異端<3>





 事の真相を確かめて戻った彼らの表情は、一様に重たかった。
 緋勇の言う『推測』が、悉く当たっていたのだ。
 村に戻り、事の次第を九角に報告した九桐たちは、直ぐにでも打って出るべきと言い募ったが、一番の当事者である御神槌が姿を消した事により、今現在も、蹈鞴を踏むに留まっている。

「あの時御神槌を追いかけた緋勇は何をやってたんだよ!」
「あのねぇ…あんだけ追い詰められた奴に、追い討ちをかけろっての?あの時のあいつは、きっと何を言っても聞けやしなかったよ。ひとりになりたいって言ったから、してやったまでだ」
「だけどなぁ!」
「澳継、その辺にしておけ。しかし緋勇、我らはこれ以上は待てん」

 既にあれから、三日が経過している。
 これ以上は、無駄な犠牲が増えるだけだ。

「ああ、分かってる」
「うむ」

 九角は立ち上がり、高らかに言い放つ。

「小石川小日向、留守居具足奉行井上重久を討ち取る!!」
「はッ!」
「それには勿論、私もお連れくださいましょうね、御屋形様」
「御神槌!」

 す…と、音も無く障子が開いた。
 闇に溶け込むように神官服を纏った男が、そこにいた。酷く冷たい気を放ちながら、御神槌は膝を折る。
 そして告げる。

 大蛇の呪いを解放した事。
 蛇の呪いによる病を蔓延らせた事。
 己が術が解けぬ限り、その病は治らぬ事。
 これにより時と共に人々の怨みの念は高まり、江戸は遠からず幕府を支えきれなくなるであろう事を。

 その成果に喜び、賞賛を送る嵐王と裏腹に、九角は何も言わずにじっと御神槌を見据えていた。
 御神槌は先程から、一度も顔を上げていない。様子が、明らかに可笑しい。だがそれでも、ここで御神槌を追求する事は、九角には出来なかった。

「……よくやった…が、俺を信用するなら、これからは俺の指示を待て」
「………はッ、」
「では御神槌、改めてお前に命を下そう。お前は下忍を率い、幕府の子役人、井上重久の首を取れ。その他の者は俺に続け。囚われの者を解放する」

 行くぞ。
 鋭い声が闇を切り裂いた。













 井上屋敷前にて二手に分かれた後、御神槌は迷う事無く母屋へと向かって行った。
 だが途中で、何かに気が付いたように足を止める。

 振り返ると、いない筈の男がいた。

「緋勇さん………どうして…」

 緋勇は九角と共に囚われた人々の解放に向かった筈だ。
 なのに、何故。

「何故…付いて来たのです…」

 不思議な人。

「私が、どのような男なのか知った上で何故、付いて来たりしたのです」

 本当なら、彼にだけは、知られたくなかった。
 切支丹たちの心が、とても綺麗だと笑った彼には。

 こんな自分を、見られたくなかったのに。

「それは、哀れみ―――ですか…?」
「どうして、そう思うんだ」

 問う声は、やはり何処までも優しい。

「どうして俺に、お前を哀れむ事が出来るんだ…」

 その優しい声音に、初めて、苦渋の色が紛れた。
 はっとして、顔を上げる。

 緋勇は真直ぐに、御神槌を見ていた。
 その瞳に捉われて、視線を逸らす事が出来なくなった。

「なぁ、昔、こんな男がいたよ」

 瞳は、真直ぐに御神槌を捉えたまま。
 緋勇はゆっくりと、言葉を紡ぐ。

「信じられるものなど何も無いと、吐き捨てるように呟いた男だ」
「………」
「そいつは、すごく、辛そうな顔をしてた。可笑しな話だと思わないか?何も信じられないなら、何で、そんなに辛そうな顔をする必要がある。そんなの、信じたいものがあるからだろう?」
「――――、」
「なのに信じさせてくれないから、その想いが行き場を失くしてるんだろう?」
「――ぁ…、」
「全く、損な性分だぜ、お前やっぱり、優しすぎるんだよ」







『損な性分だね、お前、優しすぎるよ』







「――――あ、なたは、一体…何者なんです…どうして…どうしてあの人と同じ事を!」



 何処かで、留めていたものが、弾けた気がした。



「私の記憶に知らない誰かがいるんです、名前も、顔もわからない!何処で会ったのかも、本当に存在するのかもわからない誰かが!貴方は彼と同じ事言って、私を惑わせる………お願いだから…笑わないで…」

 自分は怒りに任せて大蛇を呼び出した。
 罪無き、力も無い人たちを犠牲にした。
 そう、怒りに任せて。
 後戻りの出来ない遠くまで、来てしまった。

 この手は既に、血塗れだ。

 汚い。
 汚い。
 汚い。
 こんなに、も。

「…見ないで……緋勇さん……」

 だってもう神には祈れない。
 祈りを捧げるには、あまりに神から遠い。
 この声はもう、天に届く事はないだろう。

「こんな私が、優しい…? こんな私に、何が残っていると…?」

 汚れたこの手に。
 汚れたこの魂に。
 一体何が。

 何も残ってはいない。
 何もない。
 すべて失くしてしまった。
 すべて投げ出してしまった。
 己の手で、すべて。

 壊してしまった。

「もう、何も、戻らない」

 だって消えてしまった。
 愛しい人たちも、帰るべき場所も。
 だって、壊れてしまった。
 祈っても、祈っても、駄目だった。
 そして今度は。
 自分で、壊した。
 壊して、しまった。

 どうすれば、よかったのだろう。
 どうすれば、間違わずに済んだのだろう。

 暗い闇が怖い。
 己の中の、闇が怖い。



 たす、けて。



 神様。

 否。
 神は助けてなどくれない。
 叫んでも、叫んでも。
 どんなに切に、想い、願っても。

 ああこの世に、救いなどない。

「………たすけ、て……」

 手など、差し伸べられない。
 救いなど無い。
 悲しくなるだけだ。
 どんなに手を伸べても。
 届かない。
 届かない。
 決して。

 それでも、祈ってしまう。

 たすけて。

 神様。
 見も知らぬ、優しい貴方。



「……龍、斗…さん…」



 呻くように。
 それは、最後の希望の名だろうか。



「助けて欲しいなら、手を出せ、御神槌」



 凛とした声に、顔を上げればそこに、強い瞳。
 揺らぐ事の無い、とても綺麗な。

「手を出せ、御神槌」

 真直ぐに、差し伸べられた、腕。
 導かれるように、怖々と上げた手を、掬い取るように、握られた。

 強く、ああ何て、温かい――――。

 振り払われない。
 この手は。こんなにも力強く、己の叫びに、応えてくれた。
 言葉よりも、何よりも。
 その温かさが、伝えてくれた。

 すべてを失くしてなんか、ない。
 この手は、こんなにも、温かい。




「失くしたんなら、繰り返さない努力をしろ」

「引き返せないなら、新しい道を作れ」

「神の存在が遠いなら、届くまで、叫べ」

「怖かったら…不安だったら、手を出せ」

「大丈夫…お前は、」

「お前は、ひとりじゃないから」



「………ッ、」



「ああ、ほら。やっぱり流せるじゃねぇか、涙」




 言われて初めて、自分が泣いている事に、気付いた。
 枯れ果てたと、思っていた。
 流す涙など、疾うの昔に。

「馬鹿だな…お前」

 ああ本当に、大馬鹿だ。
 泣いてはいけないと思っていた。
 本当に泣きたいのは、虐げられながら、死んで逝った同胞たちだから。
 生き残った自分は、泣いてはいけないのだと。
 そうする事で、罪悪感から、逃れようとしていた。
 本当は。



 何時だって、声を上げて、泣いてしまいたかったのに―――――。




「あああああああああァァァ…ッ!!」




「あぁ、泣け泣け。泣いて全部吐き出しちまえ」

 縋りついた身体はとても温かくて。
 背中をさする手はとても優しくて。
 切なくて。
 嬉しくて。
 子供のように、泣いた。

 ありがとうと何度も呟きながら。
















「緋勇、こっちだ」

 屋敷の中の一部屋から、赤い髪が覗いた。
 小さく手を挙げて、こっちへ来いと招いている。
 足音も無く駆け寄って、その手に己のそれを打ち付けると状況を訊ねた。
 どうやら外から分かる場所には、人を捉えて置けるような場所はないらしい。今は手分けをして隠し部屋の入り口を探している所だと簡単に説明される。

「まったく、振り返ってお前がいないのに気付いた時は胆を冷やしたぞ」
「そいつはどうも、ご心配をおかけしまして」
「……御神槌を、追ってくれたんだろう。礼を言う…」
「いらん。それは俺に失礼だと思わんか」
「ふ…そうだな。だが、言っておきたかった。俺には、出来ぬ事だったからな」

 龍斗の様子から、御神槌はもう大丈夫だろうと、思わされる。
 優しすぎるが故に、壊れてしまった彼の心。
 この男は一体どうやって、その傷を癒したのだろう。いや、もしかしたら、癒したわけではないのかもしれない。この男はただ、在るがままを、受け入れただけなのではないか。
 それはとても簡単そうに思えて、酷く難しい。
 だがこの男には、それが出来るような、気がした。不思議な男だ。つくづく思う。

「若、緋勇」

 声に振り向くと、奥で九桐が手招きしていた。

「見つけたか」
「はい、ここですね。どうやら地下へと続いているようです」

 恐らくはそこに…と続ける九桐に、九角は軽く頷き桔梗と風祭を呼ぶ。すぐさま駆けつけるふたりを確認し、緋勇の頭をくしゃりと掻き回した。

「何すんの?!」
「我らには我らのなすべき事がある、行くぞ」
「だから何で頭を?!」
「ほら来い」
「おい?!」


 薄暗い階段を降りると嫌に黴臭い牢獄に辿り着いた。
 やはり、牢の中には大勢の人。

「当たりだ、さっさと済ませちまおう」

 見張りがいるのも気にせず飛び出した緋勇に、負けじと風祭も続く。驚いた見張りは逃げ腰になるも、切り札があるのか逃げ出そうとはしない。その見張りに「先生」と呼ばれた、酔っ払いのような男。
 百鬼妖堂と名乗ったが、呂律が回っていない為はっきり言って聞き取れない。

「ぬあき?」

 と、風祭が聞き返したのも無理も無い。
 ナキリと名乗り直した酔っ払いは実に口惜しそうだ。

「ああもう何でもいいから早く来いよ。ひーちゃん現在上機嫌にご立腹なんだ。今なら特別大盤振る舞い手加減無用の大鳳を拝ませてあげよう」

 鼻歌でも歌い出しそうな満面の笑みを浮かべながら、物騒この上ない事をのたまう緋勇に逆切れする百鬼。味方である筈の見張りの兵を斬り殺して、狂ったように襲い掛かって来る。
 救いようが無い。
 緋勇は嘆息すると風祭の後ろに立った。

「な、何隠れてんだ?!」
「隠れてるんじゃないよ。いい位置に移動しただけ」
「は?!」
「ほれ来るぞ小僧っこ、蹴り上げろ!」
「な?!」

 直進して来る百鬼の鳩尾を、風祭は思わず条件反射で蹴り上げた。蛙の潰れるような声を出して、その身体が宙に浮いた、その一瞬。

「よけろよ小僧っこ!!」

 予告通り。
 一筋の炎が緋勇の拳から炸裂した。

 叫び声を上げる間も無く。
 百鬼は消失した。
 後には、難を逃れた見張りが残されるばかり。それももう、完全に自我を手放しているようではあったが。

「何だこれ」

 ひらり、と舞い落ちたのは、ヒトガタの紙。
 式神だ。
 それも、陰陽師が使うような上品なものではなく、衰退して久しい『呪禁』という技であるらしい。
 陰陽道に重なる部分を多く持ちながら、他のどの呪術より即物的であるが故に、腐った権力者に好まれ、何時しか政治の道具に成り下がり、やがてはその生来の意味を見失って消えていったと言う。
 その呪術と先の酔っ払いを照らし合わせて、ああなるほど、と風祭は盛大に納得していた。
 失礼だが、的を得ている。

「てか小僧っこ、いいから早く牢を開けてやんなよ」
「は? 何で俺が…お前がやればいいじゃねえか」

 ぶつぶつと文句を言いつつも牢を抉じ開けに掛かる風祭。
 根はイイコだ…と緋勇はしみじみ思った。

 そして、その牢を開けた途端。

「どぁぁあああああああ?!」

 我先にと溢れ返る人々。
 波に飲まれて風祭の姿が消えた。
 龍斗は南無、と両手を合わせてそれを見送る。

「たーさん…あんた、これがわかってたから…」
「小僧っこなら何とかするだろ。さ、俺たちも撤収しようぜ」
「…………」

 信頼しているのか、単に薄情なのか。
 意見に別れるところである。















 井上屋敷から少し離れた人通りの少ない通り。
 そこが合流場所だった。九角たちが駆けつけると、そこには既に、神父の姿。

「御神槌!」

 己を呼ぶ声に、背を向けていた男がゆっくりと振り返る。

「御屋形様―――龍斗、さん……私、私は……」
「井上は、つまらん男だったろう?」

 苦笑を滲ませた緋勇の声に、御神槌は顔を上げた。
 しかし直ぐに俯くと、小さな声でポツリと呟く。

「…はい…悲しいほどに…」

 その言葉に、緋勇は御神槌が井上に止めを刺さなかった事を察した。九角も、然りである。

「首を取れと言った俺の言葉、よもや忘れたわけではあるまい」

 ビクリと、御神槌の肩が跳ねた。顔を上げる事も叶わず、俯いたまま御神槌は地に膝を付く。
 硬い声で言った。

「二度に渡る命令違反、最早お許しを頂けるとは思っておりません。私にはもう、鬼道衆を名乗る資格はない……貴方とて、そう思うでしょう? 龍斗さん…」

 悲しそうに、だが覚悟を決めたように。

 緋勇にも同意を求めて、そこで漸く顔を上げるが、思ったよりも近くにあった男の顔に驚いた。
 膝を折った御神槌に合わせるように、隣に並んでしゃがみ込んでいたのだ。その至近距離から、御神槌の顔をじっと見つめている。

「あ…あの……?」
「さっき、俺が言った事、覚えてる?」
「は、はい…」
「握る?」

 目の前に、ひょいと差し出された、手。
 決めた筈の覚悟が、揺らいだ。
 一緒に涙腺まで緩む。

「…………はい…」

 震えないように、手を差し出すのがやっとだった。
 だがその返答に緋勇は満足気に微笑むと、先と同じように力強く御神槌の手を取り、立ち上がる。勢いに任せて、彼も一緒に引っ張り上げた。

「―――ッ?」
「怖がんなくて平気だぞ、御神槌」

 空いた片手で御神槌の帽子を奪い、楽しそうに笑う。
 突然の事に面食らう御神槌に構わず、緋勇はその帽子を同じように呆気に取られている鬼の頭目に放った。

「別に旦那は怒ってるわけじゃねぇよ。ただ自分で、お前に何もしてやれなかった事を悔しがってるだけさ。あの阿呆を殺さなかった事が、お前が自分の中で出した答えなら、旦那は文句なんて言わねぇよ。なぁ?」

 最後は、御神槌の帽子を手に目を剥いている九角に対する言葉である。
 九角は帽子と緋勇を見比べ、その意味に気付いた途端、堪えかねたように苦笑を零した。要するに、何時までも怖い顔をして御神槌を脅かすな、という意味らしい。
 この男には敵わんな、と心の中で呟いて、そんなふたりに歩み寄る。

「御神槌……今回お前は、酷く辛い思いを、しただろう」

 手の、届く位置で立ち止まって。まるで叱られるのを待っているような顔で俯いている御神槌の頭に帽子を被せた。

「皆、お前を案じていた」
「……御屋形様……」
「お前が無事でよかった」
「…………ありがとう、ございます……」

 堪え切れなくなった雫が、頬を伝う。
 一度泣いてしまったから、箍が外れてしまったのだろうか。次から次へと溢れてくる涙は、留まる事が無い。

 御神槌はただ、静かに泣いた。

「あ。旦那が御神槌泣かせた」
「……俺の所為か?」
「よしよし、怖くないからなー」
「緋勇……」

 冗談めかして御神槌を抱き締める緋勇に、困り顔の九角。抱き締められた御神槌はその様子が可笑しくて、こっそりと緋勇を抱き締め返しながらくすくすと笑みを零した。
 傍観に徹していた残りの三人は三者三様。
 呆れ返るやら微笑ましげに見守るやら訳が分からないと首を捻るやら。

「で、御神槌はこれからどうするんだ? お前は、どうしたいんだ?」

 ちょい、と肩口に掛かる銀の髪を引っ張って、訊く。

 資格が無いとか。
 そんなものは関係なく。
 お前は、どうしたいのだと、緋勇は訊いた。

 顔を上げた御神槌には、もう迷いなどなかった。




「はい―――私は…赦されるのなら、私はまだ、鬼道衆の一員として、戦列に加わりたい…」





 血塗れた夢を拭い去るように。
 優しく微笑んだ誰かの顔が。

 今の私には、貴方に見えるから。






「私の心を救ってくれた、貴方と共に」