来訪者に気付いたのは、細く弧を描く月が真上に差し掛かろうという時分だった。
 燭台の火が不規則にぶれている。蝋の残りが少ない。だが替えの灯りがない事に、その時初めて気が付いた。

「幸村様、灯りを替えに参りました」

 襖の向こうの声。
 幸村の身の回りの世話をよくしてくれる下女のものだ。だが幸村は僅かに逡巡した。
 家人が灯りを取り替えに来る。何て事はない、日常によくある光景だ。それの何が、何処に引っ掛かったのか、己にすら知れぬ本能が些細な違和感を訴える。
 返事をせずに襖を開けた。入室の許可を待っていた下女は一瞬驚いた顔をして、だがすぐに恭しく頭を垂れる。
 幸村はその女の仕草のひとつひとつを注意深く見やった。何処にも可笑しな所はない。いつも通りの無駄のない洗練された動き。だと言うのに違和感は膨れ上がるばかりだった。
 幸村は脇差を抜いた。

「幸村様…?」

 突き付けられた白刃。女は驚愕の眼差しを主に向ける。何故、という戸惑いと恐怖。その様子は作ったもののようには思えない。目で見る女は確かに、自分のよく知るものの筈なのに感覚がそれを否定する。

「貴様、その姿の、本来の者をどうした」
「へええ、こいつは驚いた」

 男の声だった。そして次の瞬間には目の前から女の姿が消失する。それはまさに消失としか言いようのない現象だった。

「変化の術を見破られたの、初めてだよ」
「―――!」

 部屋の中。振り返る。文机の横に、忍装束の男。素早く脇差を構え直すと同時に影がふたつ、降って来た。才蔵の代わりに不寝番をしていた下忍衆だ。嫌な汗が背筋を伝う。今の身のこなし、この来訪者は手練だ。動きを追う事が出来なかった。この下忍たちは殺される。自分でも、敵わない。
 だが脳裏を掠める。
 生真面目な顔を崩さなかった男が己の背に縋り付いて泣いた。
 穏やかな気配と優しい笑みを絶やさなかった男が怯えたように謝罪ばかりを繰り返した。
 ふてぶてしい態度で笑ってばかりいた男が心を毀し生きる事を放棄した。
 汗ばむ掌で柄を握り締める。自分は、彼らを残して死んでは駄目だ。

「まあそう殺気立たないでよ。別に、アンタを殺しに来たわけじゃない」

 信じちゃ貰えないだろうけど、言って男は肩を竦めた。今にも飛び掛かろうとする下忍衆を制し、幸村は慎重に様子を伺った。
 自分を殺しに来たわけではないと言う。確かに今の自分に殺すだけの価値があるとは思えない。昌幸が多くの家臣とともに死んだ事で、真田家は死に体に等しい。未だ無名の幸村が継いだ真田家は、放っておいても害にはならず、蹴落とすだけの価値もない筈だ。現に男には殺気がない。
 では、何をしにこの男はやって来た。男がすぐ傍に立つ文机には書簡が積み上げられている。その中に他国に持ち出されて困るような重要なものはないがやはり気分のいいものではない。しかし男は書簡を気にする所か、本当に持って来ていた替えの灯りを燭台に移してる。男の目的がわからない。それが逆に酷く不気味だった。

「もう一度、聞く。先の下女をどうした」
「あれ、一番気にするのはそこなんだ?まあ、いいけど。別に何もしちゃいない。灯りを替えに行く途中だった彼女を他の姿で呼びとめてお役目を代わって貰っただけ」

 新しく灯された灯り。安定したそれが男の姿を仄かに照らす。
 草木に溶ける忍装束、端正な顔に施された忍化粧、淡い炎を溶かしたような髪の色だけが、忍にしては不釣り合いだと思った。

「他に何か質問は?」
「用がないなら早く出て行け」

 当然、何をしに来たのか、また己は誰なのかと問われると思っていたのだろう、男は強ち演技でもなく目を丸くした。

「ええ?何も聞いてくれないの」
「女の安否を聞いた。無事ならいい。貴様はまだ誰も傷付けてはいない。なれば早急にここから出て行け」
「不法に侵入した曲者を捕えようともせず逃がしちまうの」
「捕えようとして無駄な人死を出すくらいなら逃げて貰った方が好都合。それによって被る汚名があるならば甘んじて受け入れる」
「なるほどね。幼くとも一端の領主様ってわけかい。相手の力量を見抜くだけの目もお持ちたあ御見逸れしました。でも残念ながらちょっと遅かったかなあ」
「何―――、」

 後の言葉は続かなかった。疾風のように近付いてくるふたつの気配、それは狂気染みた殺気を放ち天井を突き破って姿を現した。

「才蔵―――六郎!待て!」

 新しい主の制止も聞かず、ふたりは獣のように男に飛び掛かる。男の口角が吊り上がったように見えた。

「止せッ!」

 礫、雨のようなそれ。次いで苦無。足元、大腿、胴、首、眼球、正確に放たれるその悉くが壁に穴を穿った。呼吸の間すら与えぬ、叫ぶように白刃が翻る。
 衝撃で倒れた燭台は疾うに役目を放棄している。闇の中に、閃く白刃とそれが弾き出す火花。金属のぶつかり合う音と乱れた呼気。ふたりの傷は、浅くはない。あの男には勝てない。
 打撃音。六郎の懐、飛び込んだ男の肘が彼の顎を突き上げた。決して小さくはない六郎の体が浮き、崩れ落ちる。男の動きが束の間制止した。一瞬の隙。見逃す才蔵ではない。寸鉄、確実に急所を捕えたかに思えたがしかし男の体がそこにはない。上。天井に『着地』している。蹴り、身体を捩る。その動きに合わせ天井裏から引き摺り出されるもの。床に叩き付けられ、それは低く呻いた。

「小介…!」

 衝撃から逃れる為受け身を取った才蔵が、飛び出そうとする幸村を止めた。肩で息をしている。傷が痛むのか身体は小刻みに震えその動きはぎこちない。ただ炯と輝く目だけが、激しい殺気を孕み男を見据えていた。

「手負いが三匹、これが噂に聞く真田忍のなれの果てか。惨めなもんだね」

 男は息一つ、乱してはいなかった。腕に絡んだもの―――天蚕糸、小介の繰るそれが先程男の動きを止めたのだろう―――を解きながらつまらなそうに三人を見やる。

「貴様…!」

 男の言葉に逆上した。追随するものを守る為自分が謗られるのは厭わない。だがその彼らが嘲弄されるのを黙って聞いているつもりはないのだ。だが幸村が才蔵を押し退けるより早く、怒りに満ちた咆哮が上がった。
 地の底から響くような怨嗟の雄叫び。脳を揺さ振られ立つ事さえままならない六郎がそれでも身体を起こそうとしていた。最早人間のものとは思えない唸り声。焦点の定まらない眼光には憎悪だけが満ちている。彼らにとり忍隊を侮蔑される事はそのまま、昌幸を侮蔑されるに等しかった。それだけは、許してはならない行為だった。

「それでも忍なのか、アンタ」

 先までの男とは別人なのかと思う程、その声は冷たかった。忍が心を持ち、その心を主に傾倒させ、挙句狂気に侵されるなど、愚行としか思えないのだろう。声以上に、冷ややかな眼差しが六郎を射抜く。
 そのふたりの間に身を滑り込ませる影があった。

「主…ッ」
「皆、動くな」

 静かな声に含まれる威圧感に、三人の忍の動きが止まった。

「貴様は、某を殺しに来たわけではないと言った。他の者を、傷付けるつもりもなさそうだと思った。だから早く出て行けと言った。だが貴様は皆を傷付けた。ならば某は聞かねばならぬ。貴様は誰で、何をしに来た」
「やれやれ、やっと聞いてくれたか」

 憤りを押し殺した声色に男は飄々と肩を竦めた。だがその目の冷たさは変わらない。

「忍の名前なんざ、あってないようなもんだけど、一応佐助と名乗っているよ」
「佐助、だと」

 男の口にした名に反応を示したのは才蔵だった。視線だけで、知っているのか、と問う。

「甲賀の里のはぐれがいると聞いた事があります。確か、猿飛という異名の」
「当たりだよ、伊賀の才蔵」
「はぐれが、ここに何用だ。何処ぞの武家に雇われているという風体でもなさそうだが」
「そう、俺様今は主なし。路銀も尽きたんで、そろそろ食い扶持でも探そうかと思ってた所にここの噂を聞いてね」
「雇われに来たと?」
「そのつもりで、どんな所か探りに来たけど」

 男は一度、言葉を切った。その場にいる忍たちと、最後に幸村を一瞥するとつまらなそうに首を振る。

「止めた。ここの忍ときたら忍とは思えない程暑苦しいし、主様はとんだ甘ちゃんだ。飯事に付き合う趣味はないからね」

 男の言葉に迸る憤り。三人の忍が再び男に飛び掛かろうとする。

「某が言うのも何だが、お前たちも大概短気だな」

 三人の動きを止めたのは思いの外力の抜ける幼い主の言葉だった。握ったままだった脇差を鞘に納め、見守る忍たちを余所に幸村は深く思案する。

「今は猫の手も欲しい」

 ぽつりと零した言葉に、男は片眉を吊り上げた。

「猫の手…?」
「二年でどうだ」

 そんな男に構わず幸村は続ける。二年間だけの契約をしないかと。

「報酬はこれだけ出そう。期限が来たら、あとは好きにするがいい」
「…俺様の腕を、その場凌ぎの繋ぎに使おうっての…?」

 それは男の自負心を問答無用で斬り付ける申し出だった。飄々たる態度の下、明らかな怒りが滲んでいる。

「ここが気に入らないと言ったのはお前だ。だがこちらとしては、人手が足りないのは事実だからな。取引だ。お前は二年、食い扶持には困らなくて済む、こちらは人手を確保出来る、利害は一致している筈だが」
「………」

 ここで男が他を当たると言えば、幸村はあっさりと身を引くだろう。それこそ先のように、殺そうとも捕えようともせず、早くここから出て行けと。ここに仕えるつもりは男にはなかった。黙って帰してくれるなら好都合だというのに、容易に想像つくその事態に無性に腹が立った。

「…わかった、いいよ、その取引に乗ろう」

 欲しいと、言わせたくなった。
 男の実力を思い知った者は皆、その言葉を口にするのだ。その腕を手放すのが惜しい、その腕が他へ渡るのが恐ろしい、それを跳ね除け尚男は生き延びて来た。それこそ、この腕ひとつで。
 この家は、何れは沈む泥船だ。何時までも長居をする所ではない。ここの忍たちは主とともに心中するつもりらしいが、そんなものに付き合う気は男にはない。
 二年、契約が切れる頃、必ずここへ残れと言わせてみせる。そしてそれをせせら笑って去ってやろう。
 昏い決意に舌をなめずるように、男は口角を持ち上げた。