この日緋勇はふらりと浅草を訪れていた。

 特に用事も無い。屋敷でじっとしているのは性に合わないし、かといって村をふらふら歩いていたのでは、またしても自分を神の遣いだとか言うちょっと…大分大袈裟な村人たちに寄って来られる。
 よろしくない。非常によろしくない。
 そんなわけで、鬼の頭に「町の様子を見てくるよん」と言い置きさっさと山を降りたのだ。
 少し後ろには一般人に紛れ込んだ下忍の気配。あれは坊主の使いだな…と緋勇は苦く笑う。
 緋勇が言う所の坊主…つまり九桐尚雲は、まだ緋勇の事を完全に信用したわけではないらしい。その警戒心を少しは頭に見習わせてやれと一度言ったが、もう何度も口を酸っぱくして言っているそうだ。
 その時の事を思い出して緋勇は小さく笑った。

 と、その視界の隅をてん、と何かが横切る。

「………?」

 思わずきょろりと辺りを見回すと、「それ」がいた。「それ」はてん、てん、と小刻みに跳ねながらとある露店を目指していた。面屋だ。いや、それはいい。別に何の露店を目指していようが、それはいいのだが問題は。
 「それ」が、本来でなら動き回る筈のないものである事だ。
 しかも小石にけっ躓いて転んでいる。だがよろよろと立ち上がるとまたてん、と跳ねて今度こそ露店の奥に消えた。

「…………こんにちは?」

 緋勇は「それ」が消えた露店に近寄って、面を彫っていた男に声を掛ける。
 男は隻腕だった。ちらりと視線だけを寄越して、また作業に没頭してしまう。

「なぁ兄さん。作業の邪魔して悪いけど、さっきの、兄さんの?」
「………何の事だ」
「だから、さっき飛び跳ねてた櫛。あれ、兄さんの飼い付喪?」
「……あれを見たのか…飼い付喪とは、面白い事を言う…」

 厳しい顔をしていた男の表情が、ふ、と和らいだ。そうしてみると驚く程優しい顔になる。
 男は突き鑿を置き、片側しかないその左手で足元から一つの櫛を取り上げた。先程まで元気に飛び跳ねていた、張本人である。その櫛を緋勇の手の上の乗せると男は再び作業に取り掛かった。

「別に、飼っているわけではない。もしよかったら、君に上げよう」
「え?でもこれ売り物じゃないの?」

 男の露店を見れば、面の他にも櫛や簪が綺麗に並べられている。
 手の上に置かれた今は大人しい櫛も、細工を見ればかなり上等なものだろう。

「何時の間にか居ついていたんだ。何処から来たのかもわからない。君の傍が嫌なら、また自分で何処へでも行くだろう」
「へぇ……じゃあ、本当に貰っても?」

 ああ、構わない。と言ってから男はふと何かに気が付いたように顔を上げた。

「………本当に持って行くのか?」
「え?!やっぱり駄目とか言う落ち?!」
「いや、そうではない……気味が悪くないのか?」

 聞かれて緋勇はきょとんと目を瞬いた。
 手にした櫛をじっと見つめて、改めて男を見る。

「何処が?」
「………こんな…隻腕の男の持っていた物の怪付きの櫛だぞ?」
「ああなるほどね。いやでも、悪意はないだろ?こいつも、兄さんも」

 付喪神は物に憑く妖。長い間使われた物に宿った魂が、己の意思を持って動き出す怪異。大切に使えば良い妖怪に、乱暴に使えば持ち主を祟る悪い妖怪に。てんてんと軽快に地面を飛び跳ねていたこの櫛に、そんな悪意は見られなかった。

「俺ね、これでも人を見る目は確かなのよ」

 屈めていた背を伸ばし、手にしていた櫛を乱雑に纏め上げた髪に挿す。
 纏っていた少し派手目の羽織と端整な緋勇の器量に、それは奇妙な程よく栄えた。

「兄さん、よくここで店出してんの?」
「…ああ」
「じゃあ、今度は団子でも持って差し入れに来よう。これの礼だ」
「……気にしなくていい」
「はは、単に話がしたいっていう口実だ。畏まらなくていいさ。そんなわけで、今日はもう行くよ。早く帰らないと煩い犬っころと心配性のおかーさんたちがいるもんでね」
「……?」
「こっちの話さ、じゃあな」

 くるりと踵を返すと男の返事を待たずに緋勇はその場を後にした。

 道すがら、そうだあの犬っころに土産でも持って行ってやろうか、等と考えて目に付いた茶屋に入り、少し多めに購入した団子を監視についてきた下忍に食わせ世間話をしながらのんびりと帰途に就いたのは、また別の話である。











情歌<1>








「龍閃組?」

 同日、九角屋敷では先日の報告が改めて行われていた。
 御神槌の口から出たその言葉を、全員の声が反芻する。

「はい、幕府の組織だと言っていましたが…どうも今まで見てきたような者たちとは違うように感じました」
「ほう…」
「っつっても幕府は幕府だろ。どうせ金目的の用心棒とかそういうのじゃねえのか?」

 怪訝に眉を顰めた風祭に、御神槌は小さく俯き戸惑ったように緩く首を振った。

「……私には、そうは…思えませんでした」
「御神槌?」

 訝しむ声にす…と上げた顔には、既に何時も通りの冷静な表情しかない。そのまま正面に座す赤い髪の男に向かい深く頭を下げた御神槌は最後にこう締め括った。

「まだ出来たばかりの組織のようですが、用心するに越した事はないと、僭越ながら進言させて頂きます」

 時が立てば、どんなものでも力をつける。
 それが例え、ただの物に過ぎなかったとしても。



 座敷を出た御神槌は、そこに、今正に脳裏に思い描いていた人物を発見した。
 少し猫背な背中――どうも道着を着ていない時は姿勢が悪くなるらしい――に明るい色の羽織、咥えた煙管に今は頭に櫛まで挿している。しかも手には土産ものなのか、甘味の包み。まるで遊郭帰りのようだと、御神槌は苦笑した。

「…龍斗さん…」
「よぉ、御神槌。今日は顔色がいいな」
「そう…ですか?」
「うん、寝不足は解消されたみたいだな、よかった。今度一緒に散歩でもしよう」

 ぐっと顔を近づけ近距離でにこりと笑う彼に、戸惑いながらも微笑んで、頷く。
 その反応に満足したのか緋勇は空いている片手で御神槌の髪を掻き混ぜ、今し方御神槌が出てきたばかりの座敷に向けて歩を進めた。その手が障子に掛かる、間際。

「あの…ッ、龍斗さん…!」
「ん?」
「あ………貴方は、龍閃組を…」

 知っているのかと、問おうとしてしかしそれは音にはならなかった。

 あの夜に。緋勇と別れた、その後に。気が付いた事がある。
 自分は、ただの一度も龍閃組の話などしなかった。にも関わらず、自分の口から初めて出たその単語を、まるで既に知っていたかのように。
 既に、知っていたかのように。
 そう、思えば彼には、そういう所が、ある。
 まるで予め、全ての出来事を知っているかのように思う節が。

「………」
「御神槌?」

 止めよう。思った。
 きっとこれは、詮索しても栓の無い事だ。
 彼は、『秘密だ』と、言った。その内、『絶対に話す』、とも。
 ならば待とう。
 彼が何時か、自分から話してくれるというのならば、それを待とう。今はただ、あの時優しく抱き締めてくれた彼の腕の温かさを信じよう。

 不思議そうに首を傾げてこちらを窺っている緋勇に、御神槌は小さく笑って見せる。

「何でもありません。呼び止めてすみませんでした」

 そう?と微笑む彼の気配を背に、御神槌は今度こそ九角屋敷を後にした。








 門前町。
 浅草寺前。

「っだーーー!人が多い!騒がしい!鬱陶しいーーー!!」
「煩いねぇ…坊やの方が騒がしいよ少しは大人しく出来ないのかい」
「はっは!仕方が無いよなぁ…ここは江戸中の娯楽を寄せ集めたような場所だからさ、人が多く集まるのは必然って奴だ」

 西に上野寛永寺、北に吉原、奥山に猿若町のような娯楽街に囲まれて露店に芝居に大道芸、何でも御座れな盛り場だしね。行き交う人の波を楽しそうに眺めて緋勇は肩を竦めた。

「おや、たーさんはここいらに詳しいのかい?」
「んー、まあボチボチ」
「どうでもいいけど早く用事を片付けて旨いモンでも食って帰ろうぜ…」

 風祭が人混みに辟易した様子でぼやく。すると桔梗がまぁ気をつけてお行きよと軽やかに笑った。一緒に行くつもりはないらしい。

「あんたは天戒様に頼まれた浅草寺の探索だろう?あたしはちょいと吉原に用があってね」
「何だそれ。お前あそこに入れるのかよ」

 吉原とは、遊郭。所謂色町だ。女性や僧侶は立ち入る事を禁じられている、風祭はその事を言いたいのだろう。しかし桔梗は「女には女の裏口がある」と意味深に笑って見せた。

「さて、じゃあ此処で二手に分かれようか。たーさんはどうするね?」
「姐さんと行くよ。どうやって入るのかは凡そ検討が付くけど、やっぱり少し心配だからね」
「おや嬉しいねぇ」
「ふん。本当は自分が行きたいだけなんじゃねえか?」
「小僧っこ…ひがみはお止め。幾ら自分が餓鬼で遊郭に入れないからって…」
「ひがんでねえし餓鬼じゃねえ!ついでに哀れっぽい目で見んな!!」

 地団駄を踏む風祭に二人が声を合わせて笑っているとその笑い声に子供のような甲高いものが混じった。ケタケタと実に愉快そうに。その声は緋勇の頭の上から聞こえてくる。見れば小さな足を生やした櫛が緋勇の頭の上で笑い転げているという…割と不気味な光景。

「げ。気持ち悪ィ!」
「何をう?!美脚じゃねえか!」
「そういう問題じゃねえ!」
「驚いたねぇ…いい櫛だと思ってたけど、付喪神かい?」
「うん、昨日ここいらにいた面師の兄さんに貰ったんだ。今日もいるかと思ったけどいなかったなぁ…」
「捨てちまえ!そんな気味の悪いモン!」
「こんなに可愛いのに小僧っこは酷い事言う…」
「可愛ぶるな気色悪ィ!ええいクソ!お前も笑うな!何でバケモンにまで笑われなきゃなんねえんだよ!俺はもう行くぞ!御屋形様に言われた仕事なんてさっさと一人で片付けてやるさ!」

 足音荒く遠ざかって行く少年の背を見送り、緋勇は耐えかねたように小さく吹き出した。
 一人で寂しいならそう言えばいいのにねぇ…そう呟くと桔梗も同意するように頷く。だが視線が緋勇の目よりも上に行っている所を見ると、どうやら頭の上の付喪が気になるらしい。

「欲しい?」
「え?あ、いや。そういうわけじゃないよ。ただ――、」
「わ、コラ!蹴るな!捨てたりしないって短気な奴だなぁお前!」
「…ただ、付喪にまで懐かれるたーさんはホント不思議な人だね、って思ってただけさ」
「……姐さん、顔が笑ってる…」
「…ッ、あっはは!だってもう!それ、可笑しくて堪らないよ!胡坐!胡坐かいて居座ってるよ頭の上!」
「………」

 何か妙に気に入られちゃったみたいなんだよなぁ…とぼやく緋勇にいよいよ笑いの止まらなくなった桔梗がその場に蹲るまで、あと数秒。









 まだ陽も落ち切っていないというのに、吉原は既に活気に満ちていた。
 華やかで、煌びやか。そして現実味を帯びぬ艶かしさ。現世の極楽と、男たちは謳う。

「光の裏には影があるもんなのにねぇ…」

 行き交う人間の熱に浮かされふわふわと漂うような表情を尻目に、緋勇は苦く笑った。
 遊女の振りをして隣に寄り添う桔梗も苦虫を噛み潰したような顔で頷く。

「…大手を振って踏ん反り返ってる頭の悪い侍や商人に聞かせてやりたい台詞だよ」
「い…いやまぁ…俺も男ですから、世話になった事がないと言えば嘘になるので耳の痛い台詞なのですがね…」
「そうなのかい?でもまあ、客がいなきゃ女たちが食っていけないのも事実だからね…今のこの現状じゃ、仕方の無い事なんだろうさ」
「…寛大なお言葉痛み入ります…」
「ふふ……あぁ、ここだよ。ここで人と待ち合わせしてるんだ」

 そう言って桔梗が示したのは茶屋を構えた妓楼のひとつ、巴屋という見世だ。暖簾を潜ると愛想のいい店主が寄って来た。

「この兄さんがここで人と待ち合わせをしててね。悪いけど、待たせてもらうよ。茶でも出してくれるかい?」
「へぇ、そういう事でしたら直ぐに――」

 店主が茶を運ぶ為に奥に下がったその隙に、緋勇は小さく問い掛ける。

「待ち合わせって、誰?」
「ふふ…おったまげる程いい女さ」
「姐さんより?」
「おや嬉しい事言ってくれるじゃないか。でもあたしを基準にしようなんて十年早いよ」
「あちゃあ手厳しい」
「ふふふ…」

 その時、その場が一瞬にして華やいだ。
 見世の中にいた客の全ての視線が入り口に集まる。

「ちょいと邪魔するよ」

 そこには比較的地味な着物を纏った若い女が一人。
 しかし着ている着物は質素でも内から滲み出るものは誤魔化しようも無いらしい、彼女は、この吉原最高位の遊女だ。
 ああ、彼女なら確かに、桔梗と並ぶ『おったまげる程いい女』だろうな。緋勇は桔梗に気付かれないようにこっそりと微笑んだ。

「お凛、こっちだよ」
「桔梗姐さん―――すいませんねぇ、待たしちまいましたか?」

 桔梗が声を掛けるとお凛と呼ばれたその女は真直ぐにこちらへやって来る。
 到着が遅れた事を詫びる女に、こっちも今来た所だと軽く受け流すと桔梗は緋勇に向き直って面白そうに笑った。

「たーさん、この人があたしの待ち人…花魁のお凛ってんだ。言った通りいい女だろ?」
「ああ確かに、素敵な姐さんだ」

 素直に頷くと女はカラコロとそれは綺麗に笑って見せる。
 今は化粧気の無い顔だが、その仕草そのものが艶っぽく気品に溢れている。少しも媚がない所が、またいい。

 縁というのは何処で繋がってるか分からないものだな、二度までも花魁と顔見知りになれるとは…。心の中で呟いた。

「ふふ…ありがとうよ。あんた桔梗姐さんのイイ人かい?」
「そう見える?」
「たーさん…調子にお乗りでないよ…。この子は緋勇龍斗。ちょいとした知り合いで、そんなんじゃないよ」
「姐さんてば照れ屋さんなのね…可愛いなぁもう…」
「可愛い?!」
「ふふふッ、桔梗姐さんを綺麗だっていう男は珍しかないけど、可愛いとはなかなか言うねぇ兄さん」

 素っ頓狂な声を上げる桔梗に、笑いを耐えかねたようにお凛が肩を奮わせる。
 緋勇はきょとんと目を見開いた。
 何で?と首を傾げてから、至極真面目に言い放つ。

「姐さんは可愛いよ。可愛くて、いい女だ」
「………」
「………姐さん、顔、真っ赤」
「ばッッ!馬鹿お言いでないよお凛!たーさんも悪乗りはその辺にしときな!」

 振られた…とわざとらしく眉を寄せる緋勇を敢えて視界に入れないようにつん、と顔を背けた桔梗は「それより、ほら!」言いながら布に包んでいた三味線を取り出し押し付けるように女に渡した。

「頼まれてた三味線だよ。反りを少し直しておいたから、大分よくなったと思うよ」
「ああ、ありがとう桔梗姐さん。何時も助かるよ」
「構いやしないさ。こっちも楽しんでるからね」
「姐さんがそうだから何時も何時も甘えちまう。何かお礼がしたいんだけどねぇ…」
「気にしなくていいって……そんな事より、ここいらで何か変わった事とかは起きてやしないかい?」
「ありがとう、でも特にはないよ。こんなご時世だし、お客が減ったって事くらいかねぇ…」
「そうかい…まぁ、困った事があったらどんな事でも相談おしよ?……て、たーさん?どうかしたかい?」
「………いや…」

 口を挟まずに大人しくしていると思った緋勇が、何処か一点を凝視している。声をかけても返ってきたのは生返事だった。
 桔梗とお凛がその視線の先を追うと表の通りに一人の女と数人の侍。どうやら女がぶつかって着物が汚れたと騒ぎ立てているらしい。見っとも無いねぇと眉を顰める桔梗が、その女のした咳に顔色を変えた。

「あの咳……」
「すまん姐さん凛殿、少し外す」

 低く呻くように搾り出されたその声に驚いて、一瞬反応が遅れた。
 その間に緋勇は驚くべき素早さで見世を出て行ってしまった。

「ちょ…、たーさん!」
「あの娘…萩原屋のお葉ちゃんだ…」
「お凛、知ってるのかい?」
「少し前までは人気の娘だったんだよ。器量はいいし、唄と三味線が絶品だって。でも今はあの咳の所為で客もつかないらしくて…」
「……切り捨てられたのかい…」
「…そんな所だろうね…」

 桔梗は形のいい唇をきゅっと引き結んだ。そして徐に立ち上がる。

「お凛、あたしももう行くよ。あんたも体には十分気をつけるんだよ」
「あぁ、姐さんもね…」









「ごほ…ごほッごほッ―――、あの―――ごほッ!」
「悪いね、少し我慢しててくれよ」
「あの…!移ってしまいますから…!」
「なぁに俺なら病の方から避けていくさ」
「そんな…げほ…ッ、」

 緋勇は女を抱えて歩いていた。
 見世を飛び出した緋勇は人垣を押しのけてその女を掬い上げた。酷く咳をする女に、汚らわしいものを見るような目を向けていた侍たちの罵声をものともせず、また一瞥すらくれずその場を後にしたのだ。
 足早に人気の少ない通りに滑り込むとさっと女を降ろし非礼を詫びる。

「少しここで落ち着くといい」

 安心させるように柔らかく微笑んで、女の隣に座り込む。
 女は未だに激しく咳き込んではいるが、その体は確かに温かかった。

 生きている。

 この人はまだ生きている。
 『前』に見た時と同じ、透けるような青白さだが、『あの時』には無かった熱が、今はある。
 その事に、酷く安堵した。

 女の背を擦ってやりながら龍斗は思う。

 止めてやれるだろうか。
 『あんな事』になる前に、彼女の心を止めてやれるだろうか。


「たーさん!」

「…よ、姐さん」


 声に振り向けば桔梗が立っていた。探し回ったのか、僅かに息が切れている。

「こんな所にいたのかい…まったく、急に姿を晦ますもんじゃないよ」
「悪い、人通りの多い場所にはいられなかったからさ」
「ああその娘だね、さっきの…」

 言いながら桔梗は懐から丁寧に畳まれた薬包紙を取り出し、女に差し出した。

「今は大分落ち着いてるみたいだけど、今度咳が出たらこれを飲むといい。一時的だけど、楽になる筈だよ」
「は…はい…ありがとう…ございます…」
「ああ、その三味線、弦が切れてるね。貸してごらん、直してあげるよ」

 桔梗は女から三味線を受け取ると予備の弦をそれに当てる。張り直した弦を軽く弾くと何とも澄んだ音が零れるように空気を奮わせた。

「…いい音だな…」
「ああ、いい声で鳴くもんだよ。年季は入ってるが物はいいみたいだし…あんた、大事に使ってるんだねぇ…」
「…私には、もう、その子しか残ってないから…」

 三味線を褒められた女は嬉しそうに、だがとても寂しそうに微笑む。今にも消え入りそうな、酷く儚い笑みだった。

「…そんな風に、笑うもんじゃない…」
「そうだよ。あんた、萩原屋のお葉ってんだろ。唄と三味線が絶品だって言うじゃないか。もっとしゃんと背を伸ばしなよ」
「…確かに、私は萩原屋のお葉と申しますが…、あの妓楼には…いえ、この吉原にはもう、私の居場所はありませんから…」

 肺を患った己は、唄も唄えず客もとれず、使い道のない壊れた道具だと。弦の切れた三味線と同じ、何の役にも立たずただ人知れず朽ちて行くだけの、物だと。
 諦め切ったように零す彼女の魂は色をなくし、既に現を離れかけている。


 これでは駄目だ。


 緋勇の内に、苦いものが過ぎった。
 このままでは、『同じ』だ。



「生きて、いるのに…」



 この人はまだ、



「ここにいるのに…」



 悲痛な声だった。
 女は不思議そうな顔をした。



「……ここに…?」



 それはまるで思っても見なかった事を言われたような驚きを含んでいた。

「…ここ、に、いますか。私…」
「いる。ここにいる。生きてる、ちゃんと、温かい」

 驚かせないように、壊れてしまわないように、そっと手を取って、優しく握り締めた。
 白い、とても細い手だ。
 だが確かに、切なくなる程、その手は温かい。

「…そう…私、生きて、るんですね…まだ、ここに…」

 ほんの、微かな力だったが。女の指が、確かめるように緋勇の手を握り返してきた。

「…ねえお葉。あんたは自分を弦の切れた三味線と同じだって言うけどさ、あたしはそれを直したじゃないか。この三味線は、死んじまったわけじゃない。ならあんたも同じだ。弦が切れたら張ればいい。あたしが、何度だって張ってやる。そしてあんたはまた唄を唄うんだ」

 きっと綺麗だ。笑う桔梗に、緋勇も頷く。
 呆然とふたりを凝視していた女の瞳に、僅かばかりの光が宿る。

「私…」

 虚ろだった女の声が、現実味を帯びた。


「私、唄を……唄を、唄いたい…」

「あぁ」

「まだ、ここに…いたい」

「ああ」

「生きたい」



 返事の代わりに。
 手を握る力を、少しだけ強くした。



 女が微笑む。



 綺麗な笑みだった。



「…ありがとう……私…誰かにそう言って貰いたかったのかも…私は、ここにいるって…認めて貰いたかったのかも…」
「…唄を、唄ってくれよ。聞きに来るから―――何度でも」
「―――はい…」

 目尻に光るものを浮かべ、それでも力強く頷いて見せた女に、桔梗は漸く安堵に似た溜息を吐き出した。

「ふふふ…やっとこの町の女らしい顔になったね。どれそういう事ならこの三味線、ちゃんと調整してあげるよ。一晩預かっても構わないかい?」
「あの…私、何のお礼も出来ませんから…、」
「礼ならひとつ、この三味線であんたが唄ってくれればいい。どうだい?」
「……本当に…何から何まで…」

 単なるお節介だよ、気にしなくていい。気さくに笑う桔梗は、じゃあそろそろ行こうかと緋勇に向き直る。

「じゃあ、明日の今くらいの時分に、ここで会うとしよう」
「あ―――、待って、名前を…是非お名前を…」
「あぁ、そういや、名乗ってなかったか」
「こいつぁ悪かったね、あたしは桔梗。こっちは――、」
「緋勇龍斗だ。―――明日、また会おう」

 女は口の中でふたりの名を反芻し、去っていく背中に向けて深々と頭を下げ、見送った。





 お葉と別れて表通りに戻った桔梗は少し後ろを歩く緋勇を振り返った。その顔が面白そうに笑っている。

「たーさんは、ああいう娘が好みなのかい?」
「はい?」
「通りで見かけて見惚れたんだろう?さっきもずっと優しくしてたじゃないか」
「あー。あーあーそういう事。いやいや特に好みってものはないけどさ、あの娘はね…ちょっと………昔、似たような娘がいて、その娘と同じような悲しい目をしてたから…ほっとけなかったんだよ…」

 それだけ、と言う緋勇に何だそうなのかい、と呆れたように息を吐く。

「…しかし、偶然っていうのはあるもんだね…」
「ん?」
「持ち合わせた予備の弦と薬に、弦の切れた三味線に病んだ女…」
「……姐さん…やっぱり彼女は…」
「………よかったよ、あんたがいて。あんたが、あの娘に優しい言葉を掛けてくれて。あんな昏い目のまま逝っちまうんじゃ、あまりにも可哀相だ…」
「………」
「さ、もう行こう。今度こそ帰らないと、夕餉に食いっぱぐれちまう―――、」
「あ、姐さん、前…」
「―――――お、…っと、ごめんよ」

 急に振り向いた桔梗は前から来る男の存在に気付かずに真正面からぶつかってしまう。よろけた桔梗を背中から抱き留めて緋勇は「あ」と声を上げた。

「面師の兄さん!」
「…君は―――、」

 桔梗がぶつかった相手は、隻腕の職人――――緋勇に付喪憑きの櫛を渡したあの男だった。
 破顔した緋勇に男も気付き、僅かに目を見開く。

「……本当に、使っているのか…その櫛」

 緋勇の髪を無造作に留めている櫛の存在に、男は苦笑した。

「だって折角貰っちまったしね。この姐さんにあげようかとも思ったんだけど、たまに足生えるし、どうも俺の頭の上を気に入っちまったみたいで」

 困り顔の割りにその声音は案外楽しそうで、桔梗はと言えば緋勇のその台詞に吉原へ来る前の騒動を思い出したのか、奇妙に顔を歪めて笑いを耐えていた。そして改めて隻腕の男を見る。

「いや、不注意でぶつかっちまって悪かったね。何処か痛くしてないかい?」
「…君も可笑しな女だな…俺のような者にそんな言葉をかけるなど…」
「これ兄さん、自分の事をそう卑下するのは止めなさいな」
「……人間の目というものは、ある筈の所にある筈のものが無いと不気味と捉えるものだと、認識しているがな…」

 俺の無い右腕が恐ろしくはないのか、と。男は不思議そうにふたりを見た。

「…無い筈の所に無い筈のものが生えてるより大分マシだと思うけど…って、痛ッ!」

 ぼやいた緋勇の頭上でまたしても櫛が足を生やして暴れていた。げしげしと小さな足で踵落としを繰り出す櫛に「お前の事だなんて言ってないだろう卑屈だぞ!」と喚き出すものだから、桔梗はまたしても笑いを堪えるのに失敗した。どうやらこの櫛の存在が桔梗のツボに入ったらしい。
 付喪神と同等に喧嘩する緋勇とそれを見て腹を抱えて笑う桔梗に、男は呆れたような吐息を零す。しかし「変わった奴らだ」と呟いたその顔は柔らかく微笑んでいた。

「…昨日も思ったけど、兄さんはホント、いい顔で笑うよなぁ」
「……笑っていたか…?」
「笑ってたよ。すげぇ優しいの」
「………」
「…たーさん、あんたが天然にタラシなのはよぉく分かった。けど男まで口説くのはお止しよ…」
「ええ?!嘘?!俺口説いてた?!」

 慌てて男に向き直る緋勇に、彼は肩を震わせた。口元を押さえて何とか笑いを耐えているようだ。

「なるほど…確かに君といると俺は笑えるらしい…全く、不思議な男だ…」
「………喜んでいいのか…否か…」
「ふふふッ、ねぇそういや、あんた名前は何て言うんだい?」
「…弥勒、万斎という」
「へぇ、いい名じゃないか!」
「弥勒かぁ…俺は緋勇龍斗。こっちの姐さんは桔梗だ。宜しくな」
「あぁ…」

 笑う緋勇の顔を弥勒と名乗った男はまじまじと見やった。

「君は、いい面差しをしているな…」
「え?そう?そうなの?」
「偽りの無い、生気に溢れた力強い面だ…」
「そ…そんなに見られたら照れちゃう…」
「…俺にもそんな面があればな…――――桔梗と……緋勇、といったか…君たちとは是非また会ってみたいものだ…」

 細工物の入用があれば遠慮なく声を掛けるといい。そう言い置いて男は去って行った。
 その背中を見つめつつ、緋勇はぽつりと呟く。

「ねえ姐さん。天然でタラシって、ああいうのの事じゃないの…?」

 見た?最後のあの優しげな笑み。

「……どっちもどっちだよ」

 て言うかあの兄さん、たーさんの事しか見てなかったじゃないか。
 桔梗の呆れ果てた声がいやに印象的だった。