因果 <4>





 通されたのは広い座敷だった。
 奥には既に旦那が座っている。
 小僧っこもその近くにどかりと腰を降ろして、改めて俺を値踏みしているようだ。
 桔梗だけがぱたぱたと忙しく歩き回っている。
 どうやら酒の支度をしているらしい。

 俺は旦那に促されるままにその正面に座った。
 正座なんてしない。
 固ッ苦しいのは嫌いだ。
 許されてもいないのに膝を崩すその態度が小僧っこには気に食わなかったらしい。
 自分だって胡坐なくせして。
 しかし何か言う前に旦那がそれを制した。

「もう分かっているようだが、改めて名乗ろう。我らは鬼道衆。江戸の闇に潜む鬼だ。そしてここが、その鬼の隠れ家、鬼哭村という。徳川幕府に怨みを抱く者たちが集っている。何か、聞きたい事があれば言ってみろ」

 旦那の顔には笑みすら浮かんでいた。
 試されているのか。
 面倒臭い。
 溜息を吐いてがしがしと頭を掻き回した。

 仲間は欲しいが、媚び諂うのは俺の趣味じゃない。

 ましてやこの赤い髪の男を見ているとどうにも嫌な感情が溢れてくる。
 わかっている。
 怨む相手を間違えちゃいけない。
 わかっているが、この感情を殺すには、もう少し時間が必要なのも確かだった。

 何時しか俺の目は、旦那を睨みつけていたのだろう。
 小僧が腰を浮かし、戦闘態勢に入ろうとする。
 しかしこれもまた旦那が制した。

「御屋形様!」
「この赤い髪が恐ろしいか」

 そう聞いてきた旦那の顔は意外なほど穏やかなものだった。
 面食らった。
 そしてまじまじと食い入るようにその顔を見つめる。

 なかなか端整な顔立ちだ。
 切れ長の目は鋭いが何処と無く優しささえ宿している。
 通った鼻筋に引き締まった輪郭。
 物腰の所為で大人びて見えたが、実際には二十歳そこそこかもしれない。

 若く、凛々しく、精悍な青年像そのままである。

 俺は降参の意を込めて両手を軽く挙げ、苦笑して見せた。

「いや悪い。恐ろしいんじゃなくて、憎いのさ。でもそれも旦那の所為じゃない。嫌な気分にさせて済まなかった」
「……まぁ、いい。異形である事には変わらぬからな」
「あ、それ卑屈ー。俺は外見でヒトを判断したりしなーいよ」
「そうか?」
「そうさ」

 旦那は笑った。
 俺も笑った。
 小僧だけが憮然とした顔をしていた。
 だが俺も旦那もそれには敢えて気付かない振りをする。

「あぁ…お前、名は確か…」
「緋勇龍斗だ、好きに呼んでいい。旦那の名も聞いていいか」
「天戒…九角天戒と言う。鬼哭村の主で、鬼道衆の頭目だ」

 俺はこの時、ちょっとした既視感を感じていた。
 いや、既視感じゃない。
 俺は実際、経験している。
 こうして旦那と名乗りあうのは初めてじゃない。

 だがそれは。
 無かった事に、なった。
 全部。
 あいつらと過ごした時も。
 こいつらと敵対した事実も。

 九角、天戒―――。

 口の中でその名前を反芻した。
 鍵を握るのは、俺と、お前、そしてきっと、あいつ、だ。

 これから先、この限りない輪廻を、抜け出せるか、否か。

 二度と、御免なんだ。俺は。
 あんな思いをするのは。
 あんな痛みを感じるのは。

 だから、



「宜しく、旦那」



 言った言葉は、本音からのものだった。



 そこで丁度桔梗が酒を運んでやって来た。
 旦那は俺にもと勧めてくる。
 快く杯を受け取って、桔梗が注いでくれた酒を一息に煽った。
 その呑みっぷりを気に入ったらしい。
 今度は旦那自ら酌をしてくれた。
 俺もそれに倣う。
 そうして暫く酒を酌み交わし、他愛無い会話を交わしていたがある時ふと、旦那は真顔になって俺に問い掛けて来た。

「緋勇、お前は、歴史に記された事柄の全てが真実だと思うか」

 何を聞きたいのか、俺にはわかった。
 そしてその言葉に隠された事実が、鬼の真の姿なのだと、わかってしまった。

「…哀しいがな、歴史とは真実を語るものだ」
「………」
「だが、真実とは常にひとつとは限らない。人の目耳ってのは便利なもので、自分に都合のいいようにしか見聞き出来ないのさ。その結果、握り潰されるのは弱者の真実だ」

 その弱者こそが。
 鬼の正体。

 この村に住む彼らが、普通の人間であるのは、当然か。
 だって彼らは普通なのだ。
 本来なら、誰に憚ることも無く、ただ平凡と暮らすべき人々なのだ。
 その権利を、当然の権利を奪われた。
 強大な力を前に、捻り潰された小さな真実。
 そんな彼らが住む場所だから、ここは「鬼の哭く村」なのだ。

 彼らが望むのは、ただ静かな安息の地。

「人は正義を見誤る」
「そこだ、何を以ってして正義とするか。それは人それぞれだ。だが人はあたかも己の意志であるように刷り込まれた正義を語る。それ自体が罪だとは言わん。真に罪深きはその刷り込みの正義を振り翳し、強要する事だ」
「ではお前は何を以ってして正義とする」
「俺の正義は俺自身だ。俺が俺である事。俺として生き、俺として死ぬ事。その信念、その誇り」
「信念など容易く折れる」
「そしたら俺は死ぬだけだ」
「それほど命は軽いのか」
「それほど誇りが重いのさ」
「では例えば、大切なものを失うとしたら、それでもお前は信念を貫き通せるか」
「大切なものなら、もう失くした。それでも、俺は生きている。生きている限りは貫かなきゃならないものが、今の俺にはある」
「大切なものは、もう二度と、戻らないとしてもか」
「可笑しな事を言う。戻る可能性があるのなら『失くした』なんて言い方はしないさ」

 沈黙が訪れた。
 それまでの打てば響くような問答はここに来て途絶えた。
 鬼の頭目は瞑目し、苦い息を吐き出す。

「………すまない」
「あん?」
「試すような事を言った。お前の傷を抉った」
「仕方がないでしょ。俺は新参者なんだし?」
「それでも、すまない」
「可笑しなお頭さんだねえ。昨今の鬼は随分お人好しなんだな」
「おいお前」

 今まで黙って座っていた小僧っこが苛立ったように畳を叩いた。
 そういえばまだ居たんだね小僧っこ。

「さっきから聞いてれば、御屋形様に失礼な口利きやがって!御屋形様、本気でこんな得体の知れない奴仲間にするんですか?!幕府の狗かもしれないのに!!」

 あらまぁ警戒心剥き出し。
 それにしても「間抜け」の次は「得体が知れない」かい。
 ったくつくづくいい度胸の小僧っこだよ…。

 しかしいきり立つ小僧っことは対照的に、旦那は至って穏やかな顔で物騒な事この上無い科白をさらりと言った。

「その時は俺が斬る。それだけだ」
「う…」
「坊や、天戒様の決めた事だよ」
「うう…」

 こんな三人を見て、「ほのぼの親子」とか思ったのは秘密だ。

「ああそうだ、澳継。緋勇はお前の部屋に泊めるから、そのつもりでな」
「え…ええぇぇぇぇぇええええ????!!!!!!」




 俺ってば…今晩眠れるかしら…?


















 まぁ、当然だと思う。
 俺は新参者なわけだし、まだ信用を確立する所までいってない。
 そんな俺に見張りとして誰か宛がうにしても、小僧っこが最適なのも、分かる。
 桔梗は女の人だし、旦那は頭目だし。
 他の下忍らに任せる程、俺の腕は見縊られてはいないのだろうが。
 だが、どうなんだ。

「う〜んもう喰えねえよ〜…」

 この熟睡っぷりはどうなんだヲイ。
 お前俺の事怪しんでたじゃないか。
 もっと警戒しろよ俺が幕府の狗だったらどうすんだよ。
 しかもお決まりの寝言ほざきやがって鼻抓むぞこら。

 抓んでみよう。




 むにぃ。




「むぅ〜…?…………ぐう」

 …効果無し。
 潔い眠りッぷり。
 いっそ天晴れ。

 俺は溜息を吐いてするりと蒲団を抜け出した。

 障子を開け、廊下に出る。
 見上げれば、白い月。

 実際、眠りが訪れる気配はなかった。
 どたばたしてて、忘れかけていたが、初めての夜なのだ。
 あれ、から。
 あの、悪夢のような、出来事から。
 眠れる、筈が無い。

 額を押さえた。
 じくりと痛む、生傷の感触。
 蘇る、憎悪。

「どうした、眠れぬか」
「―――――――ッッ!!」

 俺とした事が、どうかしていた。
 背後に立たれるまで気配に気付かないとは。
 しかも不意な事で、咄嗟に振り向いた俺の目に飛び込んだ、悪夢の色。

 眩暈。

「…ッ! 緋勇!」

 よろけた俺に、旦那が手を差し伸べた。
 だがその手を振り払った。
 その衝動で尚の事体勢を崩した俺はそれは見事に転げる羽目になった。
 ついでにそこの柱に強かに頭を打ち付けて。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」
「ひ、緋勇…大丈夫…か?」

 もう痛いやら悲しいやらで涙が出そう…。
 鬼の頭目は心配そうに覗き込んで、

「…俺はどうやら、お前の心の臓に酷い負担を与えるらしいな…」

 そんな事を大真面目に言ってくる。
 つくづくお人好しなのねー。
 痛む頭を擦りながら、気にするなと言うように手を振る。

「克服せにゃならん事だから、気を遣わなくていい」
「と、言われても度々卒倒されては俺も傷付くぞ」
「ゴメンナサイ気をつけます…」

 しょんぼりと頭を垂れた俺に小さく吹き出す。
 クスクスと笑いながら慎重に手を差し伸べてきた。
 今度は振り払うような真似はしない。
 その手を取って、立ち上がる。

「やはり、鬼と呼ばれている者の住処ではゆっくりと休めぬか?」

 旦那の目がからかうように笑っている。
 そう俺ってば繊細だからと軽く返した。

 本当は、眠りたくないだけだ。
 眠れば、きっと夢をみる。
 あの、赤。
 目を閉じただけで蘇るあの戦慄が、俺の夢を侵さないわけがない。
 冗談じゃない。
 冗談じゃない。
 例え夢でも、もう二度と、見たくはない。
 そんな恐怖に、耐えられるわけがない。

 狂ってしまえば幾らか楽か。

 だがそんな事すら今の俺には許されない。
 俺は壊さなきゃいけない。
 繰り返させない為にも、俺は生きて、壊さなきゃいけない。

 輪廻。

 狂えない。
 この、身を裂くような痛みにも。
 だから、眠れない。



「…緋勇…お前もしや…」


「待った」

 旦那が何か言い掛けるのを圧し止めた。
 耳を澄ます。




 聞こえない、声が聞こえた。

 今。

 風が鳴いた。




「何か、来る」
「何…?」
「来るぞ!旦那、急げ!!」




 駆け出した。

 嫌な予感がした。










 風の声が、不吉だった。