その時彼は何時ものように町の見回りを終え、帰って来た所だった。
 陽が落ちたばかりの、薄暗い空。完全な闇に包まれるにはまだ早い。
 逢魔が刻。
 或いは、大禍刻。
 誰が始めにそう呼んだのか。
 その渾名を嬉々と受け止めるように夜の闇はゆっくりと、確実に人の世を蝕んでいく。

 「それ」は、境内に入って直ぐの事だった。
 寺を見上げるように、人が立っているように見えた。
 辺りは既に薄暗くて、それが人であるとはっきり認識出来たわけではない。寧ろ、存在そのものが稀薄で、今にも消えてしまいそうだと思った。
 もしかしたら、何か別のものを人の姿と見誤っているのか。
 それでなけでは、妖の類かとも思った。
 彼は気配を殺し、訝しく思いながらも慎重に歩みを進める。
 もしこれが人であるならこんな古寺に何用か。そして何者であるのか。
 近付きながら、彼は己の鼓動が早まっていくのを感じた。
 何か、やはり、これは人ではないのかもしれない。
 近付いては、いけないものなのかもしれない。
 そう思うのだが何故か足が止まらなかった。
 近付いてはいけないとしきりに警告する本能と裏腹に、ここでこれを捉えなければ、後悔するかもしれない。二度と、取り返しのつかない事になるかもしれない。そんな想いが渦巻いていた。
 近付けば近付くほど、その姿は鮮明になり、ああやはり人だったかと知らず安堵の息を吐いた。
 人影はこちらに背を向けて、やはり寺を見上げていた。
 長身の、男だ。
 まっさらな黒髪は肩にかかる程度しかなく、それも結い上げずに流している。身形は至って質素だ。地味な色合いの着流しの上に、申し訳程度に羽織を掛けている。猫背気味のその背を、しゃんと伸ばしたらさぞ見目にいいだろうと思わせる均整の取れた体つきだった。
 あと数歩、あと数歩で、手が届く。
 だがここへ来て、本能の警告が一層強くなった。

 近付くな。
 これ以上は、近付くな。
 まだ。
 まだ早い。
 壊れてしまう。
 何が?
 わからない。
 だが、まだだ。

 何がまだ、なのか、早い、のか、壊れてしまう、のか。
 分からないのに、急激に己の体温が下がっていく気がした。冷水をかけられたように。体が硬直して、それ以上前へ進めなかった。
 動け、と思う。念じる。本能が何と言おうと、ここで、「これ」を捉まえなくては。せめて話を、声を、その顔だけでも。
 動け。
 だが彼の体は彼の意志に強く抗い。
 その足は、まるでその場に縫い付けられたように動かない。
 ならば。
 ならばせめて。
 気づけ。
 男の背に、叩きつける、願い。


 気付け――――――!!


 その、祈りにも似た願いが。
 通じたのか、はたまた、気配を殺しきれなくなったのか。
 男は、弾かれたように振り向いた。

 ひどく。
 ひどく驚いた顔をしていた。
 泣きそうにも、見えた。
 もしかしたら、泣いていたのかもしれない。
 声を。
 声をかけようと思った。
 誰か、とか。何の用か、とか。そんな事はどうでもよくて。
 ただ、どうした、と。
 言って。
 肩でも叩いて。

 ………。

 風が、吹き抜けた。
 あまりにも突然で、強い風だったので、思わず目を瞑ってしまった。
 ほんの一瞬。
 誓って、ほんの一瞬だ。
 男から目を離したのは。
 だが。
 目を開くと、そこに男はいなかった。
 誰かがいたという痕跡すら、なかった。
 気配すら、残さずに、まるで、夢か幻であったかのように。
 呪縛は解けていた。自由になった足で、今し方まで男がいた筈の場所に立つ。
 泣きたくなった。
 何故だか、無性に悲しかった。
 悔しかった。
 唇を噛み締めて、彼は低く唸る。

「京梧?」

 咄嗟に振り返ると少し離れた位置に中間達が立っていた。彼らも、見回りを終えて帰ってきたらしい。不思議そうな顔をして、立ち尽くす自分を見ている。
 体の大きな僧侶と、小柄な少女。藤の着物の清楚な女。
 眉を顰めた。
 足りないのだ。何度見ても。何かが足りない。それが何か、いくら考えても分からないから、どうかしたのかと聞いて来る仲間達に何でもないと言い置いて、彼は逃げるように寺の中へ姿を消した。




 寺から少し離れた、だが寺を見渡せる位置に聳える大木の天辺に、ぽつりと溜息を零す人影。

「……失敗した…」

 少しだけ、見ていたかっただけなのに。近くでその空気を、感じたかっただけなのに。日が暮れる前なら、見回りに出かけている彼らに見咎められる事はないだろうと思っていたのに、気が付いたら陽は疾うに落ちていた。その上、彼に姿を見られてしまった。

「ああ……ホント失敗した…」

 まだ、その時ではなかったのに。
 人影はまたひとつ、溜息を零すと枝を蹴った。それは風に揺れる程度の衝撃。

 さらりと鳴る葉の音を残し、人影は闇に吸い込まれるように溶けて消えた。














血契<1>










「ふ…ぁあーぁ…」
「おやおや、盛大な欠伸だねぇ、たーさん」

 口を大きく開けすぎて顎を外したりしないどくれよ、と桔梗はカラカラと笑った。
 現在昼九ツ半刻。緋勇を初め、桔梗、九桐、風祭ら鬼道衆は九角の命令により北にある小塚原刑場へ向かっている。
 切支丹屋敷での一件、そして桔梗の持ち帰った三味線により乱されるであろう江戸の霊的守護結界。更にその力を削ぐ為、北からも崩しに掛かろうという魂胆らしい。ご丁寧な事だね、と緋勇は軽く肩を竦めるだけで、彼らのする事を、肯定も否定もしなかった。
 その代わり、外に出てぽかぽかと柔らかな陽に照らされた途端に欠伸を連発。そのやる気の感じられなさに、流石の桔梗も苦笑せざるとを得なかった。

「だぁってぇえ、坊主の話は長くってさぁー。からくり師も小難しい事ばっか並べるから俺の繊細なオツムはついていけなくってぇー」
「白々しいな師匠。繊細が聞いて呆れるぞ。師匠の知識量は俺や嵐王を遥かに凌いでるだろう。あれくらいの事は承知だったと思うんだがな」

 九桐は少し前から、緋勇の事を師匠と呼ぶようになった。
 何時ぞやした手合わせ(それも槍を模した棍での手合わせだ)でこっ酷くやられたのが効いたらしい。いくら止めろと言った所でその呼び名を改める事はなさそうだ。九桐からしてみれば、自分の得意の武器での手合わせで敗れたのだから相手の技量に素直に感銘し尊敬するという意味で、深い意図はない。何もそんなに嫌がる事はなかろうにと半ば面白がって呼んでいる。

「あれくらい…って、結界とか風水とか四神とかいう何かよくわかんない話か?あれって知ってなきゃいけないのか?」

 一緒に話を聞いていた筈の風祭が、やはりあまりわかってないように首を傾げている。

「安心しろ小僧っこ。罷り間違っても一般常識じゃあない」
「でも鬼道衆の一員としては知っておいた方がいいよねぇ」
「そうだな。俺たちのやるべき事はそれを全て基盤にしてるわけだから」
「ぬうううう…」
「お、湯島の天神様」

 唸る風祭の向こう側に見つけたそれに、緋勇は嬉しげに声を上げた。

「姐さん俺たちちょーっと寄り道してってもいい?」

 言いながらぐいと引いた腕は九桐のものだ。桔梗はきょとんと目を瞬き、風祭が訝しげに顔を顰める。九桐も、驚いたように目を瞠った。

「まぁ後は上野寛永寺にそって北へ向かうだけだから、構わないけど…それ連れて何処へ行こうっていうんだい?」
「い・い・と・こ。ああでも姐さんや小僧っこは多分興味がないのではなかろうかという所」

 ますます首を捻るふたりとは対照的に、九桐には閃く所があったらしい。楽しげに顔を綻ばせて頷いた。

「いいな、ちょうど槍の柄も痛んできた所だ。ひとっ走りすれば直ぐだしな」
「そうそう。武器の手入れも大事だよなー」

 漸く合点がいった桔梗が溜息を吐き、風祭ががなる。

「任務放り出して骨董品漁りかよ!」
「だから、武器の手入れや収拾も立派に任務だろう?あぁ…小僧っこにはまだわからないか可哀相に…」
「何だその哀れんだ目ーーーーー!!!」
「まったく小僧っこは寂しん坊だな。どれ、それならコイツを貸してやろう」
「寂しくねえし!!コイツって…ああああこの櫛野郎!!勝手に俺の頭に居座るな!!ええい離れろーーーー!!!」
「ははははは。まったく似合ってないぞ小僧っこ」
「そう思うなら責任持ってちゃんとお前が持ってろよ!!!」
「櫛子さんはお前がお気に入りなんだよ。ほうら大喜びしてるじゃないか」
「誰だ櫛子さんて!!!踵落としだろ?!これ踵落としだろうオイコラ!!!」
「じゃあ姐さん、俺らちょっくら行ってきますよ」
「ああ、王子も北だ、何か面白い情報でも仕入れてきとくれよ」
「話聞け!!!」
「了解〜。よし坊主、そうと決まれば行くぞ!」
「おう」
「コラ…てめ…!龍斗!!コレも持って行けえええええええ!!!」

 風祭の叫びも虚しく、緋勇と九桐は足取り軽く王子へ向けてさっさと歩き去ってしまった。足の生えた櫛を頭の上に乗せたまま獰猛に唸る風祭の首根っこを引っ掴み、桔梗はさくさくと歩みを再開する。またしても風祭が何事かを吠えているが、あえて無視して桔梗は歩き続けた。




「あぁ、ホント面白いなぁ、あの小僧っこは」
「完全に玩具だな…」
「ははははは」

 笑って誤魔化したな…と九桐は思ったが、あえて口にしなかった。その代わり、率直に聞く。

「何で、俺だった?」
「ん?」
「王子へ行くのに、どうして俺も一緒にと言ったんだ?」

 数度、瞬いてから緋勇はああ、と頷いた。

「だって、どうせお前、俺ひとりでは行動させないだろう?後からこっそりついて来るなら、一緒に行った方が楽しいじゃないか。それにお前を選んだのは、単純に好きそうだと思ったからだよ」
「………そういう気が回るなら、尾行を撒かないで欲しいものだな」
「ああ、昨日の事?ちょっとからかおうと思っただけだよ。そしたら本当に撒いちまったの。これって俺の所為?」
「………未熟な下忍の所為だろうが…結局夜まで帰ってこなかったろう。何処で何してた」

 いやに真剣に問い詰めてくるので緋勇も真顔になって大真面目に言い放った。

「坊主…まるで女房の浮気を問い詰める亭主みたいだぞ」
「師匠……」

 げっそりと肩を落とした九桐である。
 緋勇はケラケラと笑ってそんな九桐の肩を叩いた。

「悪い悪い、お前も案外からかい甲斐があるよなぁ。…って、そう睨むなよ怖いじゃないか。心配しなくても旦那の不利になるような事はしないよ。昨日はちょっとな、個人的に…思い出の場所って奴に行ってたもんで。下忍を撒いたのはその為だよ。恥かしいだろ?」

 と言いながら本当に照れ臭そうに視線を泳がすものだから、怒る気力も削がれた。
 大体、この会話からして少し可笑しいのではなかろうか、と今更ながらに九桐は頭を抱えた。
 尾行する側とされる側がこうも開けっ広げなのはどうかと思う。付け加えて尾行を担当する下忍からの報告も気の抜けるようなものばかりだ。その大半が途中でとっ掴まって茶を奢ってもらったとか、団子を食いながら一緒に帰ってきたとか、一緒に遊郭でもどうかと誘われたとか。
 こんな会話を今後もするくらいならいっそもうこの男を信用してしまおうか。とも思うがその度に「そんな信用の仕方あるか…」と自己嫌悪に陥るのだ。
 真面目な人間は大変である。

「っと、そろそろだな」

 桔梗たちと別れてから、随分歩いていた。
 気がつけば、もう王子だ。
 しかしどうした事か、そこは常より閑散としているように思える。

「妙だな…この時間ならもっと賑わっていてもいいだろうに…」
「…師匠、ちょっとこっちへ」
「へ?あ、何だよ日暮れもまだだってのに大胆な奴だな」
「何の話だ。ちょっと隠れるんだ」

 どうやら九桐の意図など疾うに分かっていたらしい緋勇は反応が面白くない…とかブツブツ言いながらも自ら進んで建物の隙間に滑り込んだ。いい体格をした男ふたりではどうにも心許ない場所だが、幸い辺りは既に夕暮れだ。少し奥まで入れば薄暗さも相俟って、表の通りからこちらの姿を発見する事は容易ではないだろう。
 ふたり揃って息を殺していると、その通りを数人の男達が過ぎていく。
 身形はばらばらだ。どの顔にも卑下た笑みが張り付いていて、品位の欠片もない。腰に大小を差してはいるものの、あまりにもお飾り感が過ぎる。なんて事は無いただのゴロツキだが、話している内容がまずかった。

『とんだカモだぜ、あの餓鬼ども、本当に金を持ってきやがるってよ!』
『ああ、有難い事に、俺たちを本物の役人だと信じ込んでやがる』
『たってよ、お上の裁きで刑場行きが決まったんだぜ?今更どうにかなると思ってんのかねぇ』
『そこがほれ、いじらしいじゃねぇの。俺達でとうちゃんを助けるんだ!って金まで用意してくれるって言うんだぜ?いやぁ泣ける話だねぇ』
『ははははは、まぁどうせ、ガキどもの願い虚しく親父は磔。その後は―――騒ぐようなら…』
『ま、父ちゃんに会わせてやるってのが妥当だろうな!』
『ぎゃはははは、優しいねぇ俺ら!』

 物陰で緋勇は九桐に気付かれないようにこっそりと溜息を零した。
 この馬鹿ども、『あの時』の奴らだな…口の中だけでひとりごちる。脳裏に過ぎる、健気な少女と、危うげに思い詰めた少年の顔。それと同時に、かつて仲間と呼んだ少女の顔も、浮かんで消えた。

(…浬ちゃん―――――)

 あの娘は、大丈夫だろうか。今また、自分を追い詰めるような真似をしているに違いない、あの娘は。

「師匠――――」

 呼ぶ声に振り向くと、ぽんと頭を叩かれた。叩かれたというより、撫でられた、が正しいだろうか。

「骨董屋へ行こう。それから今の話、少し調べてみるのもいいかもしれん」
「あ、ああ。そうだな。てか、何、この手」
「どうやら手ぶらで帰らずには済みそうだな」
「おーい」

 唖然とする緋勇を残して、九桐はさっさと表通りに出て行ってしまった。
 沈黙する緋勇に何を思ったのか。頭に置かれた手の感触はとても優しくて、今更ながらに笑いが込み上げてくる。
 九角といい九桐といい、自分よりよっぽど年下のくせに、妙にこちらを子供扱いする所がある。それが可笑しかった。可笑しくて、擽ったかった。

「…ホントにもう…あの村の子たちってば…」

 込み上げる笑みを噛み殺しながら、既に随分遠くへ行ってしまった僧侶の背を緋勇は足早に追った。
 追いついた背に飛びついてやる。九桐は呆れたように文句を言ったが、引き剥がそうとはせず、背中に緋勇を貼り付けたまま歩き続けた。ずりずりと引き摺られるのが楽しいのか、ケタケタと笑う緋勇と槍を持った生臭坊主に、通行人が訝しげな目を向けていく。

「…師匠、着いたぞ、そろそろ離れてくれないか…」

 目的の骨董屋の前に立った九桐は、ぐったりと脱力気味に緋勇を引き剥がした。彼も抗わずに離れ、目の前の骨董屋に嬉々と飛び込む。その後姿を見送って九桐は重苦しい溜息を吐き出すのだった。
 遅れる事数瞬、緋勇に続いて店に入った九桐は、入り口付近で立ち止まっていた彼の背に危うく衝突しそうになり、慌てて体勢を立て直す。訝しげに、緋勇のその向こう側を覗き込むと店の奥にひとりの老人と、ふたりの子供がいた。老人は、この店の主だ。どうやら子供が持って来た刀を鑑定しているようだった。

「ふむ…家宝というだけあって、結構な品じゃ。喜んで買い取らせて貰うよ」

 喜んでいる子供に店主は大金を渡した。急いで店を出て行く子供と、この店の主を、九桐は不思議そうな顔で見比べる。

「おや、いらっしゃい」
「今の刀、どう見てもあれだけの値打ちがあるとは思えない…何か訳ありか、主」
「………」

 店主が口を開くより早く、緋勇が動いた。入ったばかりの入り口を出て行こうとする。

「おい、師匠!」
「坊主、爺さんから話聞いとけ」
「何?」

 九桐の疑問に答える間もなく、緋勇は暖簾を潜ると何処かへ走り去ってしまった。
 必然的に緋勇から目を離す形になってしまったが、彼のしようとしている事には大方の予測がつく。恐らく、あの兄妹を追ったのだろう。それくらいなら許容範囲かと息を吐いて、九桐は店主に向き直った。先ほどのゴロツキの件もある、詳しい話を聞く為だった。



 一方の緋勇は迷いもなく王子稲荷に向かっていた。
 あの子たちなら、必ずそこへ行く筈だ。
 と、丁度角を曲がった所で死角から現れた小さな影を蹴飛ばしてしまった。

「げ!!」

 影はころころと転がり少し離れた位置で止まった。ぺそりと倒れたのはあの少女だった。何が起こったのかわからなかったらしく、ぽかんとしていた目にみるみる涙が溜まっていく。

「うわ、うわあああゴメン!ゴメンよ痛かった…よな!当たり前だよなゴメン泣かないでーー!ニイチャンが悪かった!前方不注意でした!」

 わたわたと大慌てで少女を抱き起こし、必死に謝り倒すその様子に圧倒されたのか、少女は泣く事も忘れて緋勇を凝視していた。小さな少女の前にしゃがみ込んで、それより低い位置から見上げるように様子を窺う情けない顔をした男が珍しかったのかもしれない。

「怪我!怪我とかしてないッ?」
「う、うん…だいじょうぶ…」

 そうこうしてる内に少年が駆け寄ってきた。

「何してるんだ!妹を離せ!」
「あ、あんちゃん…」
「離せって…俺が蹴り飛ばしちまったいたいけな少女をここで放り出したら俺はそれこそ極悪人じゃないか…」
「蹴り飛ばした?!」
「ち、ちがうのあんちゃん、ぶつかっちゃっただけなの…っ」

 しかしそれにしたって何時までも少女を支えた腕を離さずにいれば、この少年は本当に噛み付きかねない。緋勇は少女の様子を窺いながらその手を離してやった。途端にぱっと離れて、兄である少年の影に隠れてしまう。その時僅かに頬が赤らんでいたのは気の所為という事にしておこう。

「ぶつかっちまった嬢ちゃんには悪いけど、ここで君らに会えてよかった」
「は?」

 少女の様子に首を傾げていた少年が、改めて不審気に緋勇を見た。
 そこで漸く、あの骨董屋で見た顔だと気付いたのだろう。妹を庇いながらじりじりと後ずさる。

「お前…金が目当てか!」
「違う、違う。俺はね、ひとつ助言に来たのさー」
「助言?」
「そう、君らは、父ちゃんを助けたいんだろう?」
「何で知って…」
「いいからいいから。父ちゃんを助けたいならやる事は二つだ」

 緋勇は二本の指を兄妹の前に突き出した。
 少年の影に隠れていた少女が目を輝かせて身を乗り出してくる。

「なぁに?何をすればいいの?」
「馬鹿!聞くな!」
「ひとつは、さっき貰ったお金を、誰にも見つからない場所に隠すんだ。いいか、お役人にも誰にも、渡しちゃいけない」

 そこでふたりは揃って目を見開いた。
 緋勇は構わず続ける。

「もうひとつは、お稲荷さんに頼むんだ。どうか父ちゃんを助けてくださいって、いっぱいいっぱいお願いするんだ」
「…お稲荷さんに…?」
「そうさ、そうすれば必ず、お稲荷さんは父ちゃんを助けてくれる」
「本当…?」
「本当さ。いいか?何回でもお願いするんだぞ?」
「う、うん!あんちゃん!お稲荷さんが父ちゃん助けてくれるって!」
「………」

 はしゃぐ少女は、喜び勇んで神社へ向かって行った。
 少年だけが、最後まで疑わしげな目つきで男を見ている。柔らかい表情で少女を見送っていた緋勇が、ふいに笑みを消して少年を見た。す、と細めた目が、鋭い光を宿す。

「坊主。妹が大事なら、早まった真似はするんじゃないぞ」
「――――?!」
「誰も、犠牲なんて望んでない」
「………」

 緋勇は立ち上がると一歩、少年に近付いた。びくり、と少年の体が強張る。逃げようとはしなかった。もしかすると、逃げたくても逃げられなかったのかもしれない。子供相手に脅しが過ぎたかと苦笑するが、構わずに手の届く位置まで近付き、ぐっと下から顔を覗き込む。
 緊張に顔を強張らせている少年の頭を二度三度撫でて、今度は優しく笑ってやった。

「じゃあな、ちゃんとお願いしろよ?」

 言い残して、緋勇は少年に背を向ける。
 物言いたげな少年の視線を感じつつ、九桐を合流すべく王子の町に戻るのだった。




 町まで戻るとそこには九桐だけでなく、桔梗と風祭の姿もあった。
 気になる話を聞いたので報せに来たというのだ。
 九桐も骨董屋で聞いた話を伝えたいらしく、込み入った話になりそうだと全員で茶屋に入ることになった。相変わらず可笑しな四人組だが、ここは江戸の町だ。少しくらい奇異な人間がいても、皆、すぐに興味を失くしてしまう。そうなるのを待って、四人は話を始めた。

「そうかい…じゃああんたたちが会ったっていう幼い兄妹が、三日後に磔にされる鍛冶屋の子供たちって事かい…」
「間違いないだろう。その上その子らを騙して金を巻き上げようとしている悪党もいるようだ」
「世知辛いねぇ…」
「なぁ、それって、俺たちが首を突っ込む事なのか?」

 しみじみと語る大人三人の横から憮然と風祭が口を挟む。

「裁きの末に一人の男が処刑される。それだけの事だろう?まさか助けてやりたいとか思ってんじゃねえだろうな」
「え、駄目?」
「………チ、偽善者が…」

 風祭の吐き捨てた言葉に、緋勇は目を見開いた。

「ああ、そうか。なるほど。うん、確かに、偽善みたいだねぇ」
「みたいじゃなくて、そのものだろうがよ!」
「うーん、ちょっと違う、かなぁ。俺はただ…ある奴らの力になってあげたいだけなんだよ。あの兄妹を助ける事で、きっとあいつらも救われる筈なんだ。今はちょっと、近くにいないけどね、とても…とても大事な人だから、何か出来る事があるなら、したいんだ。自己満足だよ、小僧っこ。求められてなんていないのに、俺が勝手に「そう」したいんだ。向こうさんにとったら、いい迷惑かもしれないのにね」

 これを偽善だって言うならそれはまぁ仕方がないねぇと、緋勇は柔らかに笑った。
 風祭は何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わずに言葉を飲み込むに至る。代わりと言わんばかりの盛大な舌打ちに桔梗と九桐は揃って苦笑していたが、やがて九桐が話の軌道を修正した。
 風祭の言う事も尤もだが、もう少し調べて見たいと言うのだ。

「骨董屋の話によると、その鍛冶屋は女房を失くしてから男手ひとつでふたりの子供を懸命に育ててきたという。実直で、真面目な男だったそうだよ。刀を届けた先で何があったのか…事故か、或いは何らかの意図によって嵌められたか…何の理由もなく、人に斬りかかり罪人になるような真似をするとはどうしても思えないんだ」
「確かにね…天戒さまに報告するにしても、もう少し情報が欲しい。もうちょっと調べてみようか」

 憮然とした風祭を引き摺りながら、一同は鍛冶屋が収容されている牢屋敷のある小傅馬町に向かう事になった。








「しっかしあの爺さんも無茶やるもんだよな」

 辿り着いた牢屋敷で一同が見たものは、あの兄妹と、兄妹に付き添うようにしていた骨董屋の主だった。
 一目だけでいいから、子供たちと父親を会わせてやってくれないかと、役人に頼み込んでいたのだ。しかし当然の事ながらその願いは受け入れられず、挙句の果てにその役人はその老人と子供たちまで捕らえようとする。
 影で一部始終を見ていた一同は互いに顔を見合わせ、しかしそれよりも早く我慢ならんと風祭が飛び出して行ったりするものだからそれはもう大騒ぎだ。駆けつけてきた役人たちを黙らせて、子供たちを父親と会わせてやったものの騒ぎが騒ぎだ。ほんの短い再会だけで終わってしまった。その間、鍛冶屋は残して往く事になる子供たちの心配ばかりをしていた。これはいよいよもって真実が捻じ曲げられた可能性が高まったと眉を顰める九桐だったが、そんな悠長な事を考えている場合ではなく。むずがる子供を抱きかかえて、早々に屋敷を後にした。
 屋敷を出た後も結果的に強力する形になった鬼道衆一同に何度も何度も頭を下げる骨董屋の姿を思い出して、風祭は感心を通り越して呆れ返っていた。

 現在ここは、九角屋敷の大座敷である。

「中々気概のある老人ではないか」

 話を聞いた九角は楽しそうに口角を吊り上げた。その老人が気に入ったらしい。

「そう、そう思う、旦那?」

 その反応に身を乗り出してくる緋勇に、鬼の頭目は苦笑しながらもしっかりと頷く。

「緋勇は、その老人を気に入っているらしいな」
「ああ、俺はあのヒト、大好きなんだ」
「師匠はそんなにあの骨董屋を贔屓にしていたのか?」
「ふふん、それは秘密だ」
「はぁ?」

 首を捻る九桐の横から、嵐王がずいと身を乗り出した。

「何にせよ、これは好都合ではありますまいか」

 器用に片方の眉だけを吊り上げて、頭目は先を促す。
 鳥面の男は冤罪によって処刑される男と目の前で実の親を殺される子供たちの怨念を持って、刑場に満つ陰の念をより強力に解き放つ事が出来るだろうと言った。
 そして、試すように緋勇に同意を求めてくる。
 緋勇はすぐには答えなかった。ただ先までの笑みを消し、と目を細めて仮面の下を覗こうとする。

 「お前」は。
 「お前」はそんな事を、本当に望んでいるのか。
 からくり師。

 口には出さず、ただ聞く。
 気の所為かもしれない。ほんの少し、嵐王の気が揺らいだようだった。

「からくり師。お前さん、何処を見てる」
「…何を、」
「何処まで先の事を、その結果を見てる。焦って足元を見逃すと、何かに蹴躓いちまうよ。その先は真っ暗闇だ。そういうのをな、本末転倒って言うんだ」
「……甘い、事を…、」
「甘い…というか、優しいのはお前だろう。そのお前が、そんな事を言っちゃいけない」

 何が分かる、と言いたかったのかもしれない。だがその音は吐き出される事はなく。嵐王はただただ言葉を失くすばかりだった。
 緋勇は隣に座す頭目に視線を滑らせた。

「旦那、お前は?お前も、からくり師と同じ考えか」

 そうだと言えば、すぐさまここを出て行きかねない鋭さで問う男に苦笑を禁じえない。九角は緩く首を振った。そして緋勇ではなく嵐王に向かい、厳かだが何処か優しく、言い聞かせるように言うのだ。

「唾棄すべき権力に虐げられた者を、己の目的の為に利用するような事を俺も、そして父も、望んではいない。嵐王、焦るな。そのような贄など使わずとも、やがて時は満ちる」

 嵐王は静かに、頭を下げた。

「人が人である以上、決して、失ってはならぬものがある。この答えで、満足か、緋勇」
「はいよ、お前さんも、これで満足かな?」
「何―――――、」

 緋勇は、誰もいない筈の障子の向こうにのんびりと声を投げた。一同が、一斉にそちらを見やる。カラリと、開いた障子の向こう。月を背後に、それはひっそりと立っていた。

「これは以外。鬼道衆とは、存外情に厚い者の集まりであったか…」

 骨董屋の主であった。

「何時の間に―――馬鹿な!つけてくる気配などなかった筈だ!」

 すぐさま抜刀の体勢に入った九角を庇うように、九桐は槍を構え、嵐王は懐に手を忍ばせた。同じように、桔梗が脇に置いていた三味線に手を掛け、風祭は既に飛び掛る寸前の体勢を取っている。
 動じなかったのは、当の老人と、それに気付いていた緋勇だけだった。

「さぁ、ここまで聞かせてやったんだ。そっちも、それなりの誠意を見せてくれるんだろう?」

 老人は低く笑ったようだった。

「やれやれ…そうも容易く見破られてしまうとは…俺の腕も少々鈍ったか…?」

 若い、男の声だ。鬼道衆の面々は目を剥く。
 老人は己の顔に手を掛け、その皮を剥いだ。

「変装術―――!貴様、忍か!」
「いかにも」

 老人に代わってそこに立っていたのは、すらりと背の高い、二十に手が届くかどうかといった若い男だった。だが、その物腰は殺気立った鬼を目の前にしているとは到底思えない、至って落ち着いたものだ。歳若いながらも、相当の度量の持ち主らしい。
 青年は静かに、低く豊かに響く声で、凛と告げた。

「俺の名は奈涸―――かつて飛水に身を置いていた者だ」
「徳川家隠密、飛水流―――!!」
「徳川の狗が、こんな所へ何の用だ。よもや、鬼見物に来たというわけでもあるまい?」
「旦那」

 鯉口を切った九角の前に、素早く腕を広げる。

「頭目が、そう容易く殺気の安売りすんじゃねぇよ。聞こえなかったか。この兄さんは『かつて』と言っただろう。今は違う、そうだな?」

 緋勇以外の五人の殺気をその身に浴びて尚、青年は涼しい顔で頷いた。微かに口元が笑んでいるところを見ると、緋勇のこの行動は彼にとって以外であり、また面白いものととらえられたらしい。

「その通りだ。俺は既に、飛水を捨てた身…幕府がお前たちの手によって滅びようと、知った事ではない。俺の知りたい事はただひとつ―――」

 奈涸と名乗った青年は、真直ぐに、緋勇を見た。

「君に、問おう」

 視線だけで、先を促す。

「君は、あの親子を、助けたいと、本当にそう思うか?」
「………」

 即答はせず、緋勇はじっと、その男を視線を受け止めた。探るような、試すような、だが何処までも深く澄んだ泉のように清らかで、真摯だ。やはり彼女とよく似ている。そう思い、ふと笑んだ。

「俺が、助けたいと思ってるのは、あの親子じゃない」
「………」
「そりゃあ、あの親子は本来平穏に幸せに暮らすべき人たちだ。勿論、助かってくれればいいと思うよ。けど、俺の思惑は別のところにある。あの親子よりもっと、もっとずっと、幸せになって貰いたいヤツがいる。俺はその為なら、喜んであの子らの助けになろう」
「………」
「家族が、さ。意にそぐわず引き裂かれるような、そんな…そんな事は悲しいだろう…?」

 男が思うのは、それだけだ。
 何も、血の繋がった家族だからとかではなくて。血の繋がりがあろうがなかろうが、思い合った家族が擦れ違うのは、何と悲しい事だろうと。ただそう、思う。
 直ぐそこに立つ青年に、水の少女の面影を重ねる。
 この子たちがどうか、幸せになればいい。
 あの親子よりも、もっとずっと。ずっと幸せになればいい。

「この答えじゃ、足りないだろうか」

 青年はじっと、微笑む緋勇を見つめ返していた。
 僅かな、静寂の後、彼は微笑んだ。とても優しく、とても、柔らかに。

「充分だ」

 君を信じよう、強く頷き、そして協力を申し出た。

「お前たちがあの親子を助ける為に動くなら、この俺の力、思うように使うといい。信用が出来ぬと言うのであれば囮役を引き受けよう。その隙にお前たちは鍛冶屋を救い出す。どうだ」

 鬼の頭目は暫し思案した。忍は答えを急く事なく、ただじっと佇んでいる。

「何故だ」
「何故、とは」
「お前が本当にかつて飛水に身を置いていた忍であるなら、たとえひとりでも、鍛冶屋を救い出す事は出来よう」
「そうだな、容易い事ではないが、無理ではない。しかしやはり容易くはない。だから都合の良いものを利用するのだ。お前たちにとっても、悪い話ではあるまい。使える力は、利用すべきだ」
「こいつ…何を堂々と…!」
「く…はははははは!なるほど、使えるものであれば鬼すらも利用するか!いいだろう、そこまで言うのであればその力、我らも利用させて頂くとしようではないか」
「御屋形様!」
「話は決まったな。では三日後、小塚原で会おう――――」

 瞬間、今までそこにいた筈の青年の姿がまるで嘘だったかのように消え失せた。
 消えた、と騒ぐ風祭を尻目に、九角は告げた。

 全ては、三日後だ。









まるでKOIするOTOMEのようだよ蓬莱寺サン!!
友情です。友愛です。

06.07.11