因果 <2>




 雨は少しの止む気配も見せず。
 遠慮も何もあったものではないほどに大地を叩き続ける。

 そんな中。


「そうかい、あちこちを旅して回ってるんだ」
「そう、前は備前にいてね、いやぁあそこの饅頭は絶品だったよ〜。後あそこは別嬪さんが多いんだ。あ、もしかして姐さんも備前の出?」
「何調子のいい事言ってんだい。褒めたって何も出やしないよ」

 俺は桔梗と自棄に気が合っていた。

 いかん。
 何をやっているんだ俺は。

「あははッ、あんた面白いねぇ、生まれは何処なんだい?」
「さぁ〜…物心付いた時にはもうあっちこっちフラフラしてたから、わからんのよコレが」
「ははぁ…何か複雑なんだねぇ」

 そう色々と複雑なんだよなぁ…と。
 言ってから心の中で全くだと嘆息した。
 丁度そこへ。

「楽しそうじゃねえか。俺も混ぜてくれよ」

 やたら小物っぽい男が話しかけてくる。
 卑下た笑い方だ。つーかこのオッサンもどっかで見掛けた事があるような無いような…。

 まぁ、今の俺の記憶なんて絡んだ糸の如くだ。
 気にする必要もないだろう。
 所詮小物だし。

「あたしは構わないよ。そっちの姉さんもおいでよ」
「いいんですか?」
「たまたまこんな雨に降られて、たまたまこんな山小屋に居合わせて、これも縁さ。お坊さんもどうだい?」

 奥で未だに地響きを発する坊主に桔梗は話しかけるけど…。
 無理だな。
 案の定、何の反応も示さない坊主に桔梗は呆れた表情をして見せた。
 小者っぽい男も「ほっとけよ」と諦めの仕草。
 どうやらこの男もあいつに話しかけようとして挫折した口らしいな。

「ところであんたたちは、どうしてこんなところに?」

 誰ともなしに、桔梗は俺たちを順番に見る。
 先ずは赤い着物の女からだ。
 すると女は少し困ったように苦笑して、ほんの少し頬を染めた。

「実は江戸に行く途中で道に迷ってしまって…この小屋を見つけたのは幸いでした…」

 次に答えたのは小者っぽい男。
 なにやら得意げに胸を張って言った。


「俺はな、この辺りに鬼が潜んでるんじゃないかと睨んできたんだよ」


 鬼。
 その言葉を聞いた途端、桔梗の纏う空気が変わった。
 見た目には何ら変わりは無い。

 だが俺は見逃さなかった。


 キラリと光った、眼。



「鬼…って、今江戸を騒がせている…?」


 赤い着物の女が怯えたように眉を寄せた。




 鬼道衆と、呼ばれる者たちがいる。
 自ら鬼を名乗り、鬼の面を被る酔狂な連中だ。
 その正体は幕府が手を尽くすも已然謎に包まれている。
 彼らは徳川に仇をなす。
 ひたすらなるそれは、憎悪と呼ぶにも生易しい。
 何かを求めているのか。
 否。
 何も求めてはいないのだ。
 徳川は彼らにとって最も忌むべきものであって、希望を見出すものではない。

 彼らは江戸の闇に潜む。
 そして狙っている。
 静かに、息を潜めながら。

 徳川の咽喉笛を喰い千切る瞬間を。




 男は声を潜める。
 そうさ。男は言った。
 こんな深い山の中なら、奴ら…鬼道衆と呼ばれる鬼の一味が隠れ住むにはもってこいだと。
 桔梗は興味深げに「まあそうだろうね」と相槌を打っている。
 白々しいな。
 唇は綺麗に弧を描いていても、その眼は欠片も笑っていない。
 だが男はそんな事にはちっとも気付いていなさそうだ。

 やれやれ、過ぎた好奇心は身を滅ぼすって知らないのかね。

 男は興奮してべらべらとしゃべり続けている。
 幕府はそいつらの事を躍起になって探している、とか。
 うまく見つかれば褒美に一財産はくだらねぇとか。
 挙句の果てには俺たちに向かって一口乗らねぇかと言ってきやがった。

 馬鹿な男だね。
 洒落になるのは今だけだ。
 この世には人間の踏み入れちゃならない場所、見ちゃいけないものってのがある。
 それを知らないのは無知であり、そしてそれは時として罪となる。
 世の中色んな人間がいるもんだよ全く…。

 忠告してやってもよかったが、突然襲ってきた額の疼痛に俺は已む無く開きかけた口を閉じた。





 激しく脈打つような、それ。





 歯を食い縛って、痛みをやりすごす。
 痛くない。
 痛くはないさ、この程度。
 こんなもの、うしなう痛みに比べたら、何だっていうんだ。
 痛くはない。
 痛くはない。

 本当に、本当に痛いのは。









 視界を、染める。




 赤。










「兄さん?」

 呼ぶ声に、はっと顔を上げる。

「大丈夫かい?」

 桔梗がこちらを覗き込んでいた。
 額を軽く押さえながら、俺は笑った。
 平気だと言うと、そりゃよかったと鈴のなるような声で笑い、腕に抱えた三味線を爪弾いた。

 ベベン、

 張りのある音を響かせて、桔梗は高らかに唄い上げる。


『晴れて雲間に月の影』

『いつか願いも叶うだろう』


 その声の、なんと妖美な事か。
 すっかり上機嫌になった男がやんやと囃し立てている。
 桔梗はその男を軽くいなして笑った。

「どうだい? 少ぅしは気分がよくなっただろう?」
「とっても夢心地…」
「あっははは! また寝られちまったらこっちが詰まらない。起きてておくれよ」
「ち。寝てていいぜお前ぇなんて…」

 そこで俺は気が付いた。
 ひとり、足りない。
 赤い着物の女がいなくなっている。
 行方を尋ねると残った二人が交互に答えた。

「それが、さっきね、戸を叩く音がして…」
「あー、俺たちは止めたんだがよ」
「でもあたしたちみたいな場合もあるからって、ひとりで見に行っちまったんだ」
「………ふぅん…?」

 戸を叩く音…?
 そんなの、入り口からちょっと見ればそれですむじゃないか。

 訝しんでいると、桔梗がまた、三味線を弾いた。

「に、してもこうも遅いと心配だね…この辺は色々と物騒だから…」
「物騒?」
「そうさ、この辺りには、鬼が出るらしいからね」

 自分の睨みが正しかったと、男は喜び勇んで話に飛び付くが、桔梗は冷めた目できっぱりと言い放つ。
 違う、と。
 倒幕の志士でも、何処かの兵士でも、鬼の面を被った、ヒトの事でもない。
 そんなものでは、なく。

 本物の鬼が。

「本物の…鬼だって…? そ、そんなの、眉唾物だろ?」
「さぁねぇ…あたしはまだ見た事ないけど、ここいらの人間は皆噂してるよ」
「………」
「鬼は人に紛れるものだって言うし…人間そっくりに化けるとも言う。もしかしたら、ここにいる誰かもそうかもしれないね」

 はたして。
 真の鬼とは何を指し示す。
 人ならざるものか、否か。

 彼女の言葉は真実を巧みに覆い隠す。

「やれやれ…本当に何処まで行ったのやら…ちょいと様子を見に行ってみるかねぇ。兄さん、ひとりじゃ不安だからついて来ておくれよ」
「…あぁ、いいよ」




 来たか。

 何が来たのか。
 まだ、わからない。
 だが。

 輪廻は確実に、巡り始めている。




 不満そうな男と、未だこちらに背を向けたままの僧侶を残して、俺たちは小屋を出た。

 地鳴りのようだった僧侶の鼾は、何時の間にか消えていた。







 雨が、強く、強く。

 地を、殴りつけていた。





















「何処まで行ったんだろうねぇ、あの姉さん」

 降りしきる雨の中、張り上げるように桔梗は言った。
 そうだなと、当たり障り無く返した。
 本当は。
 知っている。
 幾ら探しても、彼女が見つかる事は無いだろう。

 桔梗が俺を外に連れ出したのは、口実だ。

 罠にかけたつもりか。
 俺を。

「兄さん」

 振り返らぬまま、桔梗は静かに、俺を呼んだ。
 不思議と、その声は雨音の合間を縫って、鮮明に、俺に届く。

「兄さんは、何を知っているんだい?」

 穏やかな声だった。
 優しくすらあった。

 だが。

「何を、知ってしまったんだい?」

 静かな声色に含まれる、僅かな妖気。
 立ち上る、陰の《氣》を、俺は見た。

「すまないね。鬼の住処、知られるわけにはいかないんだよ」


 ざわり。

 ざわり。




 ざわり。






 風が騒いだ。
 木々が鳴く。
 ゆらりと振り向いた桔梗の背後から、ぬうと現れたあれは。



 鬼。



 ひとつ、ふたつ、みっつ。
 禍々しい陰の《氣》。
 岩のように大きな体を揺すりながら、泣き続ける空に、叫ぶ。


 オオオォォォォォォ……

 オオオォォォォォォン……


「困ったね、兄さん。こんな雨の中じゃ、悲鳴も聞こえやしない」

 桔梗は微笑んだ。
 それはそれは綺麗に。
 毒々しいほど、美しく。

「短い間だったけど、楽しかったよ」

 それが、合図だった。

 異形が、襲い来る。





 罠にはめたつもりか。

 俺を。









 この程度で。















「駄目だね、姐さん」

 勝負は、一瞬でついた。

「この程度じゃ、俺は殺せない」

 右手に鷲掴んだ鬼の髪。
 自分よりも数倍の体重はあろうかという鬼の体を引っ提げて、俺は笑った。

「そんな……」

 桔梗の顔は見るからに青褪めていた。
 そりゃまぁ…そうだろうな。
 ポイと鬼の体を投げ捨て、苦笑しながら肩を竦めた。

「そんな、バケモノ見るみたいに、見ないでよ」
「……っ、」

 何か言いかけた桔梗の言葉を遮るように、男の声が届いた。

「鬼を倒すか…なかなかの腕のようだな」

 俺は咄嗟に、声の主を、見た。























 赤。

























 赤い、髪。
























 ズクリ。

 痛む、焼ける、この感情は。


 毒。








 違う。
 違う、奴じゃない。
 疼くな。
 痛むな。

 怨むな。

 呪うな。


 俺が殺したいのは、こいつじゃない。









「あの鬼たちは山氣で創ったものだ。実像があるかと問えば、否。しかし虚像かと問えば、それも否。生半可な技では倒せよう筈もないが………その技、《氣》を操るか。何者だ?」
「………………」
「答えぬか。まぁそれもよかろう。どうせ直ぐに死んで貰う事となる」
「…………………き、」
「…………?」
「気持ち悪………」
「は……………?」
「…………ひーちゃん一生の不覚ぅぅぅ………」



 視界が、反転する。









 ばたり。










「…………え?」










 すまない。
 時を紡ぐ少女よ…。

 俺ってば役目を果たせずここで朽ち果てるかも…。

 よよ落涙…。































「…何なのだ、この者は…」
「そういえば、山小屋でもずっと具合悪そうにしてたねぇ…」
「………参ったな…無抵抗の者を殺すわけにもゆかぬし…」
「何だったら、仲間にしちまうのはどうだろう…腕も立つし、胆力も充分じゃないか」
「ふむ…話をしてみたのだろう? 幕府と繋がりがあるように見えたか?」
「いいや。どうやら只の流れ者のようだよ。幕府の犬とは到底思えない」
「なら…問題はないか」
「本当かい? よかった…本当は殺しちまうのはちょっと気が引けてたんだ」
「ほう…珍しい。惚れたのか?」
「ふふ…莫迦言ってんじゃないよ」





 緋勇龍斗。

 本人の与り知らぬ所で、拉致、決定。