あの悪夢のような戦から戻り、数日が経っていた。
 その間に昌幸の葬儀は済み、幸村が真田家当主を襲名する事が決まった。忍屋敷で静養していた穴山小介はその事実を何処かぼんやりと、それこそ夢の中の出来事のように聞いた。

 あの人が死に、あのこどもが当主に。

 絵空事のようだった。何時かそんな日が来るのだと思っていた。けれどその時はきっと自分はいないだろうと思っていた。自分より先に主が死ぬなど、可能性すら思い浮かべていなかったのがいっそ不思議だった。
 戦の中負傷し思い通りに動かない足を、何度か斬り落とそうとした。主も守れぬこの足に価値などない。だがそうする度に主の顔がちらついた。ひょっとしたらあれは本当に夢で、今にも主が血相変えてここへ飛んで来るのではないか。浅ましい期待と昏い未練ばかりが募った。

 そんな惰性のような夢から覚めたのは、幸村が忍屋敷を訪れた時である。
 昔から、幸村は度々こうして忍屋敷を訪れる。身分のある武士が足を運ぶような場所ではないと何度言い聞かせようと、聞き入れられた試しがない。これは前の主の影響と言ってもよかった。何かと忙しかった真田家前当主は、次男坊の世話を下女ばかりか、忍にまで押し付けたのだ。赤子という生き物に免疫のなかった当時の忍隊は上へ下への大変な騒ぎになった。百戦錬磨の忍たちがほんの小さな赤子相手に四苦八苦している様は、それはそれは滑稽な姿だったと今は思う。転がしておけばよい、と言った主の言葉通り、忍たちはこの屋敷で赤子をころころと転がして遊ばせていたのだ。お陰で子供はこの屋敷を遊び場と勘違いしていた時期が、確かにあった。考えてみたらまずいのではと当時の忍頭が気付いたのは子供が齢十を超えた頃だった。
 忍たちの涙ぐましい再教育のお陰で元服後では流石に忍屋敷を遊び場にする事もなくなったが、変わらず気軽にやって来る。その度に、もう童子ではないのだから分別をおつけくださいと嗜めるやりとりは常例化してしまった。
 だがこの日、当主となってから初めてここへ足を運んだ新しい主に、その言葉が言えなかった。何も、言えなかった。
 やつれた顔。疲れの滲む目元。それでも表情だけは凛としていて、それが無性に寂しかった。
 そこにいたのはもうただの子供ではなく、一族を背負った長だった。
 そして漸く理解した。

 あの人は本当に死んでしまったのだ。

 笑おうと思った。自分は何時も笑っていた筈だ。僅かばかり火の気を帯びる小介は強い火性の赤子の傍に行くと誘発される事があった。普段はあまり近寄らないように心掛けていたが、赤子の火性が暴れ出した時に側に在る事が出来るのは小介だけだった。赤子のあやし方など知らなかった。笑うと笑い返してくれるのだと知り、笑い方を覚えた。
 笑うべきだ。この子はきっと今、大きな不安を抱えている。笑って安心させてやるべきだ。貴方はひとりではない、皆が支える、どんな事でも力になる、そう言って笑ってみせるべきだ。
 だがそれより先に、当主の顔で子供が笑った。

 案ずるな、真田は、某が守る。

 涙が溢れた。違う、そんな事を言わせたかったわけではない。そんな顔をさせたかったわけではない。そんな風に、急に大人にならなくてもいい。貴方はまだ子供なのに。
 気付けば謝罪を繰り返していた。守れなくて御免なさい、無力で御免なさい、生き残って御免なさい、抱き締めてくれるその小さな背に、縋ってしまって御免なさい。
 子供の熱を感じながら、小介は涙を流し続けた。


 あの時小介は誓ったのだ。今度こそ、命を賭して主を守る。二度と、見送る立場にはならない。
 だがその誓いを嘲笑うかのように、主の危機に自分はやはり無力だった。




「納得致しかねます」

 すり鉢から奇怪な音を発生させながら憮然と呟いた小介に、幸村は目を見張った。
 太陽が僅かばかり中天を過ぎた時分の、忍屋敷での出来事である。
 あの夜、力尽きるように再び意識を手放した海野の様子を見に、主は忍屋敷を訪れた。ちょっと小言を言いたかった小介は丁度いいとばかりに主を招き入れた。普段極力触らない茶具と格闘しつつ淹れた茶を主の前に置く頃には、主も不穏な気配を感じとっていたらしい。訝しげな顔をして首を傾げている。
 何か怒っているのか、と訊ねる主は流石だ。今浮かべている笑みが普段と異質なものである事は容易に察しがつくらしい。出来れば理由も察して欲しかった。
 小介は口元に笑みを張り付けたまま、薬棚から取り出した素材をすり鉢の中に放り込んだ。そこから何だかよくわからない音がひり出される頃に、前途の台詞である。
 幸村は手を伸ばせば届く距離にある小介の顔をまじまじと見入った。先まで確かに浮かべていた筈の笑みは消え失せている。珍しい事だった。

「ひょっとして、猿飛の事か」
「ほう、他にも何かお心当たりが御座いますか」
「どうか。お前たちはいつも某の思いも寄らぬ怒り方をするからな。だが、そんなに気にする事か?」
「あの男は危険です。貴方が無事だったのは結果に過ぎません。もしもの時、今のわたくしどもでは貴方を御守りする事が出来かねます」

 小介の手元で「ギョ」と音がした。声に聞こえなくもない。不気味だ。

「お前にそこまで言わせしむるとは、本物らしいな、奴の腕は」
「嬉しそうに仰らないでください」

 正体のわからない液体を注がれたすり鉢の中から「ヒィィ」という音。もう悲鳴にしか聞こえない。
 この怪奇現象、恐ろしい事に小介の常である。そして更に恐ろしい事に、視覚と聴覚と味覚に多大な痛手を与えるソレだが、効果は絶大なのだ。薬湯も塗り薬も小介の作ったものはよく効くと評判だった。当人は不器用なものでこういったものしか作れないと照れ臭そうに言うが、そういう段階の話ではない。逆に器用だ。

「お前たちはあの男を随分と警戒しているようだが、某は杞憂だと思うぞ」
「お言葉ですが、甘いと申さざるを得ません」
「では逆に問おう。あの男が某に害なすとして、その理由はなんだ」
「……」
「あの男は某を疎ましく思っているようだがそれは理由にはならぬのではないか。何故なら彼奴は忍びだからだ。忍びは無慈悲だが残虐ではない。理由もなく、いたずらに人を殺めたりはせぬ。無論任に必要であれば躊躇いもせぬだろうが、その必要があったのならあの時既に某は首を取られていた筈だ」
「…しかし、しかしそれは、当たり前の忍びであればこその前提です。あの男もそうだとは言い切れません」
「あの男はお前たちを殺さなかった」
「……」
「あの時既に、ここに仕える気などなかったに関わらずだ」

 気に食わないと言ったのだから、当主もその忍も殺して出ていってもよかった。またそうするだけの実力を男は持っていた。
 主の言っている事は、恐らく的を得ている。現段階で、あの男が主に牙を剥く事はないだろう。忍びとはそういうものだからだ。理由がなければ動かない。腕が立つ忍び程、それは徹底してると言っていい。忍びは外部から与えられる任を遂行する道具であって、殺戮者ではないのだ。
 それを理解していながら、納得は出来なかった。それが何故なのか、小介は薄々気付いている。恐らく、才蔵があの男を厭う理由の根底も同じ筈だ。

「あの男は恐らく、悲しいほどの忍びの性を持って生まれたのだろう。だが奴の性質がそれと感じさせぬ。なまじ腕が立つだけに尚更それが、人の目に奇異と映るのであろうよ」
「貴方の目には、いかように映りますか」
「さて、どうか」

 問いには答えず、幸村は呵々と笑った。
 小介は視線を手元に落とす。じっと俯いたまま主に気付かれないように吐息をこぼした。

「忍び相手に、あまりお気を許されますな」
「何、陰謀を巡らす事にしか頭を使わぬ謀略家などより、お前たちの方がよほど清廉であろうよ」
「…殿」
「まあ、そういきり立つな」

 主は小介の手元からすり鉢を取り上げ、得体の知れないその中身を椀に移した。そしてそれを一息に飲み干す。
 味は酷いが、材料を見る限り滋養の薬だ。やつれ顔の当主を慮り作られたものなれば口にする事に躊躇いはなかった。空になった椀を床に置き、立ち上がった主は己を見上げる忍びに口角をつり上げて見せた。

「死ぬ時は死ぬ。某もお前たちも、あの男もな。今回の戦で、それがよく身に染みた。だが今は生きている。生きている内は、這いずってでも生きる。利用出来るものは利用するさ。力を貸してくれると言うのなら有難く借り受ける。誰が、大人しく死んでなどやるものか」

 そんな顔をして見せると、前の主に本当によく似ている。それを見ていられなくて、小さく笑い返した小介は再び顔を俯けた。