血契<2>





 それは真夜中の事だった。

 相も変わらず遠慮のない風祭の鼾と寝言に辟易しながら、外の空気を吸う為に座敷を出た緋勇は、もうひとつ、動いている気配に気がついた。
 下忍ではない。九桐かとも思ったが、違う。

 そうして気付く。




 『今日、この日』は――――。




「……姐さん…」
「…たーさん…?」

 そこにいたのは、やはり桔梗だった。
 手にしているのは……お葉の、三味線。

「……行くのか…」
「ああ」

 こうなる事は、わかっていたのに。
 やはり自分には、どうする事も出来ないのだと、緋勇は苦く息を吐いた。

 お葉を助ける事も。
 桔梗を止める事も。
 何も。
 何も、出来ない。


 何て、無力。


「何で、そんな顔するんだい、たーさん」

「何も…何も動いてはくれないからかもしれない…」


 どれだけ動かそうとした所で。
 それはびくともしないのだ。

 これが、運命だとでも言うのか。

 それを壊す為に、自分は『ここ』にいるのではないのか。




 このまま、繰り返してしまうのではないか。



 あの、悪夢を。




「………どうしたらいいんだろう…」




 誰かが答えを、教えてくれたら、どんなに楽だろう。







(時を紡ぐ盲目の少女よ、どうか教えてくれないか)



(俺が何の為にここにいるのか――――)







 返る言葉は、ない。
 緋勇はただ唇を噛み締めた。

「…行っておいで…」
「…え?」
「行って、ちゃんと、見ておいで…」
「…何をさ」
「全てを。そこにある、現実を。その、思いを」
「………?」
「気をつけて…」

 声は、震えていなかっただろうか。
 ちゃんと、笑えていただろうか。

 揺らめく視界を叱咤して、緋勇は桔梗に背を向けた。




 夜が、怖い。

 眠らなければいけないこの時間が、とても怖い。



 だから、男は眠らない。



 覚束ない足取りで、ふらりと向かったのは、獣の気配が色濃く蔓延る那智の滝だった。
 身につけているものを全て取り払って、男は水に沈む。

 心地好かった。




 このまま溶けてしまえたら、もっと心地好いのだろうと、思った。







 翌朝、九角屋敷の大座敷にバタバタと騒がしい足音が飛び込んだ。

「オイ!龍斗がいねぇぞ!!」

 風祭だった。
 既にそこにいた主である九角と、九桐、桔梗、さらには嵐王までもが頭に疑問符を乗せて首を傾げた。

「散歩にでもでかけたのではないか?」

 緋勇が真夜中と早朝の散歩を趣味としているのはもう誰もが知っている事だったから、九角の台詞は至極自然なものである。
 しかし風祭は首を振った。

「蒲団が敷きっぱなしなんです」
「は?」
「あいつ、何時も起きたらちゃんと蒲団畳むんですよ。でも、今日は敷きっぱなしなんです。夜からずっといなかったんじゃないかと」

 流石にそれは、少し可笑しい。全員が眉を顰めたその時、段々と近付いてくる二人分の足音と声があった。それも、片方は怒っているらしい。

「失礼する」

 スパン、と音がなるほど勢いよく大座敷の障子を開けたのは、何と弥勒だった。しかも何故か全身濡れ鼠だ。

「痛い痛い痛いって弥勒!ゴメンって言ってるじゃねぇかスミマセン御免なさい反省してますから耳引っ張るの止めてぇぇぇえええッ」

 その弥勒に、まさしく片耳を引っ張られて引き摺られるように現れたのは、今し方の話題の人物、緋勇だった。こちらは頭から濡れそぼってはいるものの着物は濡れていない、まるで水浴び後大雑把に体を拭いただけのような、そんな風体だ。
 唖然としている大座敷の面々の前に、弥勒はその緋勇を座らせた。

「那智の滝に落ちていた」
「落ちてた?!」
「いや、正確には浮いていた。どちらにしろ、死体かと思った。こんな事が度々あってはおちおち水を汲みに行く事も出来ん。何とか言っておいてやってくれ」

 それだけを言い終えると弥勒はしょんぼりと小さくなっている緋勇を置いて座敷を出て行ってしまう。
 何時も足音など立てない彼が珍しく乱雑に歩いている所を見ると、どうやら相当怒っているらしい。これもまた、珍しい事だが、仕事の合間に水を汲みに行った滝で、顔見知り、それも大きく好感を持っている相手が浮遊しているのを発見してしまった心境としては当然と言ってもいいだろう。
 大方、慌てて水に飛び込み引き摺り上げたはいいものの、当の本人は弥勒が何をそんなに慌てているのかさっぱりわからずきょとんとしていたに違いない。
 哀れな事である。勿論弥勒が。
 残された緋勇は本人が言った通り反省しているのか、じっと動かずに回りの反応を窺っている。

「緋勇……」
「ハイ、ゴメンナサイ」
「…そうではない。ずっと、滝にいたのか?昨夜から、ずっと?」
「……ソウデス」
「………」

 一同、溜息。

「桔梗、屋敷の者に言って、風呂を沸かして貰え」
「え、いいよ。俺はこのままでも全然―――、」
「緋勇…」
「師匠…」
「たーさん…」
「緋勇殿…」

 一同の心の声を代弁したのは、以外にも風祭であった。

「お前って、結構馬鹿だったんだな…」

 緋勇はがっくりと肩を落としてこの世の終わりを告げるように呟いた。

「小僧っこにまで哀れまれた…」
「どういう意味だ!!」




 気を取り直して大座敷。
 たっぷり風呂に浸けられてほかほかになった緋勇を交えて一同は、昨夜桔梗が吉原で戦ったという龍閃組について話し合っていた。その最たる部分が、彼らは鬼道衆の障害となるか、否か。
 嵐王はすぐにでも人を選び、徹底的に探査をすべきだと言った。
 それに難色を示したのは九桐だ。桔梗や御神槌を退ける相手に、迂闊な事をすればこちらの犠牲を無駄に増やしかねない、と。
 その話の間、緋勇はじっと黙っていた。それは先までの怒られる寸前の子供のような態度ではなく、気配を殺し息を殺し、事の成り行きを見届けようとしている何時もの男の態度だった。
 だからこそ、この男の意見を聞いて見たいと思った。

「緋勇、お前はどう思う。この龍閃組とやら、我らの障害になると見るか?」
「答えてもいいけど、意味を聞くなよ?」

 緋勇は面倒臭そうに頭を掻き回しながら、そんな前置きをした。首を傾げる頭目に何でもない事のように続ける。

「障害にはなる。だが、敵にはならない」
「それは―――意味を聞くなとは酷な事を言う…」
「聞かれても、俺にもわからないからだよ。これは俺の『勘』で、『推測』で、『希望』だ」
「ふむ……」
「何にしても、旦那たちが鬼道衆、龍閃組が幕府に関わる者である以上、これから何度でも接触する機会があるだろうさ」

 これは、勘でも推測でもなく、『事実』だが、と心の中で付け加え、思案顔の九角を尻目に緋勇は立ち上がった。

「町の様子を見てくるよ。姐さん、一緒にどうだい」
「え、あ、ああ…そうだね、一緒に行くよ」
「緋勇―――」


「見極めよう、旦那。それはとても難しいけど、とても、大切な事だ」




 座敷を出た緋勇は桔梗が横に並ぶのを待ってゆったりと歩き出した。

「たーさん…」
「んー?」
「昨日…さ、龍閃組の連中と戦った時にね、お葉が言ったんだ…」

 復讐したからといって、どうなるものでもないと。吉原に復讐する事は、吉原で生きようと頑張ってきた自分の思いを、嘘にしてしまう事だと。
 そう、言ったのだと。

「……お葉は、復讐なんて望んじゃいなかった」
「…うん…」
「…あんたは、わかってたんだね…」

 そうだ。わかっていた。男にはわかっていた。わかっていたのに何を、する事も出来なかった。お葉の気持ち以上に、わかってしまった、己の無力。

「復讐が、意味のないものだとは、言わないよ」

 そうとも、そんな奇麗事は、自分には言えない。

「俺、だって――――」

 きっと、殺すのだろう。
 もう一度、あの男に出会ったら。
 今度こそ、殺すのだろう。
 例えばそれにより新たな憎しみを生み、己の身を滅ぼす結果になろうとも。
 それでも構わない。
 それほどまでに、憎い。

 こんな思いを胸に抱く自分が、桔梗を止められる筈がなかった。

「この村の者は皆、復讐の御旗の元に一丸となって闘ってる。自分たちを虐げてきた徳川が憎いからさ。理由のない怒りじゃない。筋の違った恨みでもない。ただ奪われたものの代償を求めてるだけだ。それなのに…」
「………復讐を誓う人間もいるだろう。代償を求める人間もいるだろう。けど、」

 けれど、そう。お葉のように。

「ただ、安らかな時を、求める人間もいるだろう」

 復讐など意味のないものだと、口にするのは意外なほど容易い。
 だけれどそれが正論だと言うのなら、この胸に蔓延る空虚な思いは一体何だ。

「―――――かなしい、ね…」

 ぽつりと零した消え入りそうな言葉に、桔梗は僅かに驚いて。だがやがて、困ったような微笑みを浮かべた。
 お葉もそんな顔をしていた、と、苦く呟いて。









閑話にしてもよかったかな…と思うくらい浮いていたので(場面的に)
短いけども区切ってみました。

06.07.12