真田の当主が逝った。

 奇襲を受けた友軍を援護する為に向かった先で、その友軍の裏切りにあった。真田昌幸を始め多くの家臣が討ち取られ、真田軍はほぼ壊滅状態となった。

「人手が足りん」

 昌幸の葬儀後、家督を継ぐ事になった真田の次男坊は文机に山と積み上げられた書簡を睨みつけ頭を抱えていた。


 真田の次男幸村は齢十五。
 先だっての戦では後学の為と父の勧めを受け、武田家総大将の傍らに侍っていた。よって難を逃れたが、その事を酷く気に病んでいた。本来、父とともに行動し父とともに果てる命運だった筈なのだ。それなのに真田を背負う父ではなく、未熟な己が生きながらえた。
 己を見失いかけた若いもののふに武田の主は言った。ぬしは誰ぞ。涙で頬を濡らしながら、それでももののふは顔を上げ、答えた。真田家当主昌幸が次男源次郎幸村。主は大きく頷き恐ろしい形相で立ち上がった。なればその涙拭わぬままに儂に続け。
 甲斐の虎と恐れられる武田の主が怒り狂っていた。
 裏切りの代償は大きかった。虎はすべてを食らい尽した。謀反を起こした将、その家臣、弱兵卒のひとりに至るまで徹底的に、そして情け容赦の欠片もなく蹂躙し尚渇き止まぬと吠え猛る。報復は続いた。将の妻子、親類縁者の首は残らず刎ね、晒した。未だ家人が多く残る屋敷に火を放った。屋敷も人も、ただ燃えた。炎は三日三晩燃え続け、黒い煙が生き物のように空へ立ち上った。
 見ろ、これが、虎の怒りを買った者の末路だ。得体の知れない何かがそう、悠然と告げているようだった。
 眼前に晒される、凄惨な光景。残虐な行為。その様を見届け再び主の前に立った時、主は何も言わず幸村の頭を撫でた。幾度となく、ただ撫で続けた。涙が出た。昌幸も、よく泣く男だった。ぽつりと零された主の言葉に余計に涙が止まらなくなった。
 この方について行こう。嗚咽を噛み殺しながら、幸村はかたく誓った。


 だが現実は厳しかった。
 今は徳川に身を寄せている兄が戻って来て継ぐものだとばかり思っていた家督がこちらに回ってきた時は何の冗談なのかと本気で耳を疑った。だが何度確認してもそれは決して冗談や戯言などではなく、あれよあれよと言う間に家を継ぐ事になってしまったのだ。
 引き継いだばかりの仕事は不慣れで、とても一日では捌き切れない。その上父の補佐のようにせっせと働いていた家臣たちは軒並み件の戦で亡くなってしまった。真田が誇る忍隊の面々も然りだ。
 今の真田家には、確実に人手が不足している。

「真田家は某の代で潰えるやもしれん…」

 人は生垣と御館様も仰っていた。文机にぐったりと懐いて呟く独り言は妙に不穏だ。
 家を継いでからというもの、ついて行くと決めたその主に目通りする所か、鍛錬すらもろくに出来ずにいる。生来快活な気性の幸村には耐え難い苦痛だ。じわじわと溜まる精神的疲労。更に知った顔がいくつも消え、募る寂しさと心細さもそろそろ限界だった。

「才蔵、いるか」
「ここに」

 呼び掛けに応える声は天井裏からだ。だが振り返ると既にそこに男の姿がある。
 男は顔の下半分を包帯で覆っていた。右腕には当て木がしてある。腑を痛めたとも聞いていた。満身創痍のこの男は、元は昌幸の忍だ。父の部隊の、数少ない生き残りだった。
 霧隠の異名を持つ、名を才蔵と言った。

「小介と六郎の具合は、どうだ」

 昌幸につき従い戦場に出た忍で、生き延びたのはたったの三人。この才蔵を始めに、穴山小介、海野六郎。同じく生き残った忍たちの様子を問えば才蔵はほんの一瞬、目を眇めた。

「穴山は、脚の傷さえ癒えればもう問題はないでしょう。海野は…」
「…まだ、死にたがるか」
「命を断とうとはしません。だが生きようともしていない。穴山が無理矢理飯を流しこんでいるので、当分死にはしないでしょう」
「後でお前たちの屋敷に顔を出そう。某に、何が出来るというわけでもないが」
「一国の主ともなられたお方が、草の屋敷に出入りなどするものではありません。それに、そのような時間があるなら貴方は休息をとられるべきだ」
「才蔵、言った筈だ。某は嬉しかったのだと」

 昌幸は、忍に好まれる男だった。足軽、更には農民よりも軽く見られる忍の命を、他の家臣たちと同じように、昌幸は慈しんだ。忍たちは皆そんな昌幸を慕っていた。勿論、先の戦で生き延びた三人の忍たちもだ。仕事である以上に、彼らは昌幸が好きだった。命に替えても守ろうとした筈だ。それこそ、死に物狂いで。
 だのに主は死に、己は生きている。この事実が、どれ程彼らを傷付けたか知れない。
 三人の生存者、最初に目を覚ましたのはこの才蔵だった。腕と肋を折り顔と体の数か所を焼き毒で臓腑を痛めていた男は動く事さえ困難だと言うのに、目覚めて最初にしようとしたのは自らの命を断つ事だった。冷静で、感情を曝け出す事のなかった男が、泣き叫ぶように血反吐を吐いた。何故生きている、目の前で主を死なせておきながら、何故この体は動くのだと、それはまるで呪詛の声だった。
 その姿が痛ましかった。それ以上に、愛おしかった。

「お前たちが生きていてくれて、どんなに嬉しかったか、お前たちにはわからぬだろうな」

 ただ抱き締めるしか出来なかった。傷だらけの体を気遣う余裕もなく、しがみつくように抱き締めた。きっとあちこちが痛かっただろう。だが抵抗する動きはなかった。呪詛がやがて嗚咽に代わり、命を絶つ為の凶器を探していた腕がまだ成長途中の細い背を掻き抱いた。
 父が愛し、残した者たち。
 その存在にどれ程心を救われたか、きっと彼らにはわからない。わからなくてもいいと、思う。この気持ちは自分だけのものだ。

「才蔵、某に休めと言う前にお前も休め、ここの所碌に休んでおらぬだろう」
「忍隊も人手不足故」
「某の警護ならいらん。どうしてもというなら下忍をつけておけ。お前とて休まねば治るものも治らぬだろうが」
「こんな身体でも下忍衆よりはいくらか使えます」
「才蔵、命令した方がよいか?」
「………」

 凛とした声、顔立ち、その雰囲気、少しばかり幼すぎる事を除けば幸村は昌幸にとてもよく似ていた。家督を継いでから、否、父を亡くしてから急に大人びたように見える。才蔵は反論の言葉を飲み込んだ。
 自分たちが不甲斐ないから、こんな子供が無理に大人になろうとしている。自分たちが不甲斐ないから、それを諌める事さえ出来ない。そんな資格がない。自分たちは、決してしてはいけない事をしてしまったのだ。この小さな体に縋ってしまった。その瞬間にただ守るべき主の子供は、臣下を庇護する新たな主となった。
 子供が子供でいる事を奪ってしまったのは、きっと自分たちなのだ。ならばせめて支える事くらい許して欲しい。

「眉間の皺取れなくなるぞ」
「……主」
「そんな恨みがましい目で見ても駄目だ。お前を頼りにしているから言っているのだぞ。倒れられでもしたら困る。頼むから、もう休んでくれ」
「……御意」

 不本意を前面に出した是を残して、男の姿は掻き消えた。
 気配が消えるのを見届けた幸村はやがて小さく笑みを零す。その頬を両掌で叩いた。しっかりしなくては、口の中だけで呟く。せめて仕事に慣れてしまえばあの忍の心配事も少しは軽くなるだろう。
 幸村は燭台の灯りが照らす文机と向かい合った。