颯声





 緋勇龍斗は、真夜中と早朝の散歩が趣味だ。

 趣味だと、思っていた。
 その行為を知る者のすべてが。

 弥勒も、例に漏れずそうだったのだが。
 あの日、那智の滝に浮かぶ男を発見した時から、どうにも可笑しい。
 何が、とはっきり言えるわけではない所が非常に歯痒いのだが、それでも拭いきれない違和感がある事だけは確かなのだ。

 その違和感は終始付き纏い、気が付いたらその事ばかりを考えている自分にこのままでは仕事にならんと、現在弥勒は苦情を申し立てる為九角屋敷を訪れていた。

 それと言うもの、あの男は誰かと共にいる時は至って普通なのである。声を掛ければ人好きのする笑みを浮かべて答えるし、気配を察しただけで微々たる違和感をものの見事に消し去ってしまう。
 これでは本人に直接何かを言ったところで成果が得られるとは思えない。
 なのでどうするか迷った挙句にここへ来たのである。
 事が事なだけに、弥勒は九角の私室に通されていた。九桐も控えている。だがそれだけだ。人払いをし、下忍にもいいと言うまで近付くなと厳しく申し付けた。

「ふむ…弥勒、お前滝であやつを見つけた時、どう思った」

 弥勒は眉を顰めた。緩く首を振る。

「先日、言った通りだ。死体かと思った。本当に、死んでいると思ったんだ。彼だと気付かなければ、人形だと思ったかもしれない。心が何処かに抜け落ちて、体だけがそこにあると感じた」

 だが声を掛けると彼はやはり何時も通りの彼であったと。
 だからこそ尚更、違和感があるのだ。

「確かに、彼は時折酷く不安定になる…が、人形とは…」

 九桐は唸った。あの強烈な気を放つ男とその言葉が、どうしても結びつかなかったらしい。

 一方の九角も、難しい顔をして腕を組んだままじっとを考えていた。
 最近では漸く慣れたようだが、未だにこの赤い髪を見て体を硬くする事がある。
 よほど何か、苦い記憶があるのだろう。

「…彼の、体を見た事があるか」

 思考を遮るように、弥勒が問う。
 その顔は酷く強張っていた。
 九角と九桐は顔を見合わせ、しかし同時に首を振る。

「浮いていた彼は、一糸纏わぬ姿だったんだが…俺が死体だと思ったもうひとつの理由が、そこだ。彼の体は恐ろしいほど痩せていたよ。骨と皮だけとは言わないが…それに近い状態だったのは確かだ」

 息を呑んだふたりだ。だが幾度となくあの男に飛びつかれては背中にぶら下げる羽目になる九桐は即座に得たりとばかりに頷いた。

「あの体は軽すぎる。あれだけの身長があるにも関わらず、確かに不自然だ」

 これには九角が首を傾げた。

「俺が抱えた時はそうは感じなかったがな…寧ろいい体つきをしていたと思うんだが…」
「それは何時の事だ?」
「一月半ほど前か…あやつがこの村に来た当日だ」
「ではその間にあそこまで痩せてしまったと考えるのが妥当だ。あれは尋常ではないぞ」

 それから一言二言言葉を交わし、弥勒は席を立った。

「常に彼の近くにいるのはこの屋敷の者たちだ。気に留めておいてくれないか」
「無論だ。緋勇は既に、我らの大事な仲間だからな」

 九角の言葉に、弥勒はふと口元を綻ばせる。そして軽く会釈をすると静かに屋敷を後にした。

 弥勒が出て行った後も、残ったふたりは暫く各々の物思いに耽っていた。
 その沈黙を破るように、九角は大きく溜息を零す。

「どう思う、尚雲」
「どうと言われても…俺に出来るのは、あまり彼を信用しすぎるのは止めてくださいと小言を繰り返す事くらいですよ」

 あの男は、自分を鬼道衆だと思っていない。一度もそう、名乗らないし、匂わせる事も言わない。鬼道衆の事を口にする時は、明らかに一歩引いた目線でものを言っている。
 引っかかるのは、あの剣士だ。
 龍閃組の、蓬莱寺京梧。
 蓬莱寺の方は男を知らないようだったが、男はそうではなかった。曖昧な答えではぐらかされたが、事実、知っていたのだろう。だがその関係が読み取れない。どんな関係で、また何故男だけが剣士を覚えているのか。それがさっぱりわからないのだ。蓬莱寺が恍けて忘れた振りをしているのかとも思ったが、そんな器用な真似が出来るような男には思えない。あれは嘘とも誤魔化しとも無縁な男だ。
 では何故、男だけが。
 そしてそれを何故隠すのか。
 知られる事を断固として拒否したあの背を、思う。

「そう言う割には、尚雲。お前、あやつに見張りをつけるのを止めただろう」
「………知ってたんですか」
「桔梗が教えてくれた。何故だ?」
「はぁ…」

 男は、龍閃組の敵にはならないと、言った。
 だが鬼道衆の敵にもならないと、はっきり言ったのだ。
 ただ大切な者を死なせたくないだけだと。

 その意味は、わからない。
 どんな思いで、その言葉を口にしたのかも。
 だが。

「嘘じゃないと、思ったんで」

 あの男の、何もかもが。

「それで、充分ではないかな…」

 人が人を信じるのに。
 微笑む九角に、九桐は諦めたように肩を竦めるだけだった。

 ただ不安が残るのは、あの男の見えない過去が、『違和感』の正体であると確信しているからなのだろう。







 それはその翌日の朝餉の時の出来事だった。

 何時もの通り、何時もの時間に始まる九角屋敷の朝食。
 例にもよって朝の散歩を済ませて戻った男が席につくのが、最早合図のようだった。
 その最中、相も変わらず流し込むような勢いで膳を平らげる風祭に、その男は呆れたように呟いた。

「お前は本当によく食べるね小僧っこ。ちょっとお茶碗こっちによこしなさい」
「な、何だよやらねぇぞ!」
「そうじゃなくて、俺の少し分けてやるから」
「…何企んでんだ」
「人聞きの悪い。純粋な好意でしょ。いらないの?」
「貰うけど!」
「最初から素直に有難く頂きなさい」
「うるせぇなぁ…」

 ぶっきらぼうに差し出された茶碗に、半分ほど残っていた飯を移しながら、男は笑いを噛み殺していた。
 それから残りの味噌汁を一息に飲み干し、パン、と手を合わせる。

「ご馳走様。お先に失礼するよー」

 まだ食べている者がいるのだから、失礼だという気持ちがあるのだろう。男は毎回断ってから席を立つ。
 何時もこうだ。

「旦那、今日は特に予定もないんだよな。山でふらふらしてるから、用があるなら見つけてねー」
「…あぁ、わかった」

 九角の返事を聞いてから、男は軽い足取りでひょいひょいと座敷を出て行った。
 その後姿を見送って、桔梗がその綺麗な眉を顰める。

「たーさん、あんなに小食で体大丈夫なんかねぇ…心配だよ」

 前日、弥勒の話を聞いたふたりはぎくりと顔を強張らせた。
 そうだ、この村に来てから知る限りの男は、極めて小食だった。あまり量を食べられないからと、わざわざ給仕の者に言って減らして貰っているらしい。しかも最近になって、それがますます増長しているらしいと言うのだ。給仕番が心配して、自分に相談してきたのだと桔梗は零した。
 話題があの男の事だったので、風祭が何の気なしに、たまたま気になった事を口にする。

「そういやあいつ、あんまり寝てないんじゃねぇか?俺あいつが寝てる所見た事ねぇぞ」

 目を剥いた。

「澳継、それは真か」
「坊やが先に寝て後に起きてるだけじゃないのかい?」
「違ぇよ!前に廁に行きたくなって夜中に起きた時も、あいつ起きてんだぞ?!」
「……」
「頭から布団被ってる時はあったけど、今思えば寝てる感じじゃなかったな」

 ますます唸る九角である。九桐の顔も硬かった。

「……若」
「…あぁわかってる」
「天戒様…?」
「……出る。膳は片付けておいてくれ」

 厳しい顔をして座敷を出て行く主を見送って、桔梗と風祭は訝しげに首を傾げる。九桐だけが、重苦しい溜息を吐いたのだった。






 那智の滝に向かう途中だった。
 正規の道から外れた茂みの中で、男はひとり蹲っていた。

 胃の中のものは、疾うに吐き出した。
 出てくるのは喉を焼く胃の腑液だけだ。

「………ッ、」

 ひとつ大きく息を吸うと、また吐き気が襲ってくる。
 何もかもが、今の自分には毒のように思えた。

「…っあー…勿体無いなぁ…」

 折角食べたのに。
 吐いてしまうくらいなら最初から食べなければいいのだが、揃って食事を摂るここではそれをしたら露骨に怪しい。
 だから量を抑えているのだが、今まで一度として成功した試しがない。
 たった一口の粥であれ、すぐに吐き出してしまうのだ。

「何時からだ」
「――――、」

 振り返ると、赤い髪の男が恐ろしい形相で立っていた。
 緋勇は内心で盛大に舌を打つ。

「答えろ、何時から、そうしている」
「……そうって、どう?」
「緋勇!」

 現場を押さえられた以上、恍けた所で無駄な事は百も承知だが、緋勇は笑った。
 『何時も通り』に。

「それって、旦那に関係ある事?」
「……ッ」

 これ以上は、入ってくるんじゃないと。
 無言の内に、突き放す。

 言うべき言葉をなくしている鬼の頭目に構わず、緋勇は近場にあった木を支えに立ち上がり、覚束ない足取りで滝を目指した。
 あの冷たい水が、恋しかった。

「緋勇――――ッ、」
「答えてやるよ。ずっと『こう』だ。ここに来てからずっと。それでも今まで気付かなかっただろう?だから、気にしなくていい」

 緋勇は振り返りもせず、何でもない事のように告げた。
 その言葉を聞かされた九角は、愕然とする。

「…ずっと…?」
「そうだ」
「一月半もの間…?」
「そうだ」
「食べては戻すを繰り返していたのか?」
「そうだ」
「それを…それを、気にするな…?」
「そうだ」
「ふざけるのも大概にしろ!!!」

 山が震えるかのような大喝だった。
 しかし緋勇は、振り返りはしたものの意味がわからないと言った様子で首を傾げている。

「何を怒ってるんだ、旦那。食い物を粗末にした事か?それに関しちゃ悪いとは思うが、余計な気を遣われたくなかったんだ。多めに見てくれ」
「………本気で言っているのか」

 地を這うような声である。それでも緋勇はびくともしなかった。

「心配したのか?だったらお門違いだ。言ったろう、こんなのはもう何時もの事だ。それでも問題なく仕事は出来てたろう?現にお前も誰も気付かなかった。これからだって変わりなくやっていけるさ。お前は何も心配する必要はない」
「お前は!!俺を何だと思っている!!」
「旦那こそ、俺を何だと思ってるの。何もかも自分の思い通りに動かなきゃ不満かい?忠実な部下が欲しいなら、それこそお門違いだよ」
「俺はお前を、そんな風に思った事は一度もない!」
「だから、じゃあ何。何が気に入らないの」
「俺は!…俺は、この村にいる者は皆、家族だと思っている…ここが皆の拠り所で、帰る場所であればいいと思っている。お前にも…そう、思って貰えればと…『家族』の身を案じるのは、それほど可笑しな事か、緋勇…」

 緋勇は驚いたように数度瞬きして、やがてふわりと微笑んだ。

「優しいね、旦那は」

 けど、見当違いだよ。
 言って再び背を向ける。

「俺の帰る場所は、ここじゃない」

 それは例えば、あの寺でもないけれど。

「俺の帰れる場所なんて、きっと何処にもない」

 『何時も通り』のはきとした、とても優しい声だった。
 それが尚更の拒絶を思わせる事に、九角は激しい焦燥を憶えた。だが、遠ざかって行く緋勇を追う為の一歩が、出ない。縫い付けられたように、そこから動けなくなっていた。

 ギリ、と、何処か締め付けられるような思いだった。
 出会って間もない、正直に言えば、得体の知れない男だ。九桐の言う通り、簡単に信用してしまうには孕む危険があまりに大きい。だがそれを差し引いてもあの男は優しくて。悲しい程優しくて。その優しさが尊くて。
 『家族』で、あればいいと思った。そうすれば、男が何処に行ったとしても、最後にはここに帰ってきてくれるような気がした。帰って来てくれればと思った。
 そんなずるい思いを見抜いたのかのように、男はいともあっさり背を向けた。
 優しい拒絶を口にして、きっちりと引いた境界線。
 これを越える事はきっと、男の心を踏み荒らす事に繋がるのだろう。
 それは。
 それは、出来ない。
 それだけは、してはいけない。
 この村にいるもの全てに共通する、暗黙の掟だ。
 だが、それならどうすれば。脳裏に、弥勒の言葉が過ぎる。心が何処かに抜け落ちて、体だけがそこにあるようだったと、彼は言った。そうかも、しれない。そう思えるあの男の背を、九角は知っているような気がする。そうだと、思い至る。何度か、見た、あの背だ。何処を見ていたのか、空を見上げていたようにも、ただ穏やかな風を感じていたようにも思えた。決まって、漠然とした不安を感じた。そして声を掛けると、判を押したように身体を強張らせる、男の背。
 そうともあれが、あの男の偽らざる姿だと言うのなら、男の心は、ここにはない。
 ならばここが、帰る場所であろう筈もない。
 『家族』であればいいなんて、独りよがりの戯言だ。押し付けがましい、願望だ。そこに、男の意思はない。
 俯いて、拳を握り締めた。愚かな、と口をついて出た。自分への苛立ちだった。



 そんな九角の耳に、微かな水音が飛び込んできた。


 何か。







 何か大きなものが、水面に叩きつけられたような――――、







「緋勇――――ッ!」







 呪縛は、解けた。

 弾かれたように駆け出した。
 本当は、呪縛なんてなかった。
 最初からなかった。
 恐かった。
 追い縋って、また拒絶されたら。

 今度こそ背を向けて、振り返る事もせず、ここを出て行ってしまうのではないか。そしてもう二度と、戻って来てはくれないのではないか。

 馬鹿げている。
 そんなものは、全部こちらの勝手だ。自分の事しか考えていない、証拠だ。
 だってあの背はあんなに――――、



 あんなに、『さみしそう』、だったのに。



 駆けた。
 どうする事も。本当に、どうする事も出来ないのか。
 事実、男は直ぐ傍で苦しんでいるというのに。
 どうすれば、と思う。
 茂みは直ぐに切り開けた。那智の滝だ。

「緋勇…」

 水辺のすぐ脇の岩に、男の着物が脱ぎ捨ててあった。
 一糸纏わぬ姿の男が、水面に浮いていた。
 九角は躊躇いもせず着物のまま水の中に入り、男のすぐ傍に立った。見下ろした先で、男が僅かに驚いた顔をしている。

「着物、台無し」
「……緋勇…」

 泣きたくなった。
 水に浮かぶその体が、あまりにも痛々しかった。
 袈裟懸けに走る生々しい刀傷。その傷を抱く体はあまりにも細い。
 放り出されている腕をそっと取り上げる。枯れ木のようだった。

 どうしてこれに気付けなかった。

 こんな体じゃなかった。ここへ来た当初は。
 どうして気付けなかった。
 あれほど傍にいたのに。
 何が仲間だ。
 何が家族だ。
 どの口が、のたまうのだ。
 傍にいた筈の男の叫びに気付きもしないで、笑顔の下の痛みに気付きもしないで、よくも。



 不甲斐無さに、視界が霞む。



「ちょ…ッ、だ、旦那ッ?」


 見上げてくる目が見開かれた。慌てたように手を伸ばしてくる。細く痩せた指が頬に触れた。怖々と、まるで壊れ物に触れるように。

「……こえを…」
「うん?」

 ぱたり、ひとつ、ふたつ。雫が、男の頬に落ちる。

「声を、聞かせてくれないか」
「旦那…?」
「どんな、言葉でも」

 例えば、呪いの言葉でも構わないから。
 声が聞きたい。
 この男の発する声が。本当の声が。
 イレモノだけをここに置いた、魂のこもらない言葉はもう充分だ。
 痛みでも、悲しみでも、憎しみでも、どんな声でも構わない。

「お前の声を、聞かせてくれないか」

 痛いのなら叫べばいい。
 悲しいのなら泣けばいい。
 憎いのなら呪詛の言葉を吐き散らせ。



 そうして最後に笑ってくれたら、どんなにいいだろう。






「旦那は、やさしいね…」






 ふわりと、蕩けた。

 戸惑ったように見開かれていた瞳が、きれいに。綺麗に微笑んだ。
 その笑みは柔らかく、慈しみにあふれていて。

 ただ、目を奪われる。

 優しい手のひらが、濡れた頬を撫でた。子供をあやすように。愛おしそうに、何度も。
 やがて、その手のひらが髪に触れる。彼の、嫌悪していた筈の赤い髪。それに触れて、眩しそうに、目を細めた。

「太陽の、色だ」
「緋勇―――、?」
「陽に透けて、旦那の髪、きんいろ」

 ああ何だ、あいつとはまるで違うじゃないか。
 口の中で呟かれた言葉は、九角に届く前に風に攫われて消えた。

「なくなよ、旦那」

 言ったきり、ぱたりと腕が落ちる。
 微笑んでいた瞳も伏せられ、ゆっくりと、その体が水に沈み始めた。
 沈みきってしまう前に我に返った九角は慌てて男を掬い上げる。浮力を借りて抱え上げた体はそれでも、切なくなるほどに軽かった。

「緋勇…?」

 反応はない。ただ微かに、傷の走った胸が上下していた。眠っている。
 急に力が抜けた。知らず、苦い笑みが零れる。
 それはないだろう。思わずにはいられなかったが、反面、ひどく安堵した。
 その寝顔がとても、穏やかだったから。

「少しは、聞かせてくれたのか…?」

 己の肩に凭れ掛かる男に、そっと囁く。
 小さく身じろいだ拍子に濡れた黒髪が頬を擽った。笑う。猫のようだ。笑う振動が気に食わなかったのか、猫は眉を顰めてむずがるように身を捩った。落とさないように、きつく抱き寄せる。


 水から上がりながらずぶ濡れの己を顧みて、桔梗に怒られそうだと苦笑しつつも、その心は不思議と晴れやかだった。











 …余談。

 その日から三日三晩眠り通した緋勇に九角屋敷はおろか村中が大騒ぎになったのも、その後起き抜けそして絶食後であるに関わらず心配する面々を他所に九人前の飯をぺろりと平らげたのも、また別の話である。





気付いた時には咲いていました。
しかし若様自覚なし(相当鈍い)

ていうか寧ろ主天ですかいいえ天主(の筈)です。


06.10.01