血契<3>





 それから更に二日後。


「だからさぁ京梧、いい加減その鬱陶しい顔止めてくれないかなぁ」
「うるせぇな!お前には関係ねぇだろうが!」
「三日前からずっとこれだもんねぇ」
「境内で見たという男の事か?お前狐にでも化かされたのではなかろうな?」
「知るか!」

「こんな所で再会するとは、まさに稲荷神のお導きといった所かな」

「てめぇは―――九桐!」

 遡ること数刻前。
 今日の日没に行われる鍛冶屋の処刑に備えて、鬼の頭目は各々に指示を出した。
 桔梗と風祭には刑場の下見、九桐には子供たちの様子を見てくるようにと。緋勇は自ら進んで九桐に同行する事を選んだ。
 なるべくなら子供たちを危険な目に合わせたくないという九角の意見には全面的に賛成だ。よって王子稲荷まで様子を見に来たのだが、緋勇にはすっかり失念している事があったのだ。
 『この日のこの時間、そしてこの場所』で、予期せぬ再会があった事――――。

 つまる所現在緋勇は、苦虫を思い切り噛み潰したような表情を必死で押し隠しつつ九桐の横に立ち、龍閃組と相対していた。

 逃げたい。
 今すぐここから立ち去りたい。
 だってこの馬鹿穴が空くほど俺の事見てるし。
 それこそ馬鹿みたいに口開けて。
 閉じろよみっともない。

 内心滝のような冷や汗である。

「…京梧、どうしたの?馬鹿みたいな顔してるよ?」

 小柄な少女が剣士の顔を覗き込んで言う。
 よくぞ言った。とこっそり拳を握った緋勇である。
 それでも剣士は緋勇を見る事を止めなかった。
 何よりの屈辱を負わされた筈の九桐をそっちのけにして只管緋勇を見ている。
 口を開いたのは大柄の僧侶だった。

「よく見ればあの時山小屋にいた御仁ではないか」

 その時緋勇は更に自分の迂闊さを呪いたくなった。

 そうだ、すっかり忘れてたけど、あの時の山小屋にコイツもいたんだっけ…。

 間抜けな話である。
 本当に綺麗さっぱり忘れていたのだ。
 僧侶は不審気な視線を隠しもしないで緋勇を観察している。その様子から、あの後山小屋で何が起きたのかも容易く想像がついた。
 ようするにこの僧侶は、よくぞ無事でいられたものだと言外に皮肉っているのだろう。

「お前――――、」

 いたたまれなさを噛み締めていた緋勇に、この時初めて剣士が口を利いた。

「お前、名は何ていう」
「――――」

 握った拳が震えたのは、目の前の男に殴りかかりたい衝動を無理矢理抑えたからかもしれない。
 咄嗟に俯いてしまったのは、零れそうになった涙を堪える為だったのかもしれない。

 どうして『今更』、『お前』に、名前を聞かれなきゃいけないんだ。

 理不尽だ。
 叫びたかった。
 どうせやり直すのなら、どうして俺の記憶だけ、残したままにしておいた。
 いっそ全て、消してしまえばよかったのに―――!

「…何処かで、会った事があるか」

 本当に、この男は。
 自分の事を知らないこの男は。
 何処までも人の神経を逆撫でる。

 何処かで、だと。
 会ったとも。会っているとも。消えてしまった時の中で、お前は確かに傍らにいた。お前の傍らこそが、俺の居場所だった。背を預けて闘ったのは初めてだった。俺を恐れず、遠慮も何もなく対等に接してくれた人間はお前が初めてだった。
 そのお前の口が、そんな事を言うのか。

「俺だけ、忘れてるのか」

 縊りたいほど憎たらしいのに、その声があまりにも真摯だから、獰猛な唸り声しか出なかった。それも、剣士が二、三歩後退さるくらいの。


「―――誰も、俺を知らない」


 お前、だけじゃ、ない。

 呟いた声は小さすぎて、誰にも聞き取られることはなかった。


「緋勇だ」

「何―――?」

「緋勇龍斗。忘れてもいいぞ」


 憶えていて欲しかった事は、もう既に忘れられているのだから。

 九桐を急かし、身を翻した緋勇に、剣士は声を張り上げた。



「蓬莱寺京梧だ。憶えておけよ、緋勇」



 振り向かなかった。足を止めもしなかった。ただ、強く拳を握った。
 知ってる。と、心の中で吐き捨てた。忘れるものか、とも。

 剣士たちの姿が見えなくなってから、九桐は前を行く男に訊ねる。

「会った事があるのか?」
「あるといえば、ある。ないといえば、ない」
「何だそれは」

 眉を顰めた。
 緋勇の話し方は何時も要領を得ないが、今回はそれが更に激しい。

「あれは龍閃組だぞ?闘えるのか」
「―――――尚雲」

 凪いだ風のように、静かな声だった。
 呼ばれた僧侶はギクリと足を止める。名を、呼ばれるのは、これが初めてではなかったか。


「俺は、龍閃組の敵には、ならない」

「―――――、」

「ただし鬼道衆の敵にも、ならない」

「…師匠、それは―――、」




「俺はただ、もう大切な奴に、死んで欲しくないだけだよ」




 背を、向けていたから。
 九桐に、緋勇の表情はわからなかった。
 ただその声が、微かに震えていて。


 それ以上、何かを問い質す事を躊躇わせた。




「ここで何をしている?」
「!」

 姿を見せたのは、奈涸だった。
 今度ばかりは緋勇も、足を止めて振り返る。その顔が何時も通りだったので半ば無意識の内に、九桐は安堵の息を吐いた。

「ちょいと餓鬼どもの様子を見に、な」

 そう言って肩を竦める緋勇に、奈涸は暫し考えるような仕草をした。
 鬼道衆とは、怪しげな呪術を用い怨霊を操り、時にはその牙を剥いて人の命を奪うものだと、聞かされていたと言う。

「…随分印象が違うものだな」
「強ち間違いでもないさ。必要なら呪法も使うし、人も殺す」
「お人好しの集団だけどな」
「師匠…お前に言われたくはないな」
「何さ。俺に文句を言う前に大事な大事な御屋形様にもっと警戒心を持つように教えてあげたら?」
「だから何度も言ってると…ああもうお前の言動は本当に支離滅裂だな!」

 生憎九桐の頭は丸坊主だが髪があったら掻き毟っていたに違いない。
 このやり取りに奈涸は密やかに笑いを噛み殺していた。
 呆れと感心が入り混じった、複雑な表情ではあったが。

「早く小塚原に向かうといい」

 笑みを消したかつての忍は真直ぐに二人を見て言った。
 子供たちは既に小塚原に向かっているだろうと。
 軽口を止めたふたりも、互いに顔を見合わせ、そして頷く。

「そういう事なら早急に向かおう。奈涸、お前はどうする」
「俺は…これから、会わねばならん客がいるのでな…」
「わかった。では後ほど」
「ああ――――」





 刑場には人だかりが出来ていた。
 揃いも揃って、人が死ぬ所を見物に来たらしい。平和暈けにも程があると風祭は吐き捨てた。

 あの子供たちはその人だかりに押されるように、最前列にいた。食い入るように刑場の中を見ている。

 大丈夫。
 きっと大丈夫。
 助けてくれるって言ったんだ。
 お稲荷さんが助けてくれるって。
 ちゃんと何度もお願いした。
 何度も何度もお願いした。
 だからきっと大丈夫。

 子供たちの声が、聞こえてくるようだった。

 今に陽が沈む。
 刑が、執行される。

「奈涸はまだか…子供たちが何時までもじっとしているとは限らんぞ…!」
「大丈夫、あいつはちゃんと来る」

 九桐の案じた通り、子供たちが飛び出して行くのが見えた。役人はこれを煩わしがり、すぐさま刀を抜き払う。その凶刃が、少年を捉えたように見えた。

「―――――!!」

 しかし実際に血を流し倒れたのは役人の方であった。子供たちの前に、立ちはだかるようにひとつの影。

「何者!!」
「この身は闇―――そして影。死に往く者に名乗るは無価値…」
「な―――!」

 空気が一変した。空を雨雲が覆い、雷鳴が轟く。降り出した雨は、視界が霞むほど強かった。

「飛水…忍軍、か!!」

 搾り出した九桐の声には、感嘆すら含まれていた。

「感心してる場合じゃないぞ、俺たちは俺たちの仕事をしよう」
「ああ、そうだな」
「かったるいけど仕方ねぇ」
「下忍、二手に別れるんだ。あの兄さんだけじゃ難儀だろう、手を貸してやりな!残りはついておいで!」
「はッ!」

 騒ぎの隙を突いて刑場の中に入ったはいいものの、そこにはまだ大勢の役人がいた。

「何だ、結構残ってやがるな」
「なぁに、この程度なら俺たちで蹴散らせばいいさ」
「よかったな小僧っこ、存分に暴れられるぜ?」
「お前、こっちの人数多いからって手ぇ抜くなよ?」
「普通に考えれば向こうさんの方が大人数なんだから、手ぇ抜くのは無理じゃねぇ?」
「馬鹿言え。雑魚なんか何人いたって同じだろ」
「ほ、心強いお言葉。そいじゃ安心して手ぇ抜かせてもらおうかね」
「お前な――――!」

 その時だった。
 桔梗の指示で鍛冶屋を磔台から降ろそうとしていた下忍衆が何者かによって蹴散らされたのである。直ぐに散開の号を出し、事なきを得たが、その何者かは、恐ろしく速い。

「やっろう…!」
「何者だ…?!」

 風祭の蹴り、九桐の槍を次々にかわしたその相手は、篝火の許にその姿を晒した。








 猿。








「は?!」
「猿じゃん!」
「猿だな」
「猿だよね」

 猿だった。
 恐ろしく大きな。

「し、失礼な!この方こそその生涯にかけて亡き家康公をお護りし続けた、彼の服部半蔵正成殿の生まれ変わりなのだぞ!!」
「猿なのに?!」
「猿なのに」
「猿なのに」
「猿なのにね…」
「う、うるさい!」

 どうやら役人たちも「猿なのに…」と思っているらしい。

「しかし生まれ変わりとは…幕府は本気でそんなものを信じているのか…?」
「生まれ変わりィ?はッ、そんな生易しいもんには見えねぇけどな…」
「どういう意味だよ」
「たーさんも感じるかい…」

 桔梗の顔色は暗がりにも、優れているとは言えないものがあった。
 アレには、陰気しかない。
 どんな生物でも、生物である以上必ず陰陽を持って生まれてくるものだ。そのどちらかが欠けていると、生命として成り立たない。それなのにあの猿には、禍々しいまでの陰の気しかないのだ。

「胸糞悪ィ…」
「アレは何だい…?幕府は本気であんなものに手をつけたのかい?とても…とても正気の沙汰とは思えないよ」

 猿だけど。

「…んっとに…なぁんでよりにもよってそんな力の抜けるような姿かなぁ…」
「とにかくあの猿は幕府で、俺たちの敵って事だろ?なら、叩き潰しゃそれでいいじゃねえか!」
「確かに、その通りだ」
「坊やにしてはいい事言うじゃないか。それでいこう。下忍、あの猿は引き受けた。鍛冶屋を頼むよ。ちょろちょろしてる役人くらいは自分たちで何とかしな」
「御意――――」

 全員が、地面を蹴った。






「ち…思ったより手応えがねぇでやんの」

 戦いが終わると同時に、風祭は面白く無さそうに呟いた。

「おやおや、あの猿に随分苦戦させられてたのは何処の坊やだい?」
「く、苦戦なんてしてねぇだろ!!」

 背後のやりとりを気にも留めず、緋勇は倒れた猿に歩み寄った。

「服部半蔵…正成殿―――惨めな姿だな、あんた、こんな所で何をやってるんだ…あんたの主は、もうとっくに死んじまってるってのに…」

 苦しげに、それは呻く。
 体を覆う陰の気が、今にも爆発してしまいそうだった。

「…還りな。あんたがあるべき場所へ。今度こそ、安らかにな」

 顔の前に、手を翳す。苦しげだった呼吸が瞬間、僅かに和らいだようだった。若しかしたら、笑ったのかもしれない。
 それを最後に、大猿はその陰気諸共弾け飛び、やがて闇に溶けるように跡形もなく消滅した。

「は、半蔵殿が…!」
「う…うわぁぁぁァァァァ!!」

 大猿の消滅を目の当たりにした役人たちは、蜘蛛の子を散らすように我先にと逃げ出した。

「なんとまぁ…正直な連中だ…」
「単に腰抜けなんだろ」
「いいじゃないか。命を無駄にするよりぁずっと」

 緋勇は空を仰いだ。
 何時の間にか、激しい雨は止んでいた。雷もだ。雨雲だけが、ただひっそりと存在を主張する事なくそこにある。

 あちらの『闘い』も、終わったのだろう。

 救い出された鍛冶屋に声を掛ける桔梗たちに背を向けて、緋勇は歩き出した。
 その裾を、幼い手が引き止める。

「兄ちゃん…」

 振り返ると、あの少年が涙に潤んだ目で緋勇を懸命に見上げていた。
 緋勇は笑い、大きな手でその頭をガシガシと撫でた。

「…な、嘘じゃなかったろ?」
「え…?」
「お稲荷さんは、ちゃぁんとお願い、聞いてくれたろ?」
「…じゃあ兄ちゃんが、お稲荷さんなの?」
「はは、どうだろうな」

 白々と笑い飛ばす。そして最後とばかりに強く頭を撫でると、軽い足取りで少年に背を向けた。
 少年はもう引き止めなかった。ただ慌てたようにありがとう、と。

「俺、強くなるから。兄ちゃんみたいに、強くなるから」

 大切な人を護れるように。
 緋勇は苦笑した。そんな強さなら、俺も欲しい。その言葉は胸の内でだけ呟いて、片手を振って、返事に変えた。





「君ひとりか、他の者たちはどうした」
「お前を探しに来たんだよ、奈涸―――」

 刑場近くの山林、闇に紛れるには好都合と取れるこの場所で、探していた姿を発見して緋勇は柔らかく微笑んだ。

「ケリはついた?」
「ん?」
「お前の気持ちにさ、ちゃんと、決着をつけられたかい」

 忍装束を纏った青年は、じっと微笑む緋勇の顔を見つめた。どれだけそうしていたか、やがて大きく息を吐き、困ったように肩を竦めた。

「君は一体、何を何処まで承知しているのだろうな…」
「さぁ、どうだろうね」

 真意の量れない表情で飄々と答える様は、自分などよりよほど忍に向いているのではなかろうかと、奈涸は呆れながらも真剣にそう思った。だが何故だか妙に、憎めないのだ。彼の全て、その何処にも、『嘘』が見られないからかもしれない。
 諦めたように、苦笑を浮かべる。


「昔話を、聞いてくれるか」


 それは奈涸がまだ、飛水に身を置いていた時の出来事。
 腕の傷が出来た由来。それが切欠で突きつけられた、現実。長い夢の終わり。
 幕府に見切りをつけ、里長を殺め抜け忍となった自分。

 結果的に、裏切る事になってしまった、愛しい妹。


「こんな俺が、妹にしてやれる事はもう、あいつに殺されてやる事くらいだと、そう、思っていた――――君の、言葉を聞くまでは」


 家族が、意にそぐわず引き裂かれるような、そんな事は悲しいと、この男は言った。

 そうだ、確かに自分はとても『悲し』かった。
 あの娘も、悲しかったのだろうと、今なら、わかる気がした。




「俺は、間違えずに済んだのだろうか…」

「何が間違いで、正解だとか、そんな事はどうでもいいんだ。兎に角お前は、幸せになれ。あの親子より、もっとずっと、幸せになれ。勿論、その妹も一緒にだ」



 何かを言いかけた奈涸を制して、緋勇は少し大きめに声を上げた。

「―――こっちだ!」
「こんな所にいやがったか!」
「たーさん、黙っていなくなるのは止しとくれよ。吃驚するじゃないか」
「全くだ―――奈涸と合流していたのか」

 緋勇の後ろに奈涸の姿を発見した九桐はやはり無事だったか、と安堵したように呟いた。桔梗も然りである。

「結局、鍛冶屋はどうした?」

 緋勇はあの男が磔台から降ろされた所までしか知らない。当然の疑問を口にした。

「ああ、今度こそ本当の事をお奉行に話して再度詮議してくれるように頼むってさ。刑場に戻ってっちまったよ」
「あんな目にあってもまだ幕府を信じるってんだぜ?馬鹿だよな」

 折角助けてやったってのに…と風祭は不満そうだ。
 緋勇は笑った。

「いいじゃないか。あとは、その鍛冶屋の責任だ。俺たちがどうこう言う権利はねぇだろうよ」
「でもよぉ…」
「小僧っこは優しいなぁ。また同じ事になるんじゃないかって心配してんのか」
「ば!違ぇよ!!もういいから帰ろうぜ!」
「照れ屋さんめ…」
「照れてねぇえ!!」
「さ、村に戻るか」
「人の話聞けよ?!」
「一緒に来るだろう?奈涸」

 更に無視された風祭は地団駄を踏んで怒鳴り散らしているが、他の誰一人、その事を気に止める者はいなかった。緋勇の言葉に僅かに目を剥き、そしてかつての忍を見る。
 奈涸は最早癖になってしまいそうな苦笑にその口元を歪めた。

「まるで…もうそれは決定済みの事のようだな…」
「おや、おや。だってお前はもう名乗ったろう?」
「………………下忍衆に聞いたのか」

 そういう事にしておいてくれ、緋勇はにいっと口角を持ち上げる。意地の悪い表情だ。奈涸は憮然とその顔を睨み付けたが、効果はない。腹の括り時らしいと、奈涸は笑った。

 わけがわからないという顔をしている面々を見据え、静かに言った。






「君達さえよければ、だが。これからは俺にも、『鬼』を名乗らせて欲しい―――」







我が家の緋勇はやけに九桐との絡みが多い…
それもこれも旦那が村からあんまり動かない所為だ…(ホロリ)
いいもんね!坊主との友情育んじゃうもんね!との決意を固めた第五話・完。

06.07.13