異端<2>





 内藤新宿。

 夜の内に探索を済ますべく、二手に分かれる事になった。
 一方は、最も多くの神隠しが起こっている小石川に、九桐と御神槌。もう一方、神田明神近辺の坂には桔梗と風祭。

「緋勇はどうする」

 普通に考えれば、大の男二人連れに加わるよりも、女子供に付き添った方がいいのだろう。
 だが、男は迷わなかった。

「小石川だ」

 何時ものらりくらりとした口調である緋勇の、思いの外強い言葉尻に桔梗と九桐は僅かに首を捻る。だが何か問い質す前に、風祭が何時ものように吠えた。

「そっちの方が人数多いからって、手ぇ抜くなよ!」
「………寂しいなら正直にそう言ってごらん小僧っこ」
「だ、誰がだ馬鹿野郎!!」
「おお怖い怖い。行くぞ坊主、神父!」
「やれやれ……」

 まだ何事かを怒鳴っている風祭を無視して男は身を翻し、それを追うように九桐と御神槌も小石川へと走り出した。

 残された桔梗はひとつ溜息を吐き、唸る風祭を引き摺って目的地へと急ぐ。
 そんなふたりを追う影が、ひとつ。














「ここらはもう小石川か…」
「そうですね」

 九桐の呟きに、御神槌が相槌を打つ。
 極めて小さな声だったが、周りに音が無い分、それは随分と大きく聞こえる。
 人通りは無い。
 小石川は寂しい場所だと。夜ともなれば、人は殆ど通らないのだと。そう言った御神槌の顔は酷く強張っていた。顔色も、悪い。

「神父」

 前を行く緋勇が、足を止め振り返る。

「少し、休憩するか? あまり長くいたくはないかもしれんが、無理をされるよりはいい」
「いえ…大丈夫です。すみません、ご心配を…」
「そんな事はいいんだよ。本当に大丈夫か」
「はい…先を急ぎましょう」
「…………」

 まだ何か言いたそうな緋勇の前を御神槌は行く。
 怪訝な顔をしている九桐と目が合った。

「切支丹屋敷って、知ってるか、坊主」
「何―――?」
「あの…有名な島原の乱、あんなのは、切支丹が受けた迫害のほんの一部だ」

 本当の地獄は、その先にあった。

 あの後でさえ、揺らぐ事は無かった切支丹の信仰。人々は主を篤く尊び、己の信仰と、その先にある神の国を信じていたからだ。

「人間ってのは、難儀な生き物でさ、理解できないものには恐怖と嫌悪を抱くもんだ」

 三代将軍家光は、その典型であった。
 切支丹を理解せず、また理解しようともせず。ただ只管の弾圧を命じ、そしてそれは実行された。

「弾圧…違うな、あれは狩りだ」

 そう人々は、狩られたのだ。

「その指揮を取ったのが、切支丹宗門奉行井上筑後守正重」
「井上――――?」
「あぁ、この辺りはな当時、その男の屋敷があったんだそうだ」
「そうです、それが、切支丹屋敷。悪鬼であるその男の所業は、そこで行われたのです」

 背中越しに、振り向きもせず、御神槌は付け加えた。その声に熱は無く、ただ淡々と、静かなものではあったが。滲み出るのは、嫌悪と、憎悪。
 渦を巻くように御神槌を取り巻くのは凄惨なる負の波動。

 緋勇はその神官服の端をがしりと掴み、その歩みを止めさせる。

「何です―――、」
「だから、この小石川も、井上って名前も、お前にとって禁忌なのは分かる。だけどな、お前、今どんな顔してるか自分でわかるか?」
「…………」
「ハラワタ煮え繰り返ってるのは、お前だけじゃないんだぜ」
「…………すみません…」
「謝らなくていい。焦らなくても大丈夫だって、言いたかっただけだ」
「……はい…」

 まだ顔色は悪いものの、幾分普段通りの表情に戻った御神槌の頭を軽く叩いて、緋勇は歩みを促した。
 そんなふたりのやりとりを眺めていた九桐は小さく笑う。

「まるで緋勇は精神安定剤だな」
「は?」
「人の心を落ち着かせる。大した才能だ」

「本当に…不思議な人です、貴方は…」

 話していると、己の中に燻る毒々しい感情が溶かされる心地。
 浄化とは少し違う。
 す、と何かが染み入るのだ。

 隣で怪訝な顔をしている緋勇に、知らず微笑が零れてしまう。

 不思議なものだ。
 先程までのドロドロと渦巻いていた黒い感情が、優しい風に攫われてしまったかのようだった。。

「………」

 御神槌は一度大きく深呼吸をした。
 長く息を吐いて、顔を上げる。

「この先に、小石川診療所があります。幕府の数少ない善行のひとつで、恵まれない人々の為に開かれた診療所です」

「ふむ…そこで何らかの情報が得られるかもしれんな」
「はい、行きましょう」




 暫く歩くと、木々の向こうに微かな明かりが見えた。
 なるほど人の気配が急に多く感じたのは、診療所の中にいる病人たちのものであるらしい。
 明かりも常に、絶やさぬようにしているようだ。

「あれが、小石川診療所…」

 質素な建物だ。
 その出入り口らしき所から、この診療所には不似合いな男が出てきた。三人の部下らしき男たちを従え上等な羽織を着た、見るからに頭の悪そうな肥えた侍である。
 見送りに出てきたらしい診療所の人間に、わけの分からない事を言って絡んでいる。

「下っ端では話にならない」
「今度あの先生がいる時に来る」
「居留守は赦さない」
「揃わない玩具」
「とんだ恥曝し」

 数々の言葉を残して、太った侍はその場を立ち去った。

「何だ、奴は……」
「血の臭い……あの男から血の臭いがしませんでしたか?」
「血―――――?」
「そこにいるのは誰だ!!」

 大声でこちらを威嚇してきたのは、先の侍に付き従っていた三人の男たちである。こちらも随分頭が悪そうだ。
 御神槌の格好を見るや否や卑下た笑いを浮かべ、その切支丹を渡せと詰め寄ってくる。

「く……くく…クックック…」

 低く、低く笑う声。
 声の主は、今まで黙ったままじっと地面を睨み据えていた緋勇であった。

「何だこいつ、笑ってやがるぜ」
「恐怖に可笑しくなっちまったんじゃねえか? 切支丹を匿ってるとあっちゃあ同罪だからな」
「おいこいつらまとめて踏ん縛れば、井上様に褒美でも貰えるんじゃねえか?」



「おい、てめえら、その腐った耳かっ穿ってよく聞きやがれ…」



 その声色は、一言で言い表すのなら、「壮絶」。

 地を這うような、とはこういう事を言うのか。
 御神槌が目を見開き、九桐がじりりと後ずさった。
 男たちに至っては、品のない笑いを浮かべたままの表情で凍り付いている。

 無情にも、緋勇は続けた。

「俺は今非常に機嫌が悪い…一度だけ言う…死にたくなければ知ってる情報吐き晒してとっとと帰れ」
「な、何をぅ…」

 そして無謀にも。
 逃げ腰涙目ではあるが男たちは忠告を聞き入れなかった。

 形のいい緋勇の唇が、恐ろしいまでの弧を描き。
 前髪で隠れていた獰猛なる眼光がギラリと男たちを捕らえた。

「一度だけだと言った筈だ…運がいいなぁてめぇら…俺の秘拳拝めるなんてよォ…」
「ぎゃあああああああ殺されるぅぅぅううううう!!」
「ま、待て緋勇!!殺るなら先ず話を聞いてから―――」
「どうせ殺んなら今も後も同じだろうがよ!!」
「いや全然違うだろう!どうしたんだ一体!」

 先に御神槌を宥めていた男と同一人物には思えない。
 実に危険な精神安定剤である。
 ぐるるるるると獣のような唸り声さえ上げる勢いで緋勇は歯を剥いている。

「おいお前たち、しゃべった方が身の為だぞ、俺も何時までもこの暴れ馬を押さえておける自信はないからな」

 その言葉通り緋勇を羽交い絞めにしている僧侶の形相はかなり本気だ。
 誰が暴れ馬だ!と吼える緋勇にお前以外に誰がいる!と応戦中。
 そんな緋勇と男たちの間に滑り込むように立ちはだかったのは御神槌であった。

「知っている事、話して頂けますね?」
「は、はひッ!!」

 三人固まって縋り合うように凍り付いていた男たちはその静かな声音に背筋を伸ばす。
 逆らったら、間違いなく後ろの猛獣に殺られる。
 男たちはなけなしの本能でそれを感じ取っていた。

 御神槌は、あの侍についてを訊ねる。
 恐怖に取り憑かれた男たちは実に素直に口を割った。

 小石川小日向、留守居具足奉行井上重久――――。

 それがあの侍の素性である、と。自分たちは雇われて、雑用や使い走りをしていると続けた。しかし、あの侍が一体何をしているのか、そこまでは本当に知らないらしい。
 どうやら本当にただの下っ端だったようだ。

 緋勇が噛み付かない内に、早く行けと御神槌は言い捨てた。
 走り去って行く男たちに不満そうな顔を隠しもしない緋勇を宥めながら九桐は一度村に戻ろうと提案する。
 大した情報も得られなかった。
 桔梗たちの報告に期待する他ない。

「…………」

 緋勇は憮然とした表情のまま、その言葉に従った。
 酷く悔しげに、拳を握り締めてはいたけれど―――…。




















 翌日。
 九角屋敷で件の報告が行われていた。
 座敷にいるのは、九角、桔梗、九桐、風祭、嵐王、そして緋勇である。
 御神槌は朝の祈りを済ませてから合流する事になっている。
 九桐と桔梗の報告はどちらも似たり寄ったりで、結局大した成果にはならなかった。
 ただし、神隠しが人為的なものである事。
 そしてそれがやはり「井上」という人物に結びつく事だけは確かなようだ。
 しかし目的が分からない。
 人を攫ってどうするのか。
 攫われた人々はどうなったのか。

「さて……もう少し探りを入れる必要があるか…」

 顎に手を当て、思案する九角に、若、と嵐王が呼びかけた。
 己からも報告したい事があると言う。聞くところによると、嵐王は昨夜、緋勇たちと別れた桔梗たちと合流をしたらしい。
 先の桔梗の報告から、抜けていた部分を補足する、と。

 それは桔梗が見い出したという、類稀なる『呪い溜り』。
 過去、人によって殺められた大蛇の怨恨の念であると言う。

「この大蛇の怨みの念を使いまして、出来れば儂に一策、若に献じさせて頂きたく思いますが」

 その場所を見い出したという桔梗は、ずっと苦い顔をしていた。風祭も、珍しく大人しくしているが僅かに眉根が寄っている。そのふたりの表情に、九角は一瞬目をやるも、勝算ありという嵐王の言葉にその件は任せる事にした。

「では引き続き、桔梗たちは小石川への探索を―――…」
「旦那」

 そこで。
 座敷に上がってから今に至るまで一言も発しなかった緋勇が、重々しく口を開いた。
 全員の視線が、腕を組んだまま固く目を閉じる緋勇に注がれる。

「どうした、緋勇」
「今から俺が言う事は、あくまで俺の推測なんだが…」
「だから何だよ、勿体ぶってねえで早く言いやがれ」
「小僧……、大人しく聞け」
「な…ッ!」
「澳継、座れ。緋勇、お前の推測を聞こうか」

 九角に制されて、風祭は渋々ながらもどかりと腰を落ち着けた。桔梗も九桐も、じっと緋勇の言葉を待つ。
 座敷に、ぴんと張り詰めた空気が流れた。
 緋勇はゆっくりと目蓋を擡げる。

「始めに、俺の知識の中の、腐った奴の話をしよう」

 その名は、切支丹宗門奉行井上筑後守正重。
 彼の切支丹狩りの指揮を取った男の、呪われた名だ。この男の行った所業は、あまりに残虐であった。人を責め苛む事に愉悦を感じ、またそれを生き甲斐とする。切支丹制圧という当初の目的を見失い、ただ如何に人体から苦痛を引き出すかという事に夢中になった。
 それは正に地獄である。

「恐らくその所業は書に記されただろうな」
「それが、何だって言うんだ?」
「小僧、井上重久は、その腐った輩の子孫だ」
「………」
「ほぼ断定されてるが…仮定として、その井上重久が、神隠しの真相だとしよう」

 そうすると、見えてくる事がある。
 あの侍―――井上が、何を言っていたか。
 組み立てて、繋げて、導き出した答えは―――…。

「坊主、お前も聞いたな。あの豚は、診療所の前で『玩具が揃わない』と言っていた」
「あ、あぁ………まさか――――!!」

 ひとつの、大きな、そして醜悪な、仮定。

「まさかあの男―――――切支丹の代わりに病人を…!!」
「そう考えれば、辻褄が合うって事だ」

 だとすれば、本物の切支丹である御神槌を見た手下が目の色を変えたのにも納得がいく。
 それに、そう。例えば病人であるなら、捕らえるのに苦労はいらない。死んだ時の、言い訳も立つ。
 例えば、あの侍が。
 人の行とは思えぬ拷問の数々を記した書を、見つけていたとしたら。
 例えば、あの、悪鬼の血を引く侍が。
 神隠しの真相で、あるならば。

 すべての仮定が、成り立つ――――。

「ッ外道が!!!」
「何てこったい…確かに、どうも信憑性のあり過ぎる仮定だよ…ッ!」

 その時カタンと、戸が鳴った。
 皆が一斉に振り向く。
 立っていたのは御神槌であった。青い顔が、酷く強張っている。御神槌はすぐさま踵を返すと、耐えかねたように走り出した。

「御神槌!」

 咄嗟に立ち上がった九角を、緋勇の腕が制す。目を見開く九角に構わず、九桐に目配せをすると立ち上がった。

「そっちは頼むぜ、坊主」
「!了解した」

 力強く頷く九桐を確認すると、緋勇はすぐに御神槌の後を追う。

 昨日自分を抑えたように、残った面子を上手く御せ、と緋勇は言いたかったのだろう。彼の思いに、九桐の中にさえ湧き上がった憤りの念が抑えられていく。

「若、我々は今一度小石川に赴き、事の真相の裏づけを取りたいと思います」
「そんな七面倒臭い事してねえで、さっさと井上って野郎をぶっ殺しちまえばいいじゃねえか!」
「確証がいる。風祭、鬼道衆は、憶測では動かん」
「ぐ…!」
「そうだな……尚雲の言う通りだ。では、頼むぞ」
「はッ!」














「神父」
「緋勇さん…私は、昔ね、この村よりも、もっと小さな山村で宣教師をしていたんです」

 御神槌は空を見上げていた。
 その背中が、微かに震えている。
 泣いているのか。
 否。
 泣けずに、苦しんでいるのか。

 背中越しに、御神槌は続けた。

「町からは遠く離れ、娯楽など何もないような、静かな村でした」

 だがそこには平穏があり、暖かな営みがあった。とても、裕福とは言えずとも、人々は神の教えを護り、神の存在を心の支えとして、信仰より齎される安寧に満ちた日々を送っていた。
 その頃の自分は、神の存在を確かに、そして身近に感じていたと、呟いた。

「それが…あの日……」

 近くの村へ布教に出かけていた自分を待ち受けていたのは。
 火をかけられた村の変わり果てた姿と、そこに繰り広げられる、地獄絵図だった。
 男たちの怒声、女たちの悲鳴、子供たちの泣き声。
 そのすべてを蹂躙しながら押し進む侍の群れと、あとはただ只管の、血の色。

「そして、私自身も、幕府の者に押さえつけられ、私と村人たちの罪状とやらを突き付けられました」






 異端―――――。






「それが、徳川が私に押した、消える事の無い烙印です」

 何故…。
 自分が何をしたと。
 村人たちが、一体どんな謀をしたと。
 御神槌は叫んだ。

 自分たちはただ、生きていた、だけだと。
 ただ静かに―――。

「薄れていく意識の中で、私は幾度も繰り返しました」



 神は何故、私たちを救ってはくれないのか―――――。



 こんな事が赦されるのか。
 何故この世の中は、こんな事を赦しているのか。
 神は、すべての者を見守っているのではないのか。
 
 何時も、そうだ。
 神は、何もしてはくれない。
 祈っても、祈っても、祈っても、祈っても。

 血を吐くように、祈り続けても。

「神は……」

 声なき慟哭が聞こえる。
 悪夢であればよかった、現実。
 血の色の夢は、何処までも、何処までも纏わり付いて、離れない。
 離してはくれない。



「神は本当に……おられるのか……」



 疑っては、いけないと思っていた。
 長い間、ずっと。
 疑う事すら、罪なのだと。

「お前は、祈るだけ?」
「…………」
「祈って、その後、どうするんだ?」

 静かで、ただ穏やかな声が、呟く。
 責めるでもなく。
 諌めるでもなく。
 答えを、求めるものでもなかった。

「神様じゃなくて、お前は?」

 その声は。

「お前は、どうしたいんだ?」

 その声はただ、優しくて。

「緋勇…さん……」

 身体が、震えた。
 これは、恐怖、だろうか。

「………な、い…で……」

 不思議な人。

「…見ないで、ください………」

 とてもとても、不思議な人。




 見も知らぬ、優しい貴方。
 どうか私に微笑まないで。

 こんなに惨めな、私を見ないで―――――。




「すみません…暫く…ひとりにしておいてください………」












 俯く御神槌の手元で、黄金色の玉が妖しく光っていた。