!!」


 飛び込んできた第三者の声に我に返る。
 自分を通り越してその背後に立っているだろう人物を見る男の目は、静かに凪いだ黒だった。

「…よぉ…」

 男は面白そうに片手を挙げて見せた。振り返る。少し小太りの、背の低い初老の男が立っていた。商人らしいいでたちである。
 ふたりは知り合いなのか、親しげな雰囲気で挨拶を交わしていた。

「緋勇さん、旦那が心配しとりましたぇ、まだ本調子じゃあないって話じゃねぇですか、あンまり無茶ばかりやって皆に心配かけちゃあいけません」
「あちゃあ…すぐ帰ればバレないと思ってたのに、意外と目敏いなぁ旦那は…」
「本調子じゃねえって、何処か悪いのか、お前」
「いや別にそういうわけじゃ」
「それがねぇ、聞いてくだせぇよお侍の旦那、このしとったら何が気に喰わねぇってのか碌にモノを喰わねぇ始末で先日とうとうぶっ倒れちまった」
「モノ喰わねぇでぶっ倒れたぁ?……馬鹿か?」
「煩ぇよ、倒れたんじゃねぇやい」
「そおいう言い訳は、血眼になって探し回ってる旦那にしておやんなせぇ」
「…そ…そんなに…?」

 商人の言う事に不満気にしていた男の表情が僅かに揺れた。
 おや、と彼は思った。それまで大胆不敵だった男の雰囲気が急激に何か別のものになったのだ。目は所在無く泳ぎ、手はそわそわと猪口を弄ぶ。何か言いかけては口を閉ざし、落ち着きなく何度も身じろいでいる。
 その様子があまりに幼くて、彼は堪えきれずに吹き出してしまった。

「な、何だよ―――、」
「帰ったらどうだ?」

 自分でも驚くほど優しい声が出るもんだと思った。女に囁くのとは違う、むずがる子供を宥めすかすような、こんな声が自分に出せるのかとも。

「その旦那ってのに、心配かけたいわけじゃないんだろう」
「そりゃ…」
「じゃあ帰れって」

 そう言いつつ残った蕎麦を一息に啜った。徳利に入った冷酒も胃の中に放り込む。懐から財布を出して小銭を卓上に置いた。立ち上がりながら言った。

「親父。金はここに置いてくぜ」

 相変わらずぶっきらぼうな相槌が返る。
 彼はその場を離れる時に一度だけ、男を振り返った。じっと、見る。だがほんの数瞬だ。すぐに口角を吊り上げ皮肉気な笑みを作ると目の前の頭をわしわしと掻き回した。

「何すんだ…ッ」
「はははッ、じゃ、またな。呼び方は、次に会うまでに考えとく」

 ひらりと手を振り足取り軽く、蕎麦屋を後にする。
 店を出た彼は、いやに晴々とした気分で空を仰いだ。

 ああ、今日はこんなにいい天気だったのか。

 雲ひとつない快晴である事に、彼は今漸く気が付いた。穏やかな風も心地好い。
 もうじき夏がやってくる。それを感じさせる清々しい空気だった。
 気分がよかった。
 何故だろう、大丈夫な気がした。
 何が、とかそんな事はどうでもよかった。それを考えるともやもやと思考に霧がかかる。だからあえて考えない。これは逃げだ、と思う気持ちもあった。だがそれすらも、『大丈夫』なような気がした。
 大丈夫、何時か、何れ、必ず。
 全てがつながる。
 急がなくても。
 それまで、『何か』がとても不安だったのだけど。
 きっと、『大丈夫』なのだろう。
 青い空に腕を突き上げ、彼は大きく伸びをして。

「―――――うし!」

 腰に愛刀を刺し直すと鷹の羽を翻し、意気揚々と雑踏の中へ紛れて消えた。









 蕎麦屋に残された男はぽかんと間抜けに口を開けて蓬莱寺の出て行った出入り口を見ていた。横では商人が必死に笑いを噛み殺している。

「…………なぁあれってどういう意味だったと思う」

 掻き回されて少々ぐしゃぐしゃになった頭に手をやって、男は眉根を寄せた。

「さぁてねぇ、深い意味なんてないんじゃあねぇですかぇ?」
「…そのしゃべり方もう止めろよ奈涸」
「ふふふ…まぁ、君のその珍しい呆け顔に免じて、蓬莱寺とどういう関係なのかは聞かない事にしよう」

 途端のったりと太かったしわがれ声が、若い男の深く張りのある声に変わった。周りの人間には聞かれない程度の極小声だ。口など、笑みの形を刻んだままぴくりとも動いていないように見える。
 男は呆れたように呟いた。

「器用だな」
「ありがとう」
「…別に、どうという関係じゃないよ、あいつとは」
「僕は何も聞いていないよ。それに、何も見ていない」
「聞け」
「聞いてほしいのかい」
「俺とあいつが直接言葉を交わしたのはこれが二度目だ。どんな関係かと問われればただの顔見知りでしかない。その顔見知り相手にあの態度ってのはどうなんだ?普通か?」

 男は多少の困惑を残した声で聞く。奈涸は暫し考えた。そして率直に、見て感じたままを口にする。

「僕個人の意見で言わせて貰えば、とても親しい友人のように見えた」
「そう…か…」

 返す言葉は曖昧に揺れていた。戸惑っているようだった。それはあんな態度を取った剣士を訝しむものではなく、何処か己の感情に向けられたもののようだ。

「どうか、したのかい」
「…いいや」

 緩く頭を振る。



なんでもない、よ…」



 そわそわと気を揉みながら己の帰りを待っているだろう、赤い髪の村の長を思い浮かべながら、男は村に戻る為に腰を上げた。








いいオニイチャンです(年下なのに)


07.02.16