交差





 小石川、井上屋敷前。
 神隠しの真相である井上重久を捕らえ、龍閃組は番所に向かう。
 だがその前に立ち塞がる、影。


「その男を渡しなさい」


 春とも思えぬ冷たい夜の外気に、凛とした声。
 闇に溶けるように立つ声の主は銀の髪を持つ切支丹だった。

 御神槌――――。

 龍閃組の面々が、口々に男の名を呟く。
 もういいだろう。
 あとは番所に任せればいい。
 そう言った龍閃組に、御神槌は冷えた笑みを浮かべた。

「貴方たちは、真実を知って尚、幕府を信じるのですか」

 あんなものは、信じるに値しない。
 低俗で愚鈍、浅墓で利己的にしか生きられぬ害虫のようなものだ。
 私腹を肥やす事に夢中になり、人の心を何処かに捨てて。
 あれを人と呼ぶのなら、我らは一体何者か。
 信じられるものか。
 信じられるものか。

 ああそうともこの世には、信じられるものなど何も無い。

 吐き捨てる。
 この世は泥と血と膿に塗れた救い無き闇の中だと。
 そこには神など決していないのだと。
 男は血反吐を吐くように。

「変なの」

 男の負の感情が渦巻くそこに、場違いな程軽い声がするりと割り込んだ。

「何も信じられないなら、お前、何でそんなに辛そうなの」

 声に影は無く。
 ただ本当に、ちょっとした疑問を口にしているようだった。

 男は答えない。
 答えられない。
 何かを言う為に口を開いても言葉にはならず、ただひゅうと空気が零れるだけ。
 その所為で呼吸が上手く出来ない。
 苦しくなって、胸に手を当てた。
 神官服を、握り締める。

 まるで心の臓を鷲掴みにするように。

 真直ぐに見つめてくる、黒い瞳が、何故か酷く恐ろしかった。
 その視線が、痛くて、苦しくて、ドクリドクリと脈打つ胸を、潰してしまいたかった。

 やがてふと、黒い瞳が逸らされた。
 いや、正確に言うと、伏せられた。
 その顔は優しく微笑んでいた。

「そんなの、信じたいものがあるからだろう?」

 口からは相変わらず、空気ばかりが零れ、言葉は音にならない。

「なのに、信じさせてくれないから、その思いが行き場を失くしてるんだろう?」

 五月蠅いほどに響く胸の鼓動に、男はぎゅっと眉を顰めた。
 口腔が、渇く。
 眩暈。
 頭に血が巡りすぎている。
 視界が歪む。
 耳鳴が酷い。
 地面は何処だ。
 空は何処だ。
 自分は何処だ。
 自分の足は、ちゃんと地面を踏んでいるのか。



「損な性分だね、お前、優しすぎるよ」



 崩れる。

 境界線は何処だ。
 身体は何処だ。
 心は、何処だ。

 胸にしまった黄金の玉が、妖しい光を、放つ。





『目醒めよ―――――』





 ああ、神などいない。
 信じるものなど、すべて無くした。

 今更希望など、見い出してどうなる。

 だってもう手遅れだ。
 闇に溶けよう。
 昏き声に耳を傾けて。








『目醒めよ―――――』








 さあ、鬼とならん―――――。




















「御神槌」



















 違う。





 この、声、じゃ、ない。



 こんなに優しい、声じゃ、ない。




「御神槌」




 こんな、闇の中から強引に引き摺り出すような。

 温かい声は、知らない。









「あ―――――――、」




「玉を渡せ、早く!!」









 地面。
 空。
 体。
 心。
 境界線。
 自分はここに。
 あれほど歪んでいた視界が、鮮明に、彼の顔を捉えた。
 そして体の異変に気付く。



「あ…あぁ、ぁ・ああア…ッ」



 ゴキリ、ゴキリと。
 骨と、肉が軋む音。
 男の体が、醜く変形していく。




 鬼。




 龍閃組が、息を呑む気配。
 その中で彼だけが、異形へと変化を遂げる男の身体に手を伸ばしていた。


「……あァァ……、」


 伸ばされる、腕。






 とりたい。









 すくわれたい。















 たすけて、ほしい。
















「あああああぁァァァァアアアアッッ!!!」









「大丈夫だ、御神槌―――」





 彼の手が、異形の腕に触れた。
 その腕の中にある黄金の玉に指を伸ばしたかと思うと、辺りを眩い光が包む。

 龍閃組が、彼の名を叫ぶ。
 だがその光は凄まじく。
 それに連動して生じた《氣》の渦によって立っているだけで困難。
 足と目を殺されたその状況で、彼らは揃って幻を見た。

 黄金の龍が、異形とならんとする男をまるで幼子をあやすかのように、包み込んでいる、光景。

 だがそれは一瞬で消えた。
 それこそ、夢か、幻であったかのように。
 やがて光と《氣》の渦が消え、そこに彼と、元の姿の男が現れる。
 互いに地に膝を付き、手を握り合うように黄金の玉に触れていた。
 男は呆然としたまま自分の身体を見下ろし、ゆるゆると視線を上げる。
 黒い瞳が、伺うように男を見ていた。
 視線が合う。
 ふわりと、柔らかく、黒い瞳が微笑んだ。



「大丈夫、もう、怖くないから」

「――――――ッ、」



 ああ、神などいない。
 救いなどない。


 ならば彼は、何者か―――――。



 不思議な人だ。
 男は呟いた。
 もしもあの時、彼のような人間がいたら。
 いて、くれたら。
 何も失わずに済んだだろうか。
 だがもう遅い。
 だってもう、後戻りの出来ない所まで来てしまった。
 身体は泥と、血で塗れ、肉の代わりに膿が蔓延る。
 ああそうとも自分は、同じだ。
 あれほど蔑んだ者たちと、同じイキモノだ。
 祈りなど、どうして捧げられようか。
 遠い。
 あまりに遠い。
 天にも、神にも。
 この声はもう二度と、届く事などないだろう。



「祈れ」



 ふいに、彼が言った。



「お前は、切支丹だろう」



 ならば祈れと。
 それがお前の役目だろうと。
 厳しい口調で言ってから、彼はまた、ふと表情を崩した。



「祈れ。そして、考えろ」


「………」


「考えろ。神様じゃない。お前は、どうしたい」



 祈っているだけでは駄目だと。
 彼は笑った。
 泣きたくなった。

「…祈れ、ない……こんな、私の声など…もう、届かない…ッ!」

 それは絶望だ。
 絶望の中からなど、何を見い出せよう。
 どうしたいかなど、分かる筈も無い。

 彼はことりと小首を傾げた。

「何で?届かない筈ないだろう?」

 心底不思議そうに、目を丸くする彼を見ていられなくて、男は俯く。
 彼の手が、乱れた男の銀髪に伸ばされた。
 優しい仕草で掻き揚げ、整えるように撫で付けながら、彼はやはり笑うのだ。




「こんなに綺麗な心持ってるお前の声が、届かない筈が無い」




 それは確信に満ちた言葉。
 一体その自信は何処から来るのか。
 呆気に取られていると、頬に冷たいものが降って来た。

 見上げれば、闇にちらつく、白い花弁。


「…雪―――――?」


 何故、こんな季節に…。
 呟くと目の前の黒い瞳が得意げに細められた。


「ほらな、届いた」


 こんなに優しい雪、滅多に無いぞ。
 嬉しそうに空を見上げる彼が、とても眩しくて。
 また視界が揺れた。
 男は焦る。
 揺らぐな。
 歪むな。
 彼の黒い瞳をもう少し。
 もう少しだけ。
 見ていたい。
 見ていたい、のに。

「御神槌―――、」

 子供のようにはしゃいでいた彼が、少しだけ身を屈め下から男を覗き込んだ。
 そして嬉しそうに口角を持ち上げる。

「何だ、出るじゃねえか」

「――――、」

「涙」

 つい、と男の頬を彼の手が滑る。
 彼の手はとても冷たくて。
 なのにとても温かくて。


 溢れ出るものの止め方など知らず、男は声を噛み殺して泣いた。


「それでいいさ」

 泣いてしまえばよかったんだ。
 馬鹿だな。
 そんな簡単な事、出来もしなかったのか。

 彼はその涙が止まるまで、あやすように何度も、何度も頬を撫で続けた。




























「………龍斗、さん……?」

 御神槌は蒲団の上に身を起こした。
 辺りを見回す。宛がわれた、自分の部屋だ。
 するりと蒲団を抜け出すと、寝巻きの上から神官服を肩に掛けて外へ出た。春とはいえ、夜はまだ冷える。
 吹き抜けた風に軽く身を竦ませて、御神槌は空を見上げた。

 月に薄い雲が掛かり、朧げに輪郭を暈している。

 まるで自分の記憶のようだ。
 先程見た夢を思い出す。
 夢。
 夢――――?
 夢、なのだろうか、あれは。
 あれほど、鮮明な。
 しかし夢でなければ、何だ。
 彼は、…龍閃組の中にいたあの、黒い瞳の彼は、確かに―――、

「あれ?御神槌?」
「え――――」

 飄々とした声に振り返ると、そこには今正に脳裏に思い描いていた人物がいた。
 先日鬼道衆の頭目である九角が連れてきた、新たな鬼。
 そして己の病んだ心を救ってくれた、恩人―――緋勇龍斗。
 咄嗟に、言葉が出てこなかった。

「どうした?こんな夜更けに」

 時は丑三つ。
 当然のように、見張りの下忍以外は既に眠りについている時間だ。

「あ……目が、覚めてしまいまして…散歩をと…」

 かろうじてそれだけ言うと、緋勇は微かに眉根を寄せる。まだ、魘されるのか。そう訊いて来た彼に慌てて首を振った。

「ただ………ただ、可笑しな夢を、見たのです」
「可笑しな?」
「はい…あの、怒らないで聞いてくれますか?」

 不安げに緋勇を見やる。
 彼は数度、目を瞬いてから銜えていた煙管を指の上で器用に回した。俺でよければ。安心させるように微笑む。
 そんな彼に安堵の息を零し、御神槌はぽつぽつと語り出した。

「以前、私の記憶に、知らない誰かがいると、言いましたよね…」

 夢の中で会った。
 名前も、顔も分からない、誰か。
 何処で会ったのかも、本当に実在するのかも分からなかった。
 ただ優しく、何処までも温かく。
 緋勇と同じ事を言った、誰か。

「その誰かが…貴方だったんです…」

 そう、確かに。
 同じ事を言って、同じように自分を諭して。
 同じように涙を拭ってくれた。
 けれど―――――、

「けれど夢の中の貴方は、……鬼道衆、じゃ、なかった…」

 違う。
 きっと違うんだ。
 夢の中の黒い瞳の彼と、目の前の彼は別人なのだ。
 ただ、彼と同じ事を言うから、記憶が混乱しただけだ。
 夢の中の彼が、彼であればいいと、思ってしまっただけだ。

「龍閃組――――だったんです…」

 声が震えた。
 自分はどうかしてしまったのか。
 よりにもよって、彼が。

 敵である夢を見てしまうなんて―――――。

「………ッ、」

 言ってしまってから、後悔した。
 何て事を。何て夢を見てしまったのだ。何故それを口に出してしまったのだ。
 これは彼に対する裏切りではないのか。

「すみません!やっぱり忘れて………龍斗さん…?」

 あまりの申し訳なさに恥じ入り、慌てて取り消そうと顔を上げると。
 これでもかというくらい目を見開いた緋勇と視線が絡んだ。
 口に運んでいた途中だったのだろう。煙管が中途半端な位置で止まって、吸われる事無く煙になっている。
 だがどうにも様子が可笑しい。
 怒っているとか、呆れているとか、そういう表情ではないのだ。

「あ…あの…?」

 恐る恐る声を掛けると緋勇ははっと我に返った。
 しかし尚の事挙動が可笑しくなっただけだった。目を泳がせそわそわと落ち着かない様子で煙管を銜える。意味を成さない唸り声を上げながら乱暴に髪を掻き回したり、何かを考え込むようにしゃがみこんだり。

 緋勇にこの奇妙な行動を取らせたのは自分の発言なのだと、御神槌は申し訳なさで凹みそうになった。
 もう一度、謝罪の言葉を口にしようとした正にその時。
 しゃがみこんでいた筈の緋勇ががばりと立ち上がり、その勢いのまま御神槌の身体を抱き締めたのだ。

「……ッ?!!」

 突然の事に目を白黒させる御神槌に構わず、力一杯その背を抱き締める。
 そして一言、ありがとうと。
 小さな声で呟くと、泣き笑いのような表情で身体を離した。

「ありがとう、お前のお陰で、希望が見えた。俺は、大切なものを取り戻せるかもしれない」
「龍斗さん…それは、どういう…?」
「今はまだ、秘密だ。その内話すよ、絶対」

 お前の見た夢の謎も、その時には解けるだろう。
 緋勇は笑って、御神槌の髪をくしゃりと掻き回した。

「だから安心してお休み」

 良い夢を――――。
 それだけ言うと緋勇は御神槌に背を向け、足取り軽く九角屋敷へと戻っていった。

 御神槌はただ立ち尽くし、その背を見送る他無かった。
 緋勇の姿が見えなくなって、何の気なしに、空を見上げる。

「あ…………、」

 雲が、晴れていた。
 夜の闇に、切り取ったかのような、白い月。

 結局、謎が深まっただけのような気もするが、それでも先刻まで胸に痞えていた薄い霧のようなものは無くなっていた。
 不思議なものだ、彼に話を聞いてもらっただけなのに。

 彼の触れた自分の髪に指を伸ばし、微かに笑う。
 お休みなさい、良い夢を。
 呟いて、自室へ戻る為に歩を進めた。







三話後日談。
記憶の交差。
巻き戻しと繰り返しは似て非なるもの。