外法 <1> どたどたと騒がしい足音が近付いてくる。 その音はその部屋の前で止まり、間を置かず物凄い勢いで障子が開かれた。 「おい! 新入りのクセに何時まで寝てやが――――…あれ?」 現れたのは道着に身を包んだ小柄な少年…風祭澳継である。 彼は朝の鍛錬が日課であった。 この日も朝早くから起き出し、山に篭って汗を流していたのだが、ふと。蒲団を抜け出す際、同室の男を起こさないように気を遣ってしまった事に腹が立った。 何で俺が―――――。 尤もである。 男は先日この鬼哭村の主に拾われて(としか言いようが無い)来た者で、名を緋勇龍斗と言う。 すらりと背が高く、その顔立ちは精悍でいて端整。健康的に陽に焼けた鍛えられた体躯に、艶やかな黒髪がよく栄えている。 加えて言うなら彼、風祭は緋勇が嫌いだった。 何が、何処がという事ではない。ただ気に食わなかった。背が高いのも人を小馬鹿にしたような態度も主への対応も。 そして己と類似した無手の体術を使う事への対抗意識。 もう何から何まで気に食わないのに何故自分がこの男に気を遣わなくてはならないのか。そんな自分に腹が立って、件の男を叩き起こしてやろうと躍起になって部屋に戻ったわけである。 が。 つい小半時程前までは頭まで蒲団を被って丸くなっていた物体がそこにない。それどころか使っていた蒲団はきっちりと畳まれて部屋の隅に重ねられている。以外に律儀な性格らしい。いやそんな事は問題ではない。 「あいつさては俺がいなくなるのを見計らって…!」 「こっそり抜け出したんじゃないかって?」 「そう……うわぁああ!!」 「いかんなぁ小僧っこ。頭上が隙だらけだぞぅ?」 「おおおおおおま、お前そんな所で何やってんだぁぁぁああ!!」 「む? 何ってお前、鴨居にぶら下がって瞑想をしていた所だ。見れば分かるだろう」 「わからねえよ!! いやそれ以前にぶら下がる必要性はあるのかよ!!」 「ちょっとした遊び心じゃないか」 「意味わかんねぇ!!」 両手で自分の髪をぐしゃぐしゃと掻き回す風祭に、件の男はあくまで表情を崩さず肩を竦めた。 因みに逆さにぶら下がったままである。 「小僧っこは朝から元気だねぇ」 「うるせぇ! 小僧って言うな!! あーもう!!」 風祭はなにやらとてつもなくもどかしげに地団駄を踏むと、あと小半時程で朝餉だから遅れるなを言い捨てて来た時同様足音荒くその場を後にした。 「…うるさいのはどっちよ…」 その後姿を呆れた顔で見送って、緋勇は鴨居を蹴る。 音も無く畳みの上に降り立ったと同時に何処からか忍び笑いが聞こえてきた。 開いたままの障子から顔を覗かせるとそこには予想通り赤い髪の男がいて、肩を震わせ懸命に笑いを噛み殺していた。 「おはよ旦那」 「あぁ、おはよう。具合はどうだ?」 九角天戒。 赤髪の男の名である。 鬼哭村の主にして、江戸を騒がす鬼の頭目。 その実体は相当なお人好しだと緋勇は踏んでいる。 現に、今のこれもそうだ。体調が思わしくなかった新参者の事を本気で心配している。更に言うならその看病にまで駆けつける始末。 「お陰さまでね、昨日にはもう熱も引いてたし、完全復活〜」 「そうか…ならよかった」 「さて。んじゃ着替えて顔でも洗ってくるかな。旦那は先に行っててよ」 起き抜けの猫のようにぐ、と背を伸ばす男に九角は笑って頷いた。 「おや、たーさん、朝飯そんなもんで足りるのかい? 遠慮するんじゃないよ?」 朝餉の席についた早々、緋勇の膳を覗き込んだ桔梗が心配そうに訊ねる。他の面々より、随分と量が少ないのだ。 「あぁ、いいのいいの、俺ってば小食なのよー」 給仕の姉ちゃんに減らしてくれるように頼んだのだと緋勇は笑った。 「そうかい? ならいいけど…」 「まぁ…昨日まで臥せっていたのだ。無理に喰うのも体に悪い。だが…あまり喰う気がせんのであればもっと消化のよい物を作らせようか…?」 「平気平気。出された物を有難ーく喰いますよ」 ぱんと手を合わせて箸に手を伸ばす。 それを合図に食事が始まった。 「そういえば、今日はこれからどうするんですか?」 暫く必死に(まるで欠食児童のように)膳を掻き込んでいた風祭がふと箸を止めて九角を見る。それに答えるように九角も箸を止め、少し考えるような仕草をした。 曰く、甲州街道に放った参番隊と連絡が取れないとかどうとか。 「よもや幕府の隠密にでも嗅ぎ付けられたのではないかとな…」 「そうだねぇ…幕府も血眼になってあの女を捜してる…可能性がないわけじゃないね」 「生きてるかどうかも分からない女を捜すなんて物好きなもんだよな」 「坊や……あたしらの目的のひとつもその女だって事、忘れてるんじゃないだろうね」 「そりゃ分かってるけどよぉ…」 そんな面倒臭い事どうして俺らが…とブツブツもぐもぐ風祭は非常に忙しない。 九角はそんな彼を尻目に暫しじっと思案し、緋勇に問う。 「緋勇、お前は《菩薩眼》というものを知っているか?」 「…………」 見据えてくる鬼の頭目の視線に、す、と瞳を細め。 知っている。低く答えた。 菩薩―――広く衆生を救済する為に地上に遣わされた仏神。 菩薩眼とはその菩薩の御心と霊験を持つ女の事。そしてその眼を持つ女はこの大地の伴侶と言うべき宿星を持ち、その求めに応じて変革を行う覇者の傍らにて衆生に救済を与えると言う。 古来より、覇道を望む者の間に連綿と語り継がれてきた伝承である。 《菩薩眼》の女を手に入れし男、地上の覇者となれり。 「そして唯一、《器》を産む事の出来る女の事だろう」 「ほう…そこまで知るか。では鬼道については知っているか?」 「えーっと…あの卑弥呼が使ってたっていう奴、だっけ?」 既にこの国より失われて久しい呪術。 邪馬台国を統べる卑弥呼が使っていたとされる外法。 鬼道とは本来道教における神や霊魂の通り道を差すものだが、外法としての鬼道とは、その道より霊界・神界と接触を持ち、その力を得、利用する事を目的とした呪術である。 「何か…俺はあんまり好きじゃないけど」 「ふむ…しかしこの国から姿を消したと言っても過言ではないこの呪術を知るとは…ますますお前の正体がわからなくなったな」 探るように眉を顰めるも、その目は楽しげに笑っていて。緋勇は肩を竦める事でその視線を受け流した。 「―――ここに、二冊の書がある」 そう言って九角が懐から取り出したのは古びた表紙の二冊の書。 掠れ、読み辛くなってはいるものの、その表紙にはしかと記されていた。 ―――――鬼道書 一方には、《陰》、もう一方には《陽》と書き込まれている。 「これって……もしかして卑弥呼が書いたって言う…?」 そうだ。と九角は頷いた。 陰の鬼道書には反魂・厭魅など陰術の全てが――― 陽の鬼道書には練丹・占術など陽術の全てが記されている。 その外法の術を使い、卑弥呼は永い間邪馬台国を支配してきたという。 「九角家は代々この鬼道書を護り受け継いできた。書だけではなく、そこに記された外法と共にな」 この鬼道書に記されている《菩薩眼》とその《力》。 それを受け継ぐ女を手に入れる事は鬼道衆の重要な目的のひとつでもあるのだと九角は語った。 「…………」 「どうかしたか、緋勇?」 「や、別に」 「じゃあ今日はとりあえず、町に降りて情報収集かね」 「ああ頼む。ついでに町の様子も探ってきてくれ。幕府の動きも気になる」 「はいな」 ああそれと、と鬼の頭目は付け加えた。 「桔梗は緋勇に村を案内してやってくれ。ただし病み上がりなのだ。無茶はさせぬようにな」 「あはは、そうだね。じゃあ町へ行く前にぐるりと回ろうか」 「ではその間暇だろう澳継。滝の祠の掃除でもしてもらえるか」 「ええ?!」 「ふふ、しっかりおしよ坊や」 「くそー…」 「そう不貞腐れるなよ小僧っこ。ほれ、俺の魚やるから」 「こ、こんなもんで誤魔化されねえぞ!!」 言いつつもしっかりと魚を確保している風祭に、その場を明るい笑いが取り巻いた。 「あすこのお山が双羅山、その手前に夜氏之杜、で、あっちには那智滝がある。滝壺は兎も角その周りは案外穏やかな水流になってるから、夏になったら泳ぎに行くのもいいかもね」 双羅山は日光の男体山――二荒山、 那智滝は熊野三山の大瀑布――那智の滝、 夜氏之杜は蔵王権現に縁ある霊山・吉野山が頂…吉野森を模したものだと言う。 それらは強力な霊場と同じ名を勧請する事により魂を宿したもの。つまり言霊という呪によってこの地に結界を張っているのだそうだ。因みに現在風祭が掃除に向かっているのは那智滝の傍にある小さな祠である。 ぶつくさ文句を言いながらも御屋形様に逆らえず渋々掃除道具を担いだ背中を思い返して緋勇は小さく笑った。 だがその一角、異様な《氣》の流動を感じた緋勇はぴたりと足を止める。 「ねぇ姐さん、あの奥には何があるんだ?」 彼が指差した方角には獣道のような荒れた道が一筋。 茂みを掻き分けながらでないと通れないような道だ。 緋勇の意識はすうと吸い寄せられるようにその奥に向かっていた。 「あぁ、あの奥には洞窟があるのさ。鬼岩窟って言ってね、その昔、人に追われた鬼が逃げ込んだと言われてる。その底は黄泉の国に通じているとも言われてるよ。まぁ何せ陰の氣だらけだ。普通の人間じゃあ、近付いただけで参っちまうからね。修行するにはいいかもしれないけど……ま、あまり近寄らないのが利口ってヤツさ」 「ふうん……」 「さて、じゃあ村の中に戻ろうか。他の鬼道衆の面子も紹介したいからね」 とは言っても気難し屋が多いから、無難なところは二箇所だねと桔梗は礼拝堂と工房を例に上げた。 「…………礼拝堂……」 「おや礼拝堂が気になるかい?」 「……神父…が、いる? そこに」 「そりゃあねぇ、切支丹の礼拝堂だから、いるさ。御神槌っていう、穏やかな奴だよ。そんなに気になるならそっちから行こうか?」 「ああ、行く。宜しく」 「はいな」 切支丹と聞いても気後れしない男の態度が気に入ったのか、桔梗は嬉々と頷く。 この村は陽の下を追われた人間の隠れ住む場所。幕府により迫害され続けた切支丹も、この村では普通に生活をしているのだと桔梗は得意げに胸を張る。 礼拝堂は九角屋敷の、比較的近くにひっそりと佇んでいた。中に入ると数人の村人が大きな十字架を前に熱心に祈りを捧げている姿が目に入る。その内の一人が、桔梗とその後ろに立つ緋勇の存在に気が付いた。 「桔梗様…!」 「悪いね、邪魔しちまったかい」 「いいえ、お祈りは丁度終わった所ですから」 村人は桔梗の後ろできょろきょろと礼拝堂の中を見回す…正確には何かを探しているような緋勇をちらりと見やった。 「あの…そちら、緋勇様…ですよね」 「え?! 俺の事?! って…………様?!」 よほど馴染みのない響きなのか男は軽く身震いしてじりりと後ずさる。だがそれは叶わなかった。そのまわりを村人たちにぐるりと囲まれてしまったのだ。 (ななななな何事?! 私刑?!!) 内心厭な汗を流しながら軽く錯乱していると何故かがっしりと手を握られた。 「…………は?」 「先程話をしていたのです。貴方は主がこの村を救う為に遣わした使者なのではないかと!」 「……………………………………はぃ?」 「そいつは…また随分大仰だねぇ」 「いいえそんな事はありませんとも! 人とは違うあのお力!」 「それにあのお言葉も!」 「己の利しか考えていなかった私ども恥じ入る思いであります!」 「あれぞ慈悲の御心…感動致しました!」 「……………………………………………………………………ぇっと…あの……に…ッ、逃げます!!!!」 「逃げる?!!」 「あ! 緋勇様!!」 「あぁ…行ってしまわれた…」 緋勇は正に脱兎の如く人々の合間を擦り抜けて礼拝堂から姿を消した。そのあまりの慌てっぷりに残された桔梗はこれでもかというくらい笑い転げた。 残念そうに男の出て行った入り口を眺める村人たちにまた何時か連れて来ると約束をして桔梗も礼拝堂を後にする。 礼拝堂から少し離れた広場で、桔梗は緋勇を発見した。 そう、正に発見。 それは子供たちの群れの中に在った。 「…………何やってんだい、たーさん…」 「…………見て分からんかい、姐さん…」 「あー、桔梗さまだぁー!」 「桔梗さまだぁー!」 見て分かる範囲で解釈すると、要するに子供の玩具になっている。体中に子供を貼り付けて動くに動けない状態であるらしい。 「なぁ所で神父は結局いなかったのか?」 「ねぇねぇ緋勇さまぁ炎出してよーあの時みたいにボォーッって!」 「うん布教活動で出かけたんだってさ」 「カッコよかったよなーアレ!」 「そうか……」 「出して出してーー」 「あんたもしかして御神槌を知って…」 「ねぇ緋勇さまってばー!」 「ええい喧しいジャリども!! 離れろ離れろ! 団子にたかる蟻かお前らは!!」 「……蟻…」 「えーケチ!」 「ケ、ケチだとぅ?! 心外だ! 懐豊かなこの俺を捕まえて?! 食うぞお前ら!!」 「きゃははははは! こわーい!」 ばばばっと払い除けられた子供らは楽しそうに笑いながらそのまま何処かへ走り去ってしまった。 静かになった広場に、脱力した緋勇と面白そうに顔を歪めた桔梗だけが残る。 「たーさん、子供が好きなのかい?」 そう問い掛けると龍斗は実に珍妙な顔をした。 そう見える?と、ありありと顔に書かれている。 「見えるさ。だって大人たちからは逃げたのに、子供からは逃げなかったろう?」 「あぁ……まぁ、ね。嫌いじゃないけど、子供は怖いよ。よくも悪くも正直だから」 「……?」 「さて、神父もいなかった事だし、挨拶は今度にして……もう一箇所案内してくれるんだろう?」 「あ、あぁ、そうだね、じゃあ嵐王の工房に……」 「呼んだか?」 「おや嵐王」 声のした方を振り返ると不思議な姿をした男が立っていた。 鳥面に黒の外套。 不思議というより、正直に言えば不気味ないでたちだ。 「何処かへ行く所だったのかい?」 「那智の滝にな、実験に使う水を汲みに行く所だった」 「じゃあちょっとだけ足止めさせて貰うよ。たーさん、こいつがさっき言ってた嵐王さ。九角家に代々使える忠臣にして腕利きの職人、って所かね。からくりや、色んな…何て言ったかな…科学?の研究をしてるんだ。あと呪術にも詳しい」 「お主が、緋勇龍斗殿、か――わしが嵐王…この村で工房を営んでおる職人だ。見知っておくがよい」 「…………」 「たーさん?」 緋勇はずいと鳥面の前に身を乗り出した。 驚いたように目を見開いて、仮面の上から、その男をまじまじと観察する。 「ど、どうかしたのかい?」 尋常でないその様子に桔梗は慎重に声を掛けるが。その声に我に返ったのか緋勇は数度、目を瞬いて苦く笑った。 「いや、知り合いに似た声だったから、吃驚しただけだ。悪かった、気を悪くしたか?」 「いや、構わぬよ」 「そうかよかった。名乗り遅れた、知ってるようだけど、俺が緋勇龍斗だ。宜しく、からくり師」 「からくり師?」 「あ、嫌か?」 「ふ…構わぬ。ただ、酷く懐かしい呼び名に驚いた」 何時だったか、もう思い出せぬが、そう呼ばれていたような気がする――嵐王は口の中だけで小さく呟いた。 そんな嵐王の肩を叩き改めて、宜しくと緋勇は笑う。 そこへ背後から不機嫌そうな声が飛んできた。 「おーい、そろそろ町に行こうぜー?」 声と同じくらい不機嫌な顔をした風祭だった。 「む。わしもそろそろ実験に戻らなくてはな」 「ああ嵐王、引き止めて悪かったね」 「いや……緋勇殿、からくりに興味があるなら何時か工房を覗きに来るといい」 「ああ、そうさせて貰うよ」 では、さらば。 言い置いて鳥面の男は風を纏いその場から姿を消した。 風祭はぽかんと口を開けてそれを見送る。 「何だあいつ、自棄に機嫌がいいじゃねぇか」 それに桔梗が賛同した。 「嵐王が自分から『覗きに来い』だなんて、槍でも降るんじゃないかね」 「え、何? それって珍しいの?」 「珍しいも何も! 俺なんか工房に近付いただけですっげぇ迷惑そうな態度とられるぜ?」 「それは坊やが危なっかしいからだよ…」 大方ものを壊されでもするのでは心配しているに違いない。そう言って笑った桔梗に、風祭はぐ、と意見に詰まる。どうやら思い当たる節があるらしい。 「そんな事より! さっさと町へ行かねえと陽が暮れちまうぞ!」 「それもそうだね、じゃあ行くとしようか。たーさんはどうするね? 元気みたいだけど一応病み上がりだし、残っても構わないよ?」 「いや、行くよ。つーか、行かせて下さい。寧ろ今ここで俺を一人にしないで…」 居心地悪げに身を縮ませる緋勇の周りをぐるりと見やれば。 いるわいるわ。 物陰にこっそり隠れた親衛隊予備軍。緋勇に話掛けたくてしょうのない人々の熱烈な視線。桔梗は呆れて肩を竦めた。 「…………神様のお遣いも大変だねぇこりゃ」 「? 何の話だ?」 「…………………………………………………ヒミツ」 「は?」 |