忍屋敷を出た所で、呼び止められた。
 屋敷の存在を覆い隠すように茂る木々の合間に、その姿はあった。
 甲賀のはぐれ。猿飛の佐助。つい先日二年の契約で真田に雇われたばかりの忍びである。
 男は不機嫌な様子を隠そうともせず、じっとこちらを見下ろしていた。

「なあ、伊賀の才蔵。アンタ、本当にあの主に仕えてんの」

 返事はしなかった。視線だけは外さず、この男の一挙手一投足を見逃さないよう努めた。

 甲賀の里の二匹の異端の話は、草の間では有名だった。
 人とは思えぬ力を用いるその二匹は、忍びとしての腕は一流、だがその在り様が異常であると言う。心を殺すが故の忍び、ただ与えられた任を遂行するだけの道具であるが故の忍びにあって、その行動は自己の意志に基づき、その手綱を握ることは誰にも叶わぬと。
 いかように腕が立とうと、それでは忍びとして欠陥品としか言えない。持ち主の手すら切りかねぬ刀は武器とは呼べないのだ。
 現に里を捨てた異端の一は、未だに里から追われる身であると言う。里抜けは大罪だ。だがそれ以上に、この異端の存在が驚異なのだ。飼い慣らす事が出来ないのなら消すべきだという判断は当然と言えた。
 身中に取り込むには危険すぎる。だが雇い入れたのは主の命だ。逆らうわけにはいかない分、自分たちが目を光らせておくしかない。主の害となるなら、主の命を違えてでもこの男を排除する。例え刺し違えたとしてもだ。そうする事に躊躇いはなかった。

「そんなに睨まれると穴開きそうだな」

 男はそれがわかっていて尚、意にも介さず鼻を鳴らす。嫌に人間臭い仕草が鼻についた。

「金で雇われてるだけ…って割には必死だったねえ」
「…何が言いたい」
「別に?忠も義も持ち合わせていない筈の伊賀者を、よくもまあここまで飼い慣らしたもんだと思ってね」
「……」
「伊賀の芸風が変わったの?あんなガキの何処がそんなにいいわけ?ああそれとも、よかったのは前の当主様?主を守りきることが出来なかった代わりに、その忘れ形見を守ってやろうっての。金払いが悪い訳じゃなさそうだけど、先の見えてる泥船だ、よくもまあ居続ける気になるもんだね」
「よく動く口だな」

 発した声は自分が思うよりも重い毒をはらんでいた。才蔵は今はっきりと、この男に対し不快感を感じている。滅多にある事ではなかった。
 才蔵の目に浮かんだ明らかな敵意を感じ取ったのか、木の上の男は大仰に瞠目してみせる。

「性分でね。何、怒ったの?」

 その声は何処となく楽しげでさえあったが含まれた嘲笑を誤魔化そうという気はないらしい。

「別に伊賀者を見下して言ってるわけじゃないぜ。アンタたちの感性に俺様は共感してんだ。他人の為に体張るなんて馬鹿げてるし、ご主人様に仕えて死ぬまでこき使われるなんて真っ平。他からどう思われたって、自分が生き残りゃそれでいい。実際俺様は里を出てからそうやって生きてきたからね。ただ、アンタ程腕の立つ伊賀者が、命張ってあのクソ生意気なガキ守ろうとしたのが単純に疑問だっただけさ」

 行動は早かった。無数の苦無が風を斬り裂き男がいた場所に突き刺さる。いきなり何すんの、と言った男は先までいた枝よりももっと上に平然とした顔で腰を降ろしていた。
 当然当たるとは思ってはいなかったが無意識に舌打ちが漏れる。

「…貴様が伊賀者をどう思おうと勝手だが、それ以上その軽い口で我が主を侮辱するな」
「アンタのご主人様は真田昌幸だろ。もう死んじまったじゃないか」
「…ひとつ教えてやろう。確かに我ら伊賀者に忠義など存在しない。だが、情がないわけではない。貴様と違ってな」

 吐き捨て、才蔵は男に背を向けた。これ以上この男の姿を視界に留めておきたくなかった。
 その背を心底不思議そうな―――今の才蔵からすれば神経を逆撫でるような―――声が追う。


「アンタさ、変わってるって言われない?」

「貴様に言われたくはないわ!」



 後に彼は語る。
 霧隠才蔵の人生において、意図せず声を荒げるなどという忍びにあるまじき言動は誓って初めての体験であったと。