身を、切り裂くような絶叫に、飛び跳ねるように目を覚ます。
 肩で繰り返す、荒い息。
 背中には、冷たい汗が伝っていた。
 何の事は無い。
 あれは己の慟哭であった。

 そこは酷い地獄だった。
 繰り返される拷問に、人の心を捨てた虐殺。慈悲は無く、ただ無情。人の姿をした何かが、狂ったように叫んでいる。
 もっと苦痛を。
 もっと恐怖を。
 もっと絶望を。
 紡がれる、血の色の夢。
 否。
 闇の色の現。
 ああいっそ狂ってしまえれば。
 狂ってしまえれば、どんなにか、救われるのに…。

 解放されたい。
 悪夢であればよかった、凄惨な現実。この身の内で燻る、醜い復讐の心。消える事は無い、同胞への罪悪感。

 何時になれば、この枷は、外れるのだろう。
 否。
 否、否。
 この身が安寧に包まれる日など、終ぞ訪れはしないのではないか。

「……主よ…」

 天にまします我らが父よ。
 どうか。

 どうか―――――…?



「―――――?」



 ふと、心に引っかかる、何か。
 呼ばれた気がして、顔を上げる。

『祈って、どうする』

 誰かが微笑んだ。
 とても遠くで。

『神様じゃない』
『お前はどう、したいんだ』

 誰かが。
 遠くで。
 誰。
 微笑んでいるのは。
 血塗れた夢を、拭い去るように。
 優しく、微笑んでいるのは。
 誰。



『損な性分だね、お前、優しすぎるよ』



「貴方は誰―――――――ッ、?!」

 手を、伸ばしても。
 その誰かはとても遠くて。

 届かない。
 届かない。
 届かない。

 ああ………。

 差し伸べた手が、悲しくて。
 何も掴む事が出来ない代わりに、砂を噛むような思いで、拳を握った。
 爪が食い込むほど。
 もどかしくて。
 もどかしくて。
 泣きたくなるほど、切なくて。

 だが涙は出なかった。

 ああ、流す涙など。
 疾うの昔に枯れ果てた。

 見も知らぬ、優しい貴方。
 どうか私に微笑まないで。
 こんなに惨めな、私を見ないで―――――。













 異端<1>












「ふわ……ぁ……」

 盛大な欠伸をひとつ。
 そんな緋勇の背後から呆れたように、だが何処か楽しそうに女が笑った。

「どうしたい、たーさん。もしやあれから眠れなかったとか?」

 桔梗である。
 緋勇は彼女を振り返り、げっそりした顔で溜息を吐いた。

「あれってどれ…?小僧っこが寝惚けて俺に踵落としを食らわそうとした事?それとも寝言で猪とマダコが襲ってくると叫び出した事?それでなかったら小僧っこが元気な寝相で壁を蹴飛ばした途端天井の一部が降って来た事?」
「…………天井が…」

 それは天戒様に報告しておかないとねぇ…と桔梗は額を押さえる。

「そうじゃなくて、あの悲鳴だよ」
「……あぁ、あれね」

 真夜中、闇を切り裂くような絶叫が、響いた。
 その時緋勇は廊下に出てぼんやりと煙管をふかしていたのだが、悲鳴に驚き煙管を傾けてしまい、うっかり零した灰が見事足の甲に直撃して、逆にこちらが悲鳴を上げたい衝動に駆られたものだ。じたばたしていると今のように背後から桔梗が現れて、苦笑に顔を歪めながら静かに言った。
 あれは悪夢に囚われる、悲しい男の叫びだと。

「御神槌…だっけ?」

 その名を口にするのに、緋勇は一瞬、目を細めた。
 だがその変化に、桔梗は気付かなかったようである。

「そう、たーさんはまだ会ってなかったね。丁度いい、天戒様があんたと御神槌を呼んでるんだ。紹介してあげるから、一緒においでよ」
「リョーカイ。ねえ、どうでもいいけどあんたのトコロの御屋形様は随分人遣いが荒かないか?」
「それだけあの人はたーさんの事を買ってるのさ」
「………鬼諸君よ…もっと警戒心を持ってくれないか…僕ぁ心配だよ…」
「あっはっは! 安心おしよ、あたしらは人を見る目は確かなんだ」

 まだ不満気にしている緋勇の肩をばしりと叩き、桔梗は早く歩くように促した。
 連れて来られたのは、礼拝堂の近くの広場である。皆が集まる井戸の傍。人垣の中心に、黒い神官服を纏った男が立っていた。
 桔梗と緋勇は少し離れた場所から、それを見やる。
 あの男が、御神槌。
 桔梗が言い、緋勇は曖昧に相槌を打つ。

 主は、自ら助く者を助く。

 神父は村人に対し、主の教えを説いていた。
 凛と背筋を伸ばした立ち振る舞いは優雅でいて繊細。村人たちに向ける穏やかな笑みはまるで包み込むように柔らかく、対する村人たちも、神父に向ける心も顔も真剣で、緋勇は小さく微笑んだ。

「たーさんは、やっぱり切支丹に理解があるんだねぇ…」

 何時の間にか神父ではなく自分に向けられていた桔梗の視線に、はっと我に返る。

「何よ突然」

 自棄に嬉しそうに笑っている桔梗に、照れるじゃないのとおちゃらけて言えば更に笑われた。
 照れ隠しの照れた振りは失敗に終わったようだ。

「おやおや…たーさんは案外照れ屋なんだねぇ」
「…………」

 ごほんと咳払いをひとつ。
 尚も笑い続ける桔梗に観念したように両手を上げた。

「俺はね、無神論者なのよ。でもだからといって、神様を否定するわけじゃない。信仰って自由でしょ。人の心も、自由。無神論者は、そのすべてを否定するだけの存在じゃいけない筈なんだ」

 例えば、真っ向から神を否定するならば、それは単なる批評家だ。信じる者の心を蔑ろにするのは、誰にだって、許される事じゃない。
 無神論者とは、神を信じぬ者の事ではなく、神に祈らぬ者の事を言うのだと、緋勇は言った。

「俺は、人が好きだよ。弱いけど、とても強い。そして何か、信じるものを持ってる人は、とても綺麗」

 それは、別に切支丹に限った事ではなく。
 ただ純粋に、その心が。

「大事なものがある人は、とても綺麗。俺は、それが好きなだけだよ」
「そう思ってるだけで、十分じゃないかい? ねぇ御神槌?」
「はい、とても、嬉しく思います」

 穏やかな声に振り向けば、先まで村人に囲まれていた筈の神父が直ぐ傍らにいた。
 どうやら村人たちへの説教は終わり、既に解散した後のようである。
 声と同じく穏やかな顔で微笑んでいた男は緋勇と目が合うと流れるような仕草で頭を下げた。

「初めまして、御神槌と申します」
「あ。えーっと…初めまして。緋勇、龍斗。宜しく」
「ああ、やはり貴方が…こちらこそ、宜しくお願い致します」

 ぺこり。
 ぺこりと。

「ねぇ、お見合いじゃないんだから、しゃんと顔上げな」

 埒が明かないと判断した桔梗は呆れたように手を打った。それもそうだと顔を上げた二人の視線がまたぶつかる。微妙に複雑な顔をしている緋勇に、神父は不思議そうに小首を傾げた。

「あの…何処かでお会いした事はありませんか…?」
「へ? いや、ないない!」
「そう……ですよね。すみません。私の勘違いです。村の人たちがあんまりにも貴方の事を口にするから、もう随分知っている気でいたようです」
「あー、あれかい? たーさんの事を神の御遣いだとか何とか」
「うげ」
「ふふ、それですよ。嫌ですか?」
「嫌…つーか、柄じゃなさすぎるんだよ…」

 心底困り果てたように額を押さえる緋勇に、ふたりは楽しげに笑った。桔梗などは、気持ちは分からなくも無いとか何とか言いつつも物凄く他人事として楽しんでいるようだ。薄情な。

「貴方は、とても不思議な雰囲気を持っている…だから自然と、人が集まるのでしょう」
「そうだね。それに、たーさんは人目を引くからねぇ」
「俺ってばそんなにイイ男? いやーん照れちゃ〜う」
「あっはは、直ぐ調子に乗るんだから」
「ふふふ…、ああ、そういえば、私に何か御用があっていらしたのでは?」

 すっかり忘れていた当初の目的。桔梗ははたと手を打って、天戒様が呼んでるんだと御神槌に告げた。

「御屋形様が…ではすぐに行きましょう。ここを片してから追いかけますので、先に行っていて下さい」
「じゃあ、あたしらは一足お先に向かおうか?」
「あー…、俺片すの手伝うよ」

 気にしないでくれと遠慮する御神槌に、二人の方が早いと緋勇は笑う。元々押しに弱い性格なのか、神父は案外あっさり言い負かされて申し訳無さそうに微笑んだ。

「では、少しだけ、お願いしますね」
「あいよ。姐さん、旦那に宜しく」
「はいな。じゃあまた後でね」
「ほんじゃ神父、ちゃっちゃと片付けて俺たちも行きますかねぇ」

 遠ざかって行く桔梗に手を振りつつ、神父を振り返り、また笑う。
 暖かくなる笑顔だと、神父は思った。こちらまで微笑み返したくなるような、そんな笑みだと。それがあまりにも穏やかに心へと染み渡るものだから、聞いてみたくなった。

 貴方は、神を信じますか。

 無神論者だと言う彼に。
 一体どんな答えを期待しているのか。

 男はきょとりと目を瞬き、小首を傾げながら至極あっさりと答えを口にした。

「信じるけど?」

 ああやはり。
 この人は自分の知らない目線から物事を見、自分の知らない答えを持っている。
 神父は何処か羨望にも似た眼差しで男を見た。

「『汝の隣人を愛せよ』という言葉があります」
「ああ、うん」
「……貴方には、その意味が、分かりますか…?」

 男は片付けの手を止めて、真直ぐに見つめてくる神父に視線を移した。
 縋るような目とは、こういうものなのだろうかと。
 気付かれないように苦笑する。
 そして言った。

「神父、俺は、聖人君子じゃない」

 こちらを見つめていた神父の表情に、す、と影が落ちた。
 構わずに、続けた。

「だけど…、そうだな。もし、そんな奴がいたら、大事にしたいって、思うな」

 自分には、出来ないけど。
 出来ないから。
 出来る奴が、いたら。
 いるとしたら。

「愛しいって、思うなぁ」

 それじゃ駄目?と顔を覗き込めば、酷く驚いた様子。
 可笑しくなって、笑うと、神父の顔にも笑みが戻った。

「貴方は本当に不思議な人だ…」
「……それ、褒められてんの…?」
「勿論ですよ」
「褒められてる気がしないんだけどー…」







 広場で片付けを済ませて。九角屋敷に出向いたのがそれから間も無くの事。
 座敷には主である九角を始め、九桐、桔梗、風祭が揃って待っていた。

「お待たー。来たぜよ旦那」
「お待たせ致しました」
「遅いぞお前ら! 遊びじゃねぇんだぜ? わかってんのかよ」

 着いた早々、元気な少年に怒られた。
 風祭はどうやら緋勇の姿を見たら喧嘩を売らずにはいられない体質らしい。本当に飽きない小僧っこだとは、緋勇の弁である。

「御神槌、忙しい所、悪いな」

 今回の件は、お前にも縁の深い事だろうからなと、座敷の奥に座る男が言った。
 そこで緋勇はその鬼の頭目の隣に普段はない影を発見する。

 一度会った。
 嵐王である。

 今日は先ず、彼からの報告があるとの事であった。
 曰く。
 長年の研究の成果、「式神羅写」なるものが完成した。らしい。

「…………………………」

 渡されたその紙の、何と馴染みのある事。
 背中に、妙な汗が滲んだ。
 緋勇の思考が何処か遠くへすっ飛んでる隙に、鳥面の職人はその使用法、そして原理などを切々と、そして熱く語っている。
 目の眩むような既視感が…。

 陰陽道の式神を原点とした、式神羅写。
 ただしそれは神を喚び出したり、呪術で命を与えたりというものではなく、科学の力を使った一種の武器なのだと言う。
 ヒトガタを模した紙は、様々な映像を記憶し、それを大気中の塵や埃に投影する事が出来、更にこの羅写は、ある特殊な薬品などを染み込ませる事により強力な光や熱を生じさせ云々かんぬん。

 この、何度聞いてもよくわからない説明にも痛いほど覚えがある。

(こいつ…やっぱり……)

 頭痛。つーか寧ろ、胃痛。
 脳裏に、もうもうと煙を噴き上げる彼の場所が、鮮明に浮かぶ。

「嵐王は自分の研究の事となると人が変わったように饒舌になるな」

 ああつまり誰も理解してないぞって事を言いたいのか。
 緋勇は心の中で九角に向かって喝采を送った。

「さて、そろそろ本題に入ろうか」

 そうしてくれと、嵐王以外の誰もが思ったに違いない。

 そうして入った本題は、何とも解せがたいものだった。
 江戸で流行り出した神隠し。
 老若男女問わずあちらこちらで消える人々。
 それが世間では鬼の仕業と言われているらしいという事。
 手探りの情報を掻き集めると、必ずひとりの男に結びつく事。

「井上、重久―――――」

 その男が鍵である。

「井上と言う名、切支丹にとっては禁忌の名であろう…御神槌」
「……は」
「桔梗たちと行動を共にし、お前も一緒に探ってくれ」

 己の眼で、真実を見極めよと。
 言い放ち、鬼の頭目は鬼道衆に命を下す。



「昨今の神隠しとその井上某との関連を探り、必要とあらば九角天戒の名の下に処断せよ」








 そして影が、動き出す。